今回の事件で、私が恐ろしく感じたのは、こうした人々の負のエネルギーと、それをあおるマスコミ。そして、マスコミに提供された場を使って、感情のままに容疑者を罵倒する芸能人やそれに類するコメンテーターたちでした。

あおり運転

 2019年8月10日に茨城県の常磐自動車道で起きた「あおり運転事件」が連日、ニュースやワイドショーで取り上げられています。
 容疑者の男性(容疑者)は、「あおり運転」をして車を停止させ、運転手の男性を殴って負傷させた傷害事件として全国に指名手配されました。そして18日、容疑者をかくまったとされる女性とともに茨城県警に逮捕されました。

私も車を運転するので、自分勝手な運転にひやっとさせられたり、割り込まれていらっとした経験は多々あります。今回の容疑者の取った行為が、あおり運転の果てに相手の運転手を何度も殴るなど、身勝手極まりないものであることも明らかです。

 しかしそうは言っても、社会を震撼させるほどの大事件とは言えません。それにも関わらず、なぜこんなにも注目されることになったのでしょうか。

サラブレッド

 2005年に無敗の三冠馬となるなど、中央競馬GⅠで史上最多タイの7勝を挙げたディープインパクトが頸椎骨折のため安楽死となり、7月30日にこの世を去りました。17歳でした。
  
「立てなくなった馬は、安楽死させるしかない」
 
 それは愛馬アサクサ・ショウリを看取った経験がある私にもよく分かっています。

 馬の腸はとても長いため、体を動かせなくなると腸の胎動がすぐに止まってしまいます。そのうえ体が重いので、寝たままだと同じ場所に負荷がかかって内臓が壊死し始めます。いたずらに延命措置をすれば、馬は苦しんで死んでいくことになります。

 7月18日午前10時半すぎ、京都のアニメ制作会社「京都アニメーション」の第1スタジオから出火し、従業員ら男女34人が死亡、34人が重軽傷を負うという放火殺人事件が起きました。

2016年7月26日に神奈川県立の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」に元同施設職員が侵入し、入所者19人を刺殺し、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた事件を超える、平成以降最大の犠牲者を出した事件となってしまいました。

 事件以来、スタジオの外に花束を置き、祈りを捧げる人の姿は止まず、被害者や家族を支援するためのネット募金には、数日で160万ドル(約1億7300万円)以上が集まったと言います。 

 各種報道では、一丸となって数々の名作を残してきたスタッフの尊い命が奪われたことを惜しみ、日本中から、いえ海外からも、亡くなった方々を悼み、アニメ界に与える打撃の大きさが語られています。

薄っぺらな印象論だけが先走っている
 
 この事件でガソリンをまいて放火した疑いのある41歳の男性(容疑者)は、近くの路上で手足や胸をやけどした状態で逮捕され、病院に搬送されました。
 その際、「パクりやがって」と言ったり、「小説を盗まれたから放火した」という趣旨の説明をしたことが報道されるも、「京都アニメーション」(同社)と関係は無く、アニメ会社の八田英明社長は「容疑者が小説を応募して来たことはない」と話しています。
 容疑者は何らかの理由で逆恨みの感情を抱いていたのではないかとも言われていますが、本人が重体ということもあり動機はいまだ闇の中です。

 そうしたなか、容疑者が2012年には茨城県坂東市でコンビニエンスストアに押し入り現金を奪ったとして強盗などの疑いで逮捕・起訴され懲役3年6か月の実刑判決を受けていたこと。生活保護を受けていて、精神的な疾患があるため訪問看護を受けたこともあったこと。大きな音を出したりして隣家の男性とトラブルになったり、警察が対応したこともあったことなどが報じられています。

「親戚」や「かつての同級生」や「刑務所仲間」などの「〜だった気がする」「〜な感じがした」などの薄っぺらい印象論だけが先走っています。

20リットルの携行缶二つ分の恨み

京都アニメーション放火事件に思う

 そんな印象論を鵜呑みにしての発言は控えなければなりませんが、ひとつ言えるのは、容疑者がまいたという「20リットルの携行缶二つ分の恨み」とは相当大きなものだということです。

 事件以前、容疑者は「失うものはない」「余裕が無いんだ」などと言っていたとの話もあります。「いったいどれだけたくさんのものを奪われ、恨みをため込んできた人生だったのだろう」と、彼の41年間について思いを巡らしました。

 よほど「多くのものを奪われた」という感覚がなければ、世界中の人々に夢と希望を与えてきたアニメ会社を破壊し、人から心の支えを奪うなどというマネはできるはずがありません。

ぜひ生い立ちや動機の解明を

 このブログのトップページにも書いたように、私たちはだれもが星屑に過ぎません。

 私も、容疑者も同じです。宇宙のチリとして消えて行くしかないちっぽけな星屑が、「自分は唯一無二の存在」と感じられるためには、チリに過ぎない自分を「かけがえのない者」として受け入れてくれる他者が必要です。

 容疑者の人生のなかにそんなだれかが一人でもいたのかどうか・・・。二度とこんな不幸な事件を繰り返さないために、ていねいな捜査や裁判、何よりも、容疑者が「語ってもいい」と思える環境をつくることによって、その生い立ちや動機をぜひ解明して欲しいと思います。

排除の論理と子どもの気持ち そんな「おとな都合」の社会から最も排除されがちなのは、「子ども」です。

 自分一人では移動もままならず、何一つひとりではできない社会的弱者を体験させてもらうことになって、「ああ、子どものときってこうだった」と思い出すことが何回もありました。

 おとなに大切なものを壊されて抗議すれば「だれが買ってあげたものなのか」と言われ、おとなたちが宴たけなわにお酒を楽しんでいるときに「早く帰りたい」と言えば「わがままだ」と言われたこと。

ネコ

 猫との関わりを通しても、日本人の優しさ、親切心に疑問を感じています。

 これもまた個人的な話でありますが、昨年より保護猫活動を始めました。保護猫の世界ではまだまだ新参者。意見を言うのはおこがましいのですが、そのわずかな経験からも「日本の野良猫たちが日常的に人間から排除され、いじめられているのではないか」と、考えるようになりました。

 野良猫たちは、とにかく人をとっても恐れていて、ちょっとやそっとでは近づいてきません。うっかり庭先で人間に出会ってしまったら、もう大変。右往左往、上を下への大騒ぎで、ゴーヤーネットを破り、植木鉢を蹴飛ばして逃げ回ります。

 家の中に入り込んでしまったときなどは超パニックです。先日は、玄関先に飾ってある旅行の思い出の品や茶香炉などを割られてしまいました。

松葉杖

 まったくの私ごとですが、一月ちょっと前に足を骨折しました。

以来、身支度をするのも、家事をするのも、猫の世話も、何もかもがびっくりするほど時間がかかり、いろいろなことが滞りがちです。おかげでこのブログも今までに無いほど、更新できないまま放置してしまいました。

通院や出勤はおろか、ちょっとそこまで買い物に行くのも、銀行のATMを利用するにも決死の覚悟。車の運転はできませんし、スーパーなど広大すぎてとても足を踏みれることもできません。
あらゆることが自分一人ではできず、いつもだれかの力を借りなければできない状態が続いています。

虐待

 どうしたら、こんな悲劇を防げるのでしょう。
 ひとつは、「虐待をするような親は自分とはかけ離れたモンスター」と考えるのを止め、「だれもが虐待者になり得る」という現実を受け入れることではないでしょうか。

 そのうえで、過去に起きた虐待事件の加害者の生い立ちをできるだけ多く、そして徹底的に明らかにすることが必要です。

 前にも書いたように、「虐待の連鎖」という視点から考えれば、加害者はかつて被害者だったはずです。

 彼・彼女らの人生がどんなもので、どんな家庭で、どんな人間関係のなかで生きてきたのか。どんな思いを抱えて成長し、どんな経緯で親となったのか。
 それが分かれば、何が暴力の引き金になり、逆に何が抑止力になり得たのかや、虐待者になる、ならないという分岐点がどこにあったのかも分かるはずです。

 もちろん、だからといって「父母に罪はない」と言うつもりはありません。子どもを虐待し、死なせてしまった罪はきちんと償うべきものです。

 私が言いたいのは「個人の責任にして、たとえ虐待親を厳罰に処したとしても『虐待の連鎖』は止められない」ということです。

 社会が子どもの辛さや苦しさに目をつむり、虐待を温存させる社会を維持している責任を認めない限り、法律の改正も、スクールロイヤーやスクールカウンセラーの配置もまったく無意味だということです。

機能しなかった行政

 報道によれば、今回の事件では父親の威圧的な態度に萎縮した行政機関がまったく機能しなかったという問題があります。
 父親に言われてたやすく一時保護を解除し、その後は、自宅訪問さえしませんでした。

 もし行政に、本当に子どもの立場に立つ姿勢と覚悟さえあれば、今の児童虐待防止法でも十分に救えたはずです。

学校の問題

 学校の問題も感じます。
 亡くなった子どもは、学校で行われたいじめアンケートに父親から暴力を受けていることを記していました。

  学校はただ勉強を教える場ではありません。子どもの安全を守り、子どもの発達や人格形成を行う場所です。
 たとえ児相相談所が一時保護解除の意向を示したとしても、「教育者としてもの申して欲しかった」と、残念でなりません。

 もし学校が、「児相判断だから」と引き下がらず、敢然と子どもの立場に立って教育者としての意思を示していたら、事態は違う展開を迎えることができたかもしれません。

暴力を打ちあけた勇気

少女

 子どもはどんな親でも大好きです。だから多くの場合、子どもは虐待されているとは言いません。そもそも「親が悪い」とは考えず、「自分が悪い子だからいけないのだ」、「もっと自分がいい子になればきっと親は愛してくれるはずだ」と、自分を変える努力をします。
 亡くなった女の子が「親に暴力を受けている」と打ちあけた裏には、私たちおとなには想像できないほどの勇気があったことでしょう。
「この世のだれよりも愛されたい親」の行為を否定し、「親の愛をあきらめる」のですから、天地をひっくり返すくらいの決心だったはずです。

親の愛をあきらめてまで

 それだけ先生を信頼していたのではないかと思うのです。「この人なら分かってくれる」、「自分のことを救ってくれる」・・・。だからこそ意を決して、真実を伝えたのではないでしょうか。

 もしそうだったとしたら・・・よけいに切なく感じます。
 たやすく一時保護が解除され親元に帰されたとき、彼女はどんな思いだったでしょう。親の愛をあきらめてまで求めた救い。その最後の糸がプツンと切れた気持ちには、ならなかったでしょうか。

虐待 多くのおとなが“しつけ”や“体罰”を容認しているにもかかわらず、こうした虐待事件が起こると、加害者へのバッシングが吹き荒れることが、いつも不思議です。

「自分がやっている体罰は『子どものため』なのだから良いことである」
「自分はけがや死に至るまでは殴っていない」

 ということなのでしょうか。