「あおり運転事件」の熱狂(2)
今回の事件で、私が恐ろしく感じたのは、こうした人々の負のエネルギーと、それをあおるマスコミ。そして、マスコミに提供された場を使って、感情のままに容疑者を罵倒する芸能人やそれに類するコメンテーターたちでした。
「あおり運転男」に怒る理由
『PRESIDENT Online』の「なぜ日本中が「あおり運転男」に怒っているのか」を書いた文筆家の御田寺圭氏の寄稿です。
御田寺氏は、ネット上の「厳罰に処すべき」などのコメントについて、同記事中で「『メディアで注目され、世間のより多くの怒りを集めた事件なのだから、厳罰に処するべき』という論理は、法治国家ではなく人治主義のそれに接近していく」と警鐘を鳴らしています。
そのうえで次のように述べています。
「だれもが無遠慮に罵倒し、石を投げてもよい存在が世間にはいつでも求められている。なぜなら『ただしくない』存在を規定し、これを糾弾・非難することによって、自分の『ただしさ』が保証されるからだ。自分のただしさを確認してくれる証人は多ければ多いほどよい。世間のだれもが糾弾する『悪』を、みんなで一斉に制裁することによって、その場に参加する全員が『自分はちゃんとして生きている側なのだ』という肯定や安心を手にすることができる」(同記事)
暴挙には「正しい」という大義名分が必要
なるほど、その通りかもしれません。
過去を振り返っても、戦争や土地の略奪や政敵の粛正などの暴挙には、必ず「我々は正しい」という大義名分がありました。
私たちは、多くの命を奪っても、人々を住み慣れた土地から追いやっても、国民を危険にさらしても、「正しい目的のためだからやってよいのだ」と、思い込むことで、大切な側面からは目を背けるということを繰り返してきました。
そうした大衆心理が規範意識の醸成や治安維持に使われ、結果的に一部の権力者を暴走させるという悲劇を生んだという歴史に学ぶことは少なかったと言わざるを得ません。
なぜ「自分は正しい側」と確認したい?
ではなぜ今、ここまで「自分は正しい側にいる」ことを確認したい不安な人が増えているのでしょうか。
SNSの発達等を超えて、多くの人々がなぜそこまで不安を抱えており、不満や不安をぶつける対象を必要としているのか。
その“もと”になっているもの何なのかということがとても気になります。