「あおり運転事件」の熱狂(3)
何しろ私たちは、経済格差の問題や相対的貧困の問題が指摘され、「年金2000万円不足問題」に象徴されるほど、先行きが見えない社会に生きています。
「ワークライフバランス」だとか、「働き方改革」などの目標は掲げられていても、その恩恵に浴せる人はほんの一部です。
理不尽な社会で
一生懸命努力しても、身を粉にして働いても、「日々食べて行くのがやっと」の人が大勢います。理不尽さを感じていても不思議はありません。
病気など、何らかの理由で働けなくなったらどうなるのかという不安を抱え、一部の人たちに富が集中するの経済システムに疑問を持ちながらも、その歯車としてしか生きれない自分。
力ある者に刃向かっても不利益を被るばかりの社会のなかで、それらを「自らの能力のせい」と思い込まむことでなんとかバランスを取ってることも少なくないでしょう。
そんなふうに生きざるを得ない社会に無意識に不満を持つことは当然のことなのではないでしょうか。
溜飲を下げることができる
私も、そんなことを漫然と感じながらも、その社会に従って生きています。社会を飛び出すような勇気も無く、社会に逆らって生きられるほどの才能も無いことが分かっているからです。
だから社会を維持するために設けられた治安や規範を守り、乱さないよう自制し、周囲の顔色をうかがって日々を過ごしています。人から後ろ指を指されることがないよう、枠組みからはみ出さないように、波風を立てずに生きています。
こうした閉塞感があるからこそ、それを守ろうとしない者に過剰反応してしまう気がします。「正しい」と信じようとしているものを壊そうとする者に不安を持つような気がするのです。
だから対象となった者は、悪としてとことん攻撃され、非難され、糾弾されて、社会から抹殺される必要があります。集団で容疑者を袋だたきにするというような「全体性」も大事になります。
「みんながそうしているんだから」と思うことで、「自分の正しさ」や「我慢」は報われ、無意識下にある疑問にはふたをして、わずかでも溜飲を下げることができます。
一時の不安解消に過ぎない
しかしそれは一時のことです。前回のブログでご紹介した御田寺氏も、『PRESIDENT Online』で次のように指摘しています。
「皮肉としか言いようがないが、『悪』をみんなで叩き潰し世直しをすれば一時は安心できるが、しかしかえって自分が『ただしい側』にいるのかどうか不安が強まり、その不安を打ち消すためにますます『悪』とされる存在を追い求めるようになる」