さらに森田浩之さんは次のように、記事(「復興五輪」という言葉に、拭いきれない違和感が湧いてくる)を書き進めています。

「須田善明・女川町長が河北新報のアンケートにこたえたように、これは〈「被災3県五輪」ではない〉のだ。彼の言うように〈観光振興など過剰な期待は方向違い〉と考えるくらいがちょうどいいのかもしれない。
1964年の東京オリンピックは、戦後復興の象徴と言われる。しかし東京都心が整備されただけで、地方との格差が拡大したという側面もある。
2020年大会にも同様の問題がある。オリンピックに向けて再開発やインフラ整備が進み、一極集中が加速している。
しかし1964年大会に比べてさらに厄介なのは、菊地健次郎・多賀城市長が河北新報のアンケートにこたえたように『東京に建設需要が集中することになり、結果として国の予算が被災地に回らなくなる』ことだろう」

 それらが「悪いこと」だとは言いません。だけど聖火リレーを走らせれば、その土地の食材を使って安全性をアピールすれば、それで「復興五輪」の理念をまっとうしたことになるのでしょうか。

 こうした取り組みをすれば、前回ご紹介した知人のように「自分たちは忘れ去れていくのだ」と思っていた被災地・被災者の方々も、「そうではなくかった」と、思えるのでしょうか。

 ・・・どうも怪しい気がします。
私には、被災地や被災者を置き去りにして、東京周辺だけがはしゃいでいるような気がしてしまいます。もっと言えば震災をオリンピック・パラリンピック誘致に利用し、東京周辺だけが発展し、一部の人たちだけが大きな利益を手にしようとしているような、そんな嫌な感じがぬぐい去れません。

 今さら言うことではありませんが、ボランティアは「自発的」で、本人の「自由意志」であることが重要なはずです。

「だれかに言われたから」 
「やらないと不利益を被りそうだから」
 ・・・そんな思いで臨むのであれば、それはすでにvoluntary(ボランタリー)ではありません。

 2020年のオリンピック・パラリンビックでは、大会が募集する「大会ボランティア」に、東京都や埼玉県、横浜師などの関連自治体が募集する「都市ボランティア」まで含めると、募集人数は12万人を超え、国内史上最大規模だそうです(『東京新聞』2018年9月22日)。

 大会ボランティアの条件は、「1日8時間、10日以上の活動」ですから、仕事をしている人には、かなり難しい条件です。しかも本番の前には、研修やら講習への参加も義務づけられていますから、よほどの熱意と職場環境に恵まれなければ厳しいと言えるでしょう。

 実際、全国に先駆けて今年3月から募集を開始した静岡県は、5月末の締め切り時点で必要人数の700人に達せず、募集期間を延長したということです(同紙)。

 9月26日に、2020年に開催される東京オリンピック・パラリンピックのボランティア募集が始まりました。
 東京2020大会公式ウェブサイトには次のような募集の言葉が載っています。

「オリンピック・パラリンピックの成功は、まさに「大会の顔」となるボランティアの皆さんの活躍にかかっています! 『東京2020大会を成功させたい』という熱意をお持ちの方、またとない自国でのオリンピック・パラリンピックの運営に直接関わりたい方、みんなで一緒に東京2020大会を盛り上げていきたい方の応募をお待ちしております」

 また、東京都でも「都市ボランティア」というものをこれとは別に募集していて「(成功は)大会・開催都市の顔となるボランティアの皆さんの活躍にかかっています」と、同じような文言で、募集を行っています。

 そうなれば、子どもたちは、小さな頃から休む間も無く、おとなが突きつけてくる期待や価値観を読み取り、おとな社会にとって都合のいい部分だけを伸ばすことが強要されます。
 
 子どもらしくのんびりとしたり、疲れ果てるまで遊んだり、何もかも忘れて好きなことに没頭する時間も奪われて、テストの成績を伸ばすために努力することが強いられます。

 おとなが掲げた目標に向けて、日々、自分を律し、遊びや興味も横に置いてがんばれる「“小さなおとな”たれ」とする教育がまかり通るようになります。

 学力の指針としてよく挙げられるのが全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)です。
 
 2007年に小学6年生と中学3年生を対象にはじまりました。「子どもたちの学力を把握する」というのが政府の言い分でしたが、それが目的ならば、ずっと行われてきた抽出調査で十分です。

「全員参加」になれば、我が子の成績や我が子の通う学校、地域の学力を気にする親心と、親心をくすぐる学習塾や利用しようとする政治家によって、その結果を公表せざるを得ない事態が起きることは火を見るよりも明らかでした。

「しつけ」の名の下に行われる虐待も珍しくはありません。
 厚生労働省によると、04年1月~16年3月に虐待死した計653人のうち、81人(12%)の主な虐待理由は「しつけのつもり」で、理由が明らかなケースで2番目に多かったというのです。

 さらに3歳以上に限れば09年4月以降、「しつけ」で27人(28%)が死亡し、理由として最も多いそうです(『朝日新聞』18年6月27日)。

「子どものため」と言いながら、親の期待や希望を押しつけて何かを教え込もうとしたり、子どもが今できる範囲を超えて無理難題をやらせようとする教育虐待。親のいらいらや不安を子どもにぶつける理不尽な行為を「しつけ」と正当化すること。
 
 それは早期教育や受験競争が過し、経済的に不安定な家庭が増えている昨今では、どこの地域でも、どこの学校や家庭でも起こり得ます。

 うっかり放浪もしていられない大学生の実情に思いを馳せつつ、さらに考えました。

「大学生以前に、そもそも日本の子どもたちに『猶予期間(モラトリアム)』なんていうものがあるんだろうか」と。

バックパッカー 発達心理学には「モラトリアムmoratorium」という概念があります。

 ライフサイクル理論で知られる心理学者のE・H・エリクソン(Erik Homburger Erikson)が、青年期の特徴として提唱したものですが、日本では精神科医で精神分析家でもある小此木啓吾氏が『モラトリアム人間の時代』(中央公論社)という本を執筆したことことから、広く知られるようになった概念です。

 ごく簡単に言うと、モラトリアムとは「人前のおとなとして社会に出る前の、社会的な責任や義務を果たすことを猶予されている期間」のこと。もともとは「債務の支払いの猶予期間」や「法律の公布から施行までの猶予期間」という意味で使われていました。