松葉杖

 まったくの私ごとですが、一月ちょっと前に足を骨折しました。

以来、身支度をするのも、家事をするのも、猫の世話も、何もかもがびっくりするほど時間がかかり、いろいろなことが滞りがちです。おかげでこのブログも今までに無いほど、更新できないまま放置してしまいました。

通院や出勤はおろか、ちょっとそこまで買い物に行くのも、銀行のATMを利用するにも決死の覚悟。車の運転はできませんし、スーパーなど広大すぎてとても足を踏みれることもできません。
あらゆることが自分一人ではできず、いつもだれかの力を借りなければできない状態が続いています。

虐待

 どうしたら、こんな悲劇を防げるのでしょう。
 ひとつは、「虐待をするような親は自分とはかけ離れたモンスター」と考えるのを止め、「だれもが虐待者になり得る」という現実を受け入れることではないでしょうか。

 そのうえで、過去に起きた虐待事件の加害者の生い立ちをできるだけ多く、そして徹底的に明らかにすることが必要です。

 前にも書いたように、「虐待の連鎖」という視点から考えれば、加害者はかつて被害者だったはずです。

 彼・彼女らの人生がどんなもので、どんな家庭で、どんな人間関係のなかで生きてきたのか。どんな思いを抱えて成長し、どんな経緯で親となったのか。
 それが分かれば、何が暴力の引き金になり、逆に何が抑止力になり得たのかや、虐待者になる、ならないという分岐点がどこにあったのかも分かるはずです。

 もちろん、だからといって「父母に罪はない」と言うつもりはありません。子どもを虐待し、死なせてしまった罪はきちんと償うべきものです。

 私が言いたいのは「個人の責任にして、たとえ虐待親を厳罰に処したとしても『虐待の連鎖』は止められない」ということです。

 社会が子どもの辛さや苦しさに目をつむり、虐待を温存させる社会を維持している責任を認めない限り、法律の改正も、スクールロイヤーやスクールカウンセラーの配置もまったく無意味だということです。

機能しなかった行政

 報道によれば、今回の事件では父親の威圧的な態度に萎縮した行政機関がまったく機能しなかったという問題があります。
 父親に言われてたやすく一時保護を解除し、その後は、自宅訪問さえしませんでした。

 もし行政に、本当に子どもの立場に立つ姿勢と覚悟さえあれば、今の児童虐待防止法でも十分に救えたはずです。

学校の問題

 学校の問題も感じます。
 亡くなった子どもは、学校で行われたいじめアンケートに父親から暴力を受けていることを記していました。

  学校はただ勉強を教える場ではありません。子どもの安全を守り、子どもの発達や人格形成を行う場所です。
 たとえ児相相談所が一時保護解除の意向を示したとしても、「教育者としてもの申して欲しかった」と、残念でなりません。

 もし学校が、「児相判断だから」と引き下がらず、敢然と子どもの立場に立って教育者としての意思を示していたら、事態は違う展開を迎えることができたかもしれません。

暴力を打ちあけた勇気

少女

 子どもはどんな親でも大好きです。だから多くの場合、子どもは虐待されているとは言いません。そもそも「親が悪い」とは考えず、「自分が悪い子だからいけないのだ」、「もっと自分がいい子になればきっと親は愛してくれるはずだ」と、自分を変える努力をします。
 亡くなった女の子が「親に暴力を受けている」と打ちあけた裏には、私たちおとなには想像できないほどの勇気があったことでしょう。
「この世のだれよりも愛されたい親」の行為を否定し、「親の愛をあきらめる」のですから、天地をひっくり返すくらいの決心だったはずです。

親の愛をあきらめてまで

 それだけ先生を信頼していたのではないかと思うのです。「この人なら分かってくれる」、「自分のことを救ってくれる」・・・。だからこそ意を決して、真実を伝えたのではないでしょうか。

 もしそうだったとしたら・・・よけいに切なく感じます。
 たやすく一時保護が解除され親元に帰されたとき、彼女はどんな思いだったでしょう。親の愛をあきらめてまで求めた救い。その最後の糸がプツンと切れた気持ちには、ならなかったでしょうか。

虐待 多くのおとなが“しつけ”や“体罰”を容認しているにもかかわらず、こうした虐待事件が起こると、加害者へのバッシングが吹き荒れることが、いつも不思議です。

「自分がやっている体罰は『子どものため』なのだから良いことである」
「自分はけがや死に至るまでは殴っていない」

 ということなのでしょうか。

虐待 千葉県野田市で小学4年生が虐待により死亡した事件を受け、政府もいよいよ重い腰を上げました。
 3月12日、児童虐待防止に向けた強化策として今国会に提出する児童福祉法などの改正案を示したのです。

 改正案では体罰の禁止を明記し、今の民法で認めている親の懲戒権について、「施行後2年をめどに検討を加え、必要な措置を講ずる」としました。

 さらに、改正案と合わせて、虐待防止に向けた抜本的強化対策案も示しました。具体的には「児童相談所(児相)と警察の連携強化」を盛り込み、児相への警察職員の出向や警察OBの配置に向けた財政支援の拡充も記しました。

寂しい 子どもの頃に「泣いたら周囲が手をさしのべてくれる」環境にいた人は、困ったことがあれば、「助けて」とSOSを発することが容易にできます。一方、「泣いてもだれも助けてくれない」経験を積み重ねていれば、「自分一人でどうにかしよう」とするでしょう。

 SOSを発することができる人は、「いろいろな人がいるけれど、人間は基本的にはいい人だ」と考え、この世は安全だと思えるかもしれませんが、そうでない人にとっては、「周囲は敵だらけ」で、危険に満ちた場所だと感じられるでしょう。
 
 そして、「自分を助けてくれる人などいない」と信じる「周囲は敵だらけ」の人は自分がだれかに愛され、守られるべき存在だと思えませんから、自分の価値を感じにくくなります。

 対して、「周囲は助けてくれる」と思える人は、「自分は大切な存在である」と実感する機会が増えるでしょう。

子どもの頃に受け取ったもは大きい

 カウンセリングの仕事をしていると、子どもの頃に家族から受け取ったものが「今のその人」に大きな影響を与えていると感じることが多々あります。

「自分はどうしてこんなについていないのだろう」
「私はいつも不幸になる」

 そんなふうに嘆く多くの方が、小さいときに身に付けた人付き合いのパターンや、親などの身近なおとなとの関係のなかでつくりあげた自分自身への評価、親から継承した考え方や価値観などに縛られ、身動きが取れなくなっていることがあります。

 そして、自分にとっては「その状態」があまりにも当たり前になってしまっているので、「『その状態』を変えられるとはとても思えない」ということもしばしばです。

生き方や不幸は修正可能

 でも、その辛い生き方や不幸は、修正可能です
 
 あなたが知らずに繰り返してしまう不幸な人間関係のパターンはどんなものなか。あなたの辛さの根っこはどこにあるのか。これからどちらへ向かって進んでいけばいいのか。

「子どもと家族」の視点で振り返ってみることで、そのヒントが見えてくるはずです。

すべての罪悪感は無用です精神科医で家族機能研究所代表の斎藤学氏の新著『すべての罪悪感は無用です』(扶桑社)が発売されました。

私がその構成を手がけています
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 私たちはだれもが、ある家族のなかに生まれ、育ち、今に至っています。私たちを育てた親(もしくは親代わりのおとな)も、また同じようにある家族に生まれ、生きて来ました。

 私たちの性格の“もと”になる気質は、親やまたその親から受け取ったものであると同時に、その気質を周囲のおとながどのように受け止めたかによって、子どもの性格は変わってきます。

 たとえば、「新しい物に目が行きやすい」タイプの子どもに対して、周囲が「考えが足りない子」という対応をすれば、その子は自分を「思慮の浅いダメな人間だ」と思いながら成長するでしょう。

 一方、「好奇心旺盛な子どもだ」という思いで周囲が接すれば、その子は「自分はいろんなことに挑戦できる」と思って成長するかもしれません。

 この世には、「完璧に善である人」も「絶対に悪である人」も存在しません。人間であるからには、善と悪を両方とも持っていますし、発達度合いや置かれた状況にもよりますが、本能的な欲求もあれば、欲求を抑える理性も兼ね備えています。

そのどちらか一方だけをクローズアップしたり、逆に見ないようにしてしまったら、自分を受け入れながら自分らしい人生を生きていくことも、安定した人間関係を築くことも、難しくなります。

仮面舞踏会 2011年3月の東日本大震災のときもそうでした。

「津波がついそこまで来ている」というのに、車の渋滞の列に並び続ける人々、震災後に不足したガソリンや水を買い求めるために、静かに待つ人々。
 そんな日本人の非常時の行動については、今年2月、このブログ「雪の日に思う(3)」にも書きましたが、暴動化してもおかしくない状況でも、節度を守って行動する日本人の姿は、「遠慮深く慎み深い」と、海外メディアでも驚きと感嘆を持って表されていました。

 ハロウィーンのときには、世界各地から来日する人がいるほど大規模化するお祭り騒ぎを繰り広げる日本人と命の危機にさらされたときにさえ慎み深く行動する日本人。

 この両極端ともいえる状態をいったいどんなふうに考えればいいのでしょう。