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そして今、最も「発展の影で犠牲になっている」と強く感じているのが3.11の被災者の方々です。

「感情を失った時代」の回にも書きましたが、現実感の無い「景気回復」に浮かれ、実感のない「経済成長」優先の裏で、肝心の被災地の復興は遅々として進んでいません。
少し前にも復興予算の約1.2兆円が公益法人や自治体が管理する「基金」に配られ、被災地以外で使われているとの報道がありました(『朝日新聞』5月9日)。

国の予算審議が遅れ、補助が受けられないため、福島県から避難している方々への支援を打ち切らざるを得ない支援団体などが出始めていたり、過酷な状況下で働く福島第一原発事故の作業員の方々が、契約した派遣会社から契約通りの賃金をもらえない「ピンハネ」は後を絶ちません。

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また、最近、「3.11後の福島とそっくり」と注目されている事件に、日本初の公害事件と名高い足尾銅山鉱毒事件があります

足尾銅山鉱毒事件は、当時のあらゆる技術の粋を集めて行われていたはずなのに、銅山から鉱毒が流出。排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が渡良瀬川流域を汚染した事件でした。19世紀後半(明治初期)のことです。

農作物や皮の魚などに甚大な被害を出し、最終的に政府は鉱毒を沈殿するため最下流地の谷中村を廃村して、遊水池とする計画を決定しました。

この政府の計画に最後まで村民とともに粘り強く反対した衆議院議員・田中正造の名は、だれもが一度は社会科の教科書等で目にしているはずです。

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もし、アメリカという国が躁的防衛を用いて何かを喪失体験を感じないようにしてきたのだとしたら、日本はどうでしょう?

昨今のアメリカナイズされた日本の状況を見ると躁的防衛も多々用いられているようにも思えますが、伝統的には精神分析で言うところの「否認」が多用されているように感じられます。

否認をごく簡単に説明すると「現実に起こった出来事にまつわる苦痛な認識や不安の感情に気づかないようにする心の働き」と言うことができると思います。これはまさに3.11後の日本人の振る舞いそのものではないでしょうか。

4月15日(現地時間)にアメリカで起きたボストンマラソンを狙った爆弾テロ事件から1週間後の朝、延期されていたレッドソックスの試合が再開されたというNHKのニュースを見ました。
番組では、事件でケガをした市民や捜査に当たった警察関係者らが紹介され、人びとが黙祷を捧げていました。

そんなニュースの中で気になったのは、レッドソックスの相手チームであるロイヤルズも「ボストンは強い」というメッセージを込めた「B STRONG」のマークを胸に付けて試合に臨み、顔に「BOSTON STRONG」などと書いた観衆が映っていたことです。「ボストン市民はこんなことに負けず、前を向いて強く乗り越えようとしている」といった主旨の説明も流れていました。

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感情を失い、経済活動だけを追い求める人びとには、故郷を追われ、家族離散し、希望を失う人びとの悲しみは分かりません。生活に困窮し、苦しむ人びとの姿も見えません。

私たち日本人は3.11で擬似的な体験を含め、多くの喪失体験をしました。
未だに収束の目処も立たない福島第一原発の事故を目の当たりにし、戦後、日本人を突き動かしてきた「経済発展こそが人を幸せにする」という考えは正しくなかったのではないかという、価値観の揺らぎにも遭遇しました。

つまり、人間の自己を支える基本となる価値観や関係性を失うというとても辛い体験をしたのです。

でも、それは私たちの社会が、戦後手に入れた物質的な豊かさと引き替えに手放してきた大切なもの、ひいては人間らしい生き方ができる社会を取り戻すための大きなチャンスでもありました。

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こうした現状を「何も考えていないお役所仕事」「縦割り行政で市民の姿が見えていない」とする批判もあります。でも私の胸には、「本当にそれだけなのか?」という一抹の不安が過ぎります。

もちろん、「お役所仕事」も「縦割り行政」もあってはいけないことです。被災された方々のことを考えたら、どうしようもないほどに愚かで許されざる行為ではあることも確かです。でも「悪気は無い」という意味において罪は多少軽くなります。

でも、もしそれが確信犯だったら? 意図的に被災者を放置して故郷に近づけないようにし、人口を流出させ、無駄に見える大がかりな事業を行っているのだとしたら・・・どうでしょうか。

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感情を失った人びとが、この日本社会を席巻していることは昨今の政治状況や政策を見ていても明らかです。

そうでなければ、放射線によって少なくとも今後4年は帰還できない住民が約5万4千人にも上るというのに(『朝日新聞』3月10日)、平気で原発再稼働などと言えるはずがありません。

住居さえ確保できず、先の見えない生活を送る人びとへの手当を後回しにして、老朽化した道路や橋の再築・修復、学校の耐震補強などを進められるはずがありません。

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岸本裕紀子氏の挙げた例のように、相手を不愉快にさせず、いつでもポジティブで明るい雰囲気を提供する「感情労働」。それを行う対象は、客やクライアントだけではありません。職場の上司であったり、部下であったり、同僚であったりします。

もっと言えば、それは仕事をしている人だけの話ではありません。一昔前、子どもたちの間ではやった「KY」という言葉が象徴するように、学校や幼い頃からの友人関係でも必要とされています。

「感情労働」が要求される場では、あるシチュエーションの中で、当然、人間が抱く「リアルな感情」の存在は許されません。
いえ、「リアルな感情を持つ人間」であることが許されないと言った方がいいかもしれません。

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精神分析の権威として知られる精神科医の小此木啓吾氏は、1979年に出版した『対象喪失 悲しむということ』(中公新書)の「まえがき」で、「今日、悲しみを知らない世代が誕生している」と、次のように記しています。

「死、病気、退職、受験浪人から失恋、親離れ、子離れ、老いにいたるまで、あらゆる人生の局面で、対象喪失は、大規模におこっているのに、人びとは、悲しみなしにその経験を通り抜けていく。対象喪失経験は、メカニックに物的に処理されてゆく。対象を失った人びとは、悲しむことを知らないために、いたずらに困惑し、不安におびえ、絶望にうちひしがれ、ひいては自己自身までも喪失してしまう」(同書iページ)

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ではなぜ、おとなたちは子どもをそんなところまで追い込まなければならないのでしょうか。おとな自身も、本当は感じていたはずの戸惑いや、疑問、さまざまな感情を封印してまで、子どもの尻を叩かなければならないのでしょうか。
何よりも大切なはずの命を犠牲にしてまで、子どもに結果を要求しなければならないのでしょうか。