喧嘩 そうしたなか、年々、渋谷でのハロウィーンの問題がクローズアップされてきました。

 お祭り騒ぎに乗じた盗撮や痴漢行為、ゴミのポイ捨てや飲酒マナーの悪化などなどが指摘されています。
 ここ数年は、10月31日が近づくと渋谷界隈は物々しい数の警察官が警備をし、警察官と仮装姿ではしゃぐ若者が入り乱れる異様な雰囲気に包まれます。

 かつて読んだ小説だったのか、民俗学的な本だったのか、はたまた映画だったのか・・・。具体的な記憶は定かではないのですが、「日頃は隠している、もしくは隠したいと思っている本性を解放する方法は主に二通りある」という話をどこかで耳にしたことがあります。

 その代表例のひとつとして挙げられていたのは、リオのカーニバルでした。リオのカーニバルのなかでも有名なサンバは、露出の高い派手な衣装に身を包み、踊ります。それは日頃は、隠し持っている「もうひとりの自分」を心ゆくまで解放し、放出することにつながるという話でした。

自分を隠し、自分を解放

 そしてもうひとつは、ヴェネツィアのカーニバルです。自分をさらけ出すことで、「もうひとりの自分」を解放するリオのカーニバルに対して、こちらは仮面を付け、自分を隠すことで「もうひとりの自分」を解放します。

 その起源は、中世後期のヨーロッパ宮廷において行われた、寓話的で凝った衣裳による壮麗な行列や、婚礼を祝う誇らしげな行進や、その他宮廷生活における派手な催しや余興で、代表的なものが仮面舞踏会と呼ばれるものだそうです(ウィキペディア)。

 その後、仮面舞踏会はヨーロッパ各地で大流行し、「倫理・道徳を失わせる」「風紀を乱す」などの理由で反対する人や、禁止する統治者がいたほどということですから、貴族を中心に多くの人が仮面舞踏会に興じたということなのでしょう。

日本のハロウィーン

ハロウィン

 ハロウィーンが近づき、オレンジのカボチャや黒と紫のお化けなどが目に付くようになると、なぜか私は必ずこの話を思い出します。

 若者を中心にハロウィーンを楽しむ人が増え、大胆な仮装やびっくりする衣装に身を包み、風貌がよく分からない人を目にすることが増えたせいなのかもしれません。

 本来のハロウィーンは、古代ケルトを起源とするお祭で、秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのある行事だったそうですが、今ではカボチャをくりぬいてジャック・オー・ランタンをつくって飾ったり、子どもたちが魔女やお化けに仮装して近くの家々でお菓子をもらったりする行事になりました。
 
 さらに近年の日本では、渋谷を中心に若者が仮装をして夜の街で遊ぶというイメージがすっかり定着しています。

 単純に考えられるのは、文部科学省とスポーツ庁の「通知」に象徴されるように、「自発的」「自由意志」ではないかたちでボランティアをしている人が多いという予測です。つまりソフトな強制力が働いて、ボランティアに行かなければならないという状況があるということです。

 しかし、報道等で受けている印象になってしまいますが、休みのたびに、ときには「受け入れ制限」が出るほどに熱心なボランティアの人たちが、みんな何らかの強制を受けているというふうには見えません。

 ではいったい、どういことなのでしょうか。

「人の役に立ちたい病」?

 誤解を恐れずに私見を述べさせてもらうとしたら、「人の役に立ちたい病」の蔓延ということなのではないかと考えてしまいます。
 もちろん、その気持ちは人が人とつながって生きていくときに必要なものですし、私自身にもあります。だからこそカウンセラーとかセラピストなどと呼ばれる仕事をしているのだろうとも思います。

 その「だれもが持っている」気持ちが突出している人、もしかしたら、日頃の生活の中では生き甲斐や人のために生きている感覚が見いだせない人が増えているということが、このボランティアの急増という現象を生んでいるのかもしれないと、被災者側の意見(迷惑な被災地ボランティアする前に意見を聞いて!アンケート結果あり)を読んでいて思いました。

「迷惑になるような支援はNG」

 上記のサイトには、被災地でのボランティア活動において「①ちゃんと考えて現実的に役に立つ支援のみすべき(迷惑になるような支援はNG)」「②助けになりたい気持ちが大事 (とにかく動くことが大事)」「③どちらとも言えない」のアンケート結果も載っていますが、約8割が①を選んでいました。

 それだけ迷惑になるような支援が多かったということでしょう。つまりそれは、「人の役に立っているはず」という自己満足で動いている人が多いとも言えるのではないでしょうか。

冷たい国に暮らしているからこそ

 前回ご紹介したように、さまざまなデータが「日本は冷たい国である」ことが明らかになっています。そんな社会では、なかなか承認を受けることは難しく、頑張っても頑張っても、ダメだしされることの方が多いでしょう。

 生活のために生き甲斐を捨て、自分を殺して上に従うことを「空気を読む」とか「忖度」と呼び、強要される社会では「自分は社会の役に立っている」と実感できる機会が少なくなっています。

 そんな国だからこそ、逆にボランティアに精を出す人が増えているのではないかと、あまのじゃくな私は考えてみたりしています。

「困っている人を助けたい」「たいへんなときはお互い様」ーーそんな気持ちでいる人がたくさんいるというのなら、それはもちろん素晴らしいことです。

日本は冷たい国

 でも一方で、「日本人は弱者に冷たい国(社会)」であることを示す調査もあります。

 たとえばイギリスのチャリティー団体Charities Aid Foundation (CAF)が毎年公表している世界寄付指数 (World Giving Index)です。人助け、寄付、ボランティアに関する指数があります。
 2014年版の世界寄付指数をもとに、「世界と日本のあたたかさ」を分析した記事(世界で最も他人に冷たい先進国、日本を見つけました。記事中の地図はその指数の値により暖色から寒色に色分けされていますが、日本は見事に真緑。

 つまり冷たい国(社会)であることが分かります。

なぜかボランティアに費やす時間は増加

 とくに人助け指数が135カ国中134位で世界ワースト2位。寄付指数は311があった2011年にピークに達し、以後は下降線です。それにもかかわらず、なぜかボランティアに費やす時間だけが増加傾向という不思議な現象が見て取れますが、総合的な世界寄付指数は90位と下位に位置しています。

 もうひとつは、「自力で生活できない人を政府が助けてあげる必要はない」と考える人の割合が世界で圧倒的1位という調査(日本人が弱者に異常に厳しいのはなぜなのか?自己責任論と弱者叩きの心理)です。2007年のもので少し古いのですが、衝撃的なのでご紹介したいと思います。

 同調査によると、なんと自己責任の国アメリカよりも「助ける必要は無い」と考えている人が10%以上も多い人のです!!

 最初に、この調査を知ったとき、私はかなりびっくりしました。
 子どもの頃から「日本はおもてなしの国」「親切な国」というふうに教えられてきたはずなのに、実態はまるで違うということになります。

不思議な現象

「寄付や人助けはしない」
「生活に困るのは自己責任」

 それなのに「ボランティアをしよう」という人は増えているという、この不思議な現象を私たちはどう受け止めればいいのでしょうか。

  さらに森田浩之さんは次のように、記事(「復興五輪」という言葉に、拭いきれない違和感が湧いてくる)を書き進めています。

「須田善明・女川町長が河北新報のアンケートにこたえたように、これは〈「被災3県五輪」ではない〉のだ。彼の言うように〈観光振興など過剰な期待は方向違い〉と考えるくらいがちょうどいいのかもしれない。
1964年の東京オリンピックは、戦後復興の象徴と言われる。しかし東京都心が整備されただけで、地方との格差が拡大したという側面もある。
2020年大会にも同様の問題がある。オリンピックに向けて再開発やインフラ整備が進み、一極集中が加速している。
しかし1964年大会に比べてさらに厄介なのは、菊地健次郎・多賀城市長が河北新報のアンケートにこたえたように『東京に建設需要が集中することになり、結果として国の予算が被災地に回らなくなる』ことだろう」

 それらが「悪いこと」だとは言いません。だけど聖火リレーを走らせれば、その土地の食材を使って安全性をアピールすれば、それで「復興五輪」の理念をまっとうしたことになるのでしょうか。

 こうした取り組みをすれば、前回ご紹介した知人のように「自分たちは忘れ去れていくのだ」と思っていた被災地・被災者の方々も、「そうではなくかった」と、思えるのでしょうか。

 ・・・どうも怪しい気がします。
私には、被災地や被災者を置き去りにして、東京周辺だけがはしゃいでいるような気がしてしまいます。もっと言えば震災をオリンピック・パラリンピック誘致に利用し、東京周辺だけが発展し、一部の人たちだけが大きな利益を手にしようとしているような、そんな嫌な感じがぬぐい去れません。

 今さら言うことではありませんが、ボランティアは「自発的」で、本人の「自由意志」であることが重要なはずです。

「だれかに言われたから」 
「やらないと不利益を被りそうだから」
 ・・・そんな思いで臨むのであれば、それはすでにvoluntary(ボランタリー)ではありません。

 2020年のオリンピック・パラリンビックでは、大会が募集する「大会ボランティア」に、東京都や埼玉県、横浜師などの関連自治体が募集する「都市ボランティア」まで含めると、募集人数は12万人を超え、国内史上最大規模だそうです(『東京新聞』2018年9月22日)。

 大会ボランティアの条件は、「1日8時間、10日以上の活動」ですから、仕事をしている人には、かなり難しい条件です。しかも本番の前には、研修やら講習への参加も義務づけられていますから、よほどの熱意と職場環境に恵まれなければ厳しいと言えるでしょう。

 実際、全国に先駆けて今年3月から募集を開始した静岡県は、5月末の締め切り時点で必要人数の700人に達せず、募集期間を延長したということです(同紙)。

 9月26日に、2020年に開催される東京オリンピック・パラリンピックのボランティア募集が始まりました。
 東京2020大会公式ウェブサイトには次のような募集の言葉が載っています。

「オリンピック・パラリンピックの成功は、まさに「大会の顔」となるボランティアの皆さんの活躍にかかっています! 『東京2020大会を成功させたい』という熱意をお持ちの方、またとない自国でのオリンピック・パラリンピックの運営に直接関わりたい方、みんなで一緒に東京2020大会を盛り上げていきたい方の応募をお待ちしております」

 また、東京都でも「都市ボランティア」というものをこれとは別に募集していて「(成功は)大会・開催都市の顔となるボランティアの皆さんの活躍にかかっています」と、同じような文言で、募集を行っています。

 そうなれば、子どもたちは、小さな頃から休む間も無く、おとなが突きつけてくる期待や価値観を読み取り、おとな社会にとって都合のいい部分だけを伸ばすことが強要されます。
 
 子どもらしくのんびりとしたり、疲れ果てるまで遊んだり、何もかも忘れて好きなことに没頭する時間も奪われて、テストの成績を伸ばすために努力することが強いられます。

 おとなが掲げた目標に向けて、日々、自分を律し、遊びや興味も横に置いてがんばれる「“小さなおとな”たれ」とする教育がまかり通るようになります。