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感情を失い、経済活動だけを追い求める人びとには、故郷を追われ、家族離散し、希望を失う人びとの悲しみは分かりません。生活に困窮し、苦しむ人びとの姿も見えません。

私たち日本人は3.11で擬似的な体験を含め、多くの喪失体験をしました。
未だに収束の目処も立たない福島第一原発の事故を目の当たりにし、戦後、日本人を突き動かしてきた「経済発展こそが人を幸せにする」という考えは正しくなかったのではないかという、価値観の揺らぎにも遭遇しました。

つまり、人間の自己を支える基本となる価値観や関係性を失うというとても辛い体験をしたのです。

でも、それは私たちの社会が、戦後手に入れた物質的な豊かさと引き替えに手放してきた大切なもの、ひいては人間らしい生き方ができる社会を取り戻すための大きなチャンスでもありました。

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こうした現状を「何も考えていないお役所仕事」「縦割り行政で市民の姿が見えていない」とする批判もあります。でも私の胸には、「本当にそれだけなのか?」という一抹の不安が過ぎります。

もちろん、「お役所仕事」も「縦割り行政」もあってはいけないことです。被災された方々のことを考えたら、どうしようもないほどに愚かで許されざる行為ではあることも確かです。でも「悪気は無い」という意味において罪は多少軽くなります。

でも、もしそれが確信犯だったら? 意図的に被災者を放置して故郷に近づけないようにし、人口を流出させ、無駄に見える大がかりな事業を行っているのだとしたら・・・どうでしょうか。

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感情を失った人びとが、この日本社会を席巻していることは昨今の政治状況や政策を見ていても明らかです。

そうでなければ、放射線によって少なくとも今後4年は帰還できない住民が約5万4千人にも上るというのに(『朝日新聞』3月10日)、平気で原発再稼働などと言えるはずがありません。

住居さえ確保できず、先の見えない生活を送る人びとへの手当を後回しにして、老朽化した道路や橋の再築・修復、学校の耐震補強などを進められるはずがありません。

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岸本裕紀子氏の挙げた例のように、相手を不愉快にさせず、いつでもポジティブで明るい雰囲気を提供する「感情労働」。それを行う対象は、客やクライアントだけではありません。職場の上司であったり、部下であったり、同僚であったりします。

もっと言えば、それは仕事をしている人だけの話ではありません。一昔前、子どもたちの間ではやった「KY」という言葉が象徴するように、学校や幼い頃からの友人関係でも必要とされています。

「感情労働」が要求される場では、あるシチュエーションの中で、当然、人間が抱く「リアルな感情」の存在は許されません。
いえ、「リアルな感情を持つ人間」であることが許されないと言った方がいいかもしれません。

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精神分析の権威として知られる精神科医の小此木啓吾氏は、1979年に出版した『対象喪失 悲しむということ』(中公新書)の「まえがき」で、「今日、悲しみを知らない世代が誕生している」と、次のように記しています。

「死、病気、退職、受験浪人から失恋、親離れ、子離れ、老いにいたるまで、あらゆる人生の局面で、対象喪失は、大規模におこっているのに、人びとは、悲しみなしにその経験を通り抜けていく。対象喪失経験は、メカニックに物的に処理されてゆく。対象を失った人びとは、悲しむことを知らないために、いたずらに困惑し、不安におびえ、絶望にうちひしがれ、ひいては自己自身までも喪失してしまう」(同書iページ)

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ではなぜ、おとなたちは子どもをそんなところまで追い込まなければならないのでしょうか。おとな自身も、本当は感じていたはずの戸惑いや、疑問、さまざまな感情を封印してまで、子どもの尻を叩かなければならないのでしょうか。
何よりも大切なはずの命を犠牲にしてまで、子どもに結果を要求しなければならないのでしょうか。

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あの環境下にいたら、おそらく私も体罰を止めるのは難しかったのではないかと思います。

もし、私が教師だったとしたら、スポーツで学校の名を上げ、生徒の大学進学にも貢献し、校長からも一目置かれている顧問に「あなたのしていることはおかしい」と声を上げるのはかなりの勇気が必要でしょう。

一方、もし私が保護者だとしたらどうでしょう。
桜宮高校に子どもが入り、世間でも「強豪」で知られる部活を子どもが続けるからには、保護者としても一定の覚悟をしているはずです。その心の底には、「子どもに部活動で活躍して欲しい」という思いもあるでしょう。

「うまく行けば大学の推薦がもらえるかもしれない」「将来的にスポーツの世界で食べて行けるようになるかもしれない」などと、きっと考えたことでしょう。

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しかし、学校や体罰を行った顧問、教育委員会に責任を負わせれば体罰事件は解決するのでしょうか?

桜宮高校では、その後バレー部顧問による体罰も報道され(『朝日新聞』2013年1月10日)、記事では同校の校長が「今後は体罰を一掃するため、部活動の顧問以外に悩みを相談できる窓口の設置などをあげた」と書かれていますが、こうした窓口があれば体罰は無くなるのでしょうか?

答えは「否」だと思います。

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話が広がってしまって恐縮ですが、この間、びっくりするようなシンポジウムのお知らせを見つけてしまったので、記しておきたいと思います。

「維新政党 新風」という、最近よく聞くとある政党と見間違うような名前の団体が2009年に開いていた「教育における体罰を考える」シンポジウムの呼びかけには、次のように書いてありました。

大阪市立桜宮高校のバスケットボール部主将の男子生徒が、顧問の男性教諭から体罰を受けた翌日に自殺した事件が話題になっています。

この事件を受け、文部科学省は全国の教育委員会などに体罰の実態調査実施を指示するとともに体罰を行った教員らへの厳正な対応を求める通知を出しました。

マスコミは連日、体罰に反対する評論家やコメンテーターの意見を報道。かつては体罰容認派であった大阪市の橋下市長も、亡くなった生徒の家を訪ねて遺族に謝罪し、その後の記者会見で「考え方を改めないといけない。反省している」と述べるなど(『東京新聞』2013年1月13日)、「体罰禁止」の声が高まっています。