ネコ

 猫との関わりを通しても、日本人の優しさ、親切心に疑問を感じています。

 これもまた個人的な話でありますが、昨年より保護猫活動を始めました。保護猫の世界ではまだまだ新参者。意見を言うのはおこがましいのですが、そのわずかな経験からも「日本の野良猫たちが日常的に人間から排除され、いじめられているのではないか」と、考えるようになりました。

 野良猫たちは、とにかく人をとっても恐れていて、ちょっとやそっとでは近づいてきません。うっかり庭先で人間に出会ってしまったら、もう大変。右往左往、上を下への大騒ぎで、ゴーヤーネットを破り、植木鉢を蹴飛ばして逃げ回ります。

 家の中に入り込んでしまったときなどは超パニックです。先日は、玄関先に飾ってある旅行の思い出の品や茶香炉などを割られてしまいました。


海外の野良犬や野良猫は

 ひるがえって海外に行ったときには、野良犬や野良猫が開け放たれたレストランの入り口から、ふらっと入ってくる姿を良く見かけます。
 人々はとくに気にせず食事を続けています。顔をしかめる人や、店に文句を言う人に出会ったことがありません。

 ときに店の人に追われることもありますが、あちらも本気で危害を加えられるとは思ってもいない様子。いったんは退散するものの、すぐにまた戻ってきて、ご飯をくれそうな人のもとへと近寄って行きます。

「排除されている」猫たち

 宗教上の問題などもありますから、「世界中どこの国もあらゆる動物に優しい」とは言いません。日本のなかにも通称「猫島」と呼ばれるような場所や東京の「猫の町」谷中のような所があることも知っています。
 
 しかし、それはどちからというと特殊な場所です。日本で暮らしていて野良犬や野良猫が人間に受け入れられ、日常に溶け込んでいる風景はほとんど目にする機会がありません。

 空前のペットブーム、とくに猫ブームと言われる日本において、今も変わらず歴然と「排除されている」猫がいて、人間に怯えながら暮らしているのです。

 日本社会では、だれかの世話になり、手を借り、恩恵に預からないと生きていけない存在は、いつでも小さくなって、隅っこにいるよう強いられているような気がします。

排除の論理と子どもの気持ち そんな「おとな都合」の社会から最も排除されがちなのは、「子ども」です。

 自分一人では移動もままならず、何一つひとりではできない社会的弱者を体験させてもらうことになって、「ああ、子どものときってこうだった」と思い出すことが何回もありました。

 おとなに大切なものを壊されて抗議すれば「だれが買ってあげたものなのか」と言われ、おとなたちが宴たけなわにお酒を楽しんでいるときに「早く帰りたい」と言えば「わがままだ」と言われたこと。


ありありと甦ってきた

「ああしたい」「こうしたい」「これは嫌」と訴えても、「だったら自分でどうにかしなさい」と言われ、黙るしかなかった自分。
 楽しく遊んでいても「もう時間なんだから」と引きずられて帰るしか無く、お腹が空いてもじっーと待つしかなかった自分。

 いつもいつも「どこかおかしい」と思いながらも、返す言葉を持たなかった幼い日の自分のことが、骨折を経験し、ありありと甦ってきました。

「子どもの気持ち」を改めて実感
 
 自分だけで何かができないということ。自分で自分の面倒をみられないということ。自分の思うように動けないこと。それはとっても辛いことです。

 頼る相手が忙しそうにしていたり、少しでも迷惑なそぶりを見せれば、何も言えなくなってしまいます。

 そんな何もできない、だれかに頼らざるを得ない存在が、自分のことを「情けない」と思うことなく、「ここにいていいんだ」、「自分の思いは当然なんだ」と感じられるようになるためには、身近なだれかがいつもでその存在に関心を持ち、何か訴えれば顔を向け、その欲求を満たしてくれることが必要です。

 だから子どもは、いつもでもおとなに愛されたくて、おとなの顔色をうかがってしまいます。

 そんな「子どもの気持ち」を改めて知ることができた、貴重な骨折体験でした。

車椅子

 女優の東ちづるさんのTwitterが炎上したそうです。

 京都旅行中、車いすユーザーと一緒だった東さんが、祇園でタクシーを止め、「車イスを乗せたいからトランクを開けてほしい」と言ったところ、運転手に「車イスは乗せられません」と言われたというのが、ことの発端でした。

 東さんと一緒にいた友人が「お宅の会社の社長さんは友達や。このこと言うたら、あんたエライことになるで」という発言をTwitterに載せたことで、「脅迫ではないのか」、「そもそも介護タクシーを呼ぶべき」などの批判が相次いだのとのこと(『exciteニュース』2019年9月22日)。


日本の車いす事情

 ネットでちょっと調べると、「車いすに乗ったまま利用できるユニバーサルデザイン(UD)タクシーを巡り、運転手が乗車を拒否するケースが相次いでいる」などの記事が見つかりました。(『日経新聞』(2019年9月17日

「乗せ方が分からない」、「時間がかかる」、「介護タクシーじゃない」などの理由で乗車を断られるケースがあると言い(『東京新聞』2018年11月30日)、運転手へのユニバーサル研修の必要性なども指摘されています(『共同通信』2019年5月9日配信)。

車いすユーザーが気になった理由

 車いすユーザーのことが気になったのは、今年の夏休みに旅行した南米での体験があったからです。

 9月初旬、私は20年来の念願だったマチュピチュ&イグアスに行ってきました。そこで印象に残ったことのひとつが、車いすユーザーの観光客の多さでした。

 こんな言い方をすると逆に差別的と聞こえるかもしれませんが、車いすに乗っていたり、杖を付いた人たちが、本当に普通に、ごくごく自然に、他の観光客に混じって、それぞれの旅行を楽しんでいたのです。

 車いすに乗っているからと言って、何かをしようとして止められるとか、「いかにも障がい者」扱いといったへんな特別視というシーンをまったく見かけませんでした。

 空港や町中だけはなく、天空都市と呼ばれるマチュピチュ遺跡やジャングルの中にあるイグアスの滝国立公園などでも、です。

イグアスの滝

 確かにイグアスの滝がある国立公園内は、トレッキング用の遊歩道が整備されています。一部の区間ではトロッコ列車も走っています。

 とはいえ、この国立公園の広さは東京都とほぼ同じくらい。ブラジル側が185,000ヘクタール、アルゼンチン側が65,000ヘクタールもありますから、足腰に自信の無い人、体力が心配な人、障がいがある人にとって、けっこう移動は大変です。
 
 ところが、車いすユーザーの方たちが、いわゆる健常者とまったく同じように観光しているのです。公園内では、公園側が貸し出ししてくれるのか、他では見たことも無い頑丈なアウトドア用? 車いすも、たびたび見かけました。

マチュピチュでは杖や松葉杖の人も

マチュピチュ

 マチュピチュ遺跡内には、さすがに車いすでは入れませんが(安全面でも)、杖や松葉杖の人はたくさんいました。

 そうした人たちが、富士登山さながらの人混みのなか、だれかに手を引かれ、ときには見ず知らずの私の肩につかまったりしながら、自分のペースで杖をつき、観光しているのです。それは日本では見かけたことのない光景でした。

 周囲の人たちも「当たり前のこと」と、受け入れている様子でした。けれども少しでも困っている様子があると、どこからともなくスタッフや力自慢の観光客などが現れ、手助けをしていました。

とにかく“自然”

 そこにはオリンピックに向け日本が取り組んでいる「介護タクシー」だの「ユニバーサル研修」などにつながる、“特別”な感じはまったくありません。とにかくひたすら“自然”なのです。

 そのナチュラルな感じをうまく伝えられないので、実際に車いすでイグアス国立公園を旅行した方のブログ(もう一つの日本へ(4))を引用させていただきます。

「車イスでツアーに参加できるのか、わからなかったが、とりあえずチケットを売ってくれた。売ってくれたからには行けるだろうと楽観。それに車イス用トイレもあったし。
(中略)ジープに乗って、まずはジャングルの中を走る。運転手さんが、私が車イスなので乗りやすい、最前列のジープの助手席に座れと配慮。最高っす!
(中略)道がさらに悪くなるので、小回りの利くパワーのあるジープに乗り換え。船乗り場へ。その先は、長い階段だったが、何も頼むでもなく、係員が側にきて、私を担いでいった。
(中略)船に乗るときも、『君が好きなところに座りなさい』とスタッフ。濡れるのが怖いので、最前列には座らなかったが、移動のしやすい座席をゲット。船は、どんぶらどんぶら、滝つぼへ向う。流れが速いので、船はシェイクする。迫力満点。
(中略)帰りの階段は、ツアーで一緒だったブラジル人達が担いでくれました」

マチュピチュ遺跡に住むチンチラ これこそがまさに「ホスピタリティだ!」と思いました。

 ちなみに、形や行動などで示す「マナー」は相手に不快感を与えないための最低限のルール。そこに「心」が加わると、「ホスピタリティ」になるのだそうです(『ホスピタリティの極意』)。

 今回の旅行では、私もそんな南米の人々のホスピタリティにうんと助けられました。

私もホスピタリティに助けられた

 ・・・と言うのも、一緒に旅行した同行人が何重もの体調不良を抱えていたからです。出発前からの運動不足に睡眠不足、そこに長時間のフライトやタイトな旅行スケジュール、そして下痢や風邪などが重なったのです。

 そのため同行人は、遺跡内にはトイレが無いマチュピチュでは、出入り口付近をうろうろするしかなく、イグアスでは長時間歩く場所は避けて休み、他の人たちと別コースを取ったりしなければなりませんでした。

 旅の最初の頃は、観光場所に着くたびに「ホテルに帰って休んでいたら?」と言われるのではないかとひやひやしていましたが、厄介者扱いされることもなく、嫌な思いをすることも、肩身の狭い思いをすることもなく、旅行行程のすべてを満喫することができました。

 現地のスタッフやガイドさんたち、時には観光客の人たちが、本当に“自然”に手助けしてくれたからです。

マチュピチュ遺跡では

マチュピチュ遺跡

 マチュピチュ遺跡ツアーでは、私たちふたりのほかに日本人大学生(と思われる若者)計三名が、ひとりのガイドさんに案内してもらう予定でした。しかし、同行人の様子を見た迎えの現地スタッフが「三人一緒は無理」と判断したのでしょう。
 私たちが知らないうちにもうひとりガイドさんを呼び、大学生と私たちが別々に回れるよう手配してくれていました。

 私たちの担当となったガイドさんは、会うなりトイレに駆け込んだ同行人を見て、「遺跡内が見渡せて、すぐにトイレに行ける涼しい場所がある」と言い、「そこで待っていることもできるが、どうする?」と、選択肢を与えてくれました。

ガイドさんの細かな配慮

 結局、同行人はほとんどの時間をその「涼しい場所」で過ごし、私ひとりがガイドさんの案内で遺跡内を歩きました。その間、ガイドさんはたびたび無線や携帯電話で「涼しい場所」側の遺跡スタッフと連絡を取り、同行人の具合を私に報告してくれました。
 
 最後は、通常は通れないルートを特別に開けて同行人のところへとショートカットして向かい、別れ際には「インカの人々がお腹を壊したときに飲むお茶」を紹介し、それを飲める店まで教えてくれました。

ツアーガイド イグアス国立公園のバスツアーのガイドさんも、トイレ休憩などで待たせがちな私たちの事情をすぐに察知してくれました。けれども私たちが気兼ねしないよう、“自然”にサポートしてくれていました。

 たとえば集合時間を過ぎてしまったときには、「写真を撮ってあげましょうか」と声をかけてきました。その後、アルゼンチンの国情について聞きつつバスへ戻ると・・・私と同行人以外は全員着席していました。

 同乗していた観光客たちも鷹揚で、待たされても嫌な顔などしません。それどころか、遅れて戻って行くと、「よく戻って来た!」(たぶんそんなポルトガル語やスペイン語)と口々に叫び、拍手喝采。口笛を吹きながら大歓迎したりするのです。

多様性を認めるということ

 南米の人たちを見ていて、「これが多様性を認めるということなんだ」と思いました。
 だれもが「ある一定のスタンダードやルールに合わせて個人を動かそう」とはしません。「個人のニーズや状態に合わせ、できるだけ柔軟に対応しよう」とするのです。

 とくにガイドさんたちが圧巻でした。その仕事ぶりは、「よくあれだけバラバラな、まったく違うニーズを持った参加者たちに対し、細かなサービスをしようとするものだ」と感心しきり、でした。

ホスピタリティの精神をいかんなく発揮するガイド

 ツアー参加者はみな個別に現地のツアー会社に申し込んでいるので、ピックアップするホテルも、送り届ける場所も様々。乳幼児連れもいれば、お年寄りがいるグループもあり、私たちのように体調不良の組もいます。

 バスツアー後の予定も様々。帰宅の途につく人、早くホテルに戻りたい人、夕方から別のツアーに参加する人など、いろいろです。

 ガイドさんたちは、そんなてんでバラバラ人たちの希望や予定を細かく把握し、それぞれができるだけ満足できるよう、みんなが「この旅行は楽しかった!」と思えるよう、その知識や能力、ホスピタリティの精神をいかんなく発揮していました。

旅行最終日も

シュハスコ

 たとえばイグアスの滝ツアーの2日目。私たちは昼頃にツアーを抜け、ホテルへ戻り、夕方には帰国に向けて空港へ・・・というスケジュールでした。
 
 そんな私たちに、ガイドさんはまず、空港に時間までにできそうなこと、行けそうな場所を一通り教えてくれた後、「昼食をどこで、どんな物を食べたいか」、「飛行場に行くまでの時間をどう過ごしたいか」と尋ねてきました。

「せっかくブラジルに来たのだから美味しいお肉を食べたい」、「お土産を買い足したい」と答えると、ガイドさんは「ちょっと考えさせて」と言ってから2時間後。

「いい店を思いついた!」と、私たちを大きなスーベニアショップへと送ってくれました。そしてそこから歩いて行ける美味しいレストランとホテルまでのタクシー代の目安を教え、「16時にはホテルに迎えに行くからロビーで待っていて」と言って去って行きました。
 そしてもちろん、16時きっかりにホテルに迎えに来てくれました。

松葉杖

 この春、足を骨折したとき、私は本当に不便を感じました。都内のわずかな移動でも、そのたびに肩身の狭い思いもしましたし、スーパーでの買い物はとっても憂うつでした(『排除の論理と子どもの気持ち』)。

 なるべく出かける用事や、仕事を削って家に閉じこもっていました。自宅と職場の往復だけでも大変なので、間違っても松葉杖で旅行することなど考えもしませんでした。

「でも南米だったら、旅行できたかもしれない。たとえ松葉杖でも楽しめるかもしれない」
 
 今回の旅行を終えて、私はそんなことを思いました。

スタンダードからはみ出しにくい日本

 そして改めて考えました。

 どこかに不自由があることで、しんどく感じたり、出かけたくなくなってしまうのは、「体が思うように動かないこと」よりも、「他の人と同じようにできないことからくる不便さであり、そのことで疎ましがられたりすること」が理由なのかもしれないと。

 全体の効率性重要で、個人のニーズは後回しにされがちな日本では、スタンダードからはみ出すことは、恥と感じられます。
 学校でも職場でも、「多様性の大切さ」は謳われていますが、みんなと違う主張をすれば「わがまままだ」と言われ、仲間はずれにされたりします。

南米のガイドさんのように

決意

 私がお目にかかるクライアントさんも、「みんな(普通)と違う自分」に悩み、周囲の期待や要望を読み取っては頑張り、それに添えない自分を責めていたりしています。
 そうして自分を押し殺して暮らしているうちに、本当に自分自身を見失ってしまうことも少なくありません。

 そんな方達にとって私は、「南米で出会ったガイドさんのようでありたい」と、思いました。ただ適応を促し、「行くべき方向」に導こうとするのではなく、「その人が望んでいること」を汲み取り、その人らしい人生の旅のお手伝いができるようになりたいと思ったのです。

カウンセラーとしての誓い

 人間はひとりひとり違います。障がいも、年齢も、できることやできないことも、全部その人らしさ。あらゆることが個性の一部に過ぎません。
 
 そんな他にふたりと無い存在が「大切だ」と感じることを大切にしながら、自分らしく生きて行くために、自分自身の力に気づき、それを取り戻し、活かすために伴走する・・・そんな関わりができるカウンセラーになろう、と心に誓った南米旅行でした。

いつかくるペットの死にどう向き合うか~16歳の愛犬を亡くした心理カウンセラーが考えるペットロス~

16歳の愛犬を亡くした心理カウンセラーが考えるペットロス
『いつか来るペットの死にどう向き合うか』

木附千晶:著

いつか必ずやってきてしまう、愛しいペットとの別れ。
ペットロスが大きなダメージとなるのは、自分がいなければ生きていかれない「わが子」のような存在、だれよりも自分を必要としてくれる「わが子」が自分を置いて先にいってしまうという事実をなかなか受け止められないからではないでしょうか。
ペットが自分より短命であることは、頭ではわかっていても信じたくないのです。


本書は、2017年1月に16歳のゴールデン・レトリバー「ケフィ」を亡くしたカウンセラーが、その受け入れがたい死とどのように向き合っていったかをまとめたものです。
職業柄、ペットロスのことはよくわかっていたが、立ち直るまでに2年半かかりました。

ペットの死を受け入れることは、とても辛く、苦しいものです。でも、逃げずに、「しっかりと悲しむ」ことが大切です。
私たちはつい「早く忘れよう」と思ったり「明るく振る舞おう」と頑張ったり、仕事などに没頭して気を紛らわそうとしてしまいます。周りの人たちを心配させたくないからと、「元気にならなければ」と先を急いでしまったりもします。
でも、そうやって悲しみから目を背けてしまうと、かえって心にダメージを与えたり、孤独の渕からなかなか抜けられなくしてしまうこともあります。

対象がペット(動物)であるがゆえの辛さや苦しみもあります。
「いつもと同じように振る舞う」ことを周囲の人が知らず知らず強要することがあります。ペットを失うことの悲しみを理解していない人もいます。「たかがペットじゃないか」という態度や「新しいペットを飼えばいいじゃないか」という言葉が、愛するペットを見送った人をどれほど傷つけるのか、想像できない人も少なくありません。

いつか必ず来る愛するペットの死に、どのような心構えをしておいたらよいか、わかっていても避けられないペットロスについて、どう向き合うか。「覚悟」のきめかたについて、自身の経験をふまえてまとめました。

■体裁
・電子書籍のみ[Amazon Kindle販売ページへ
・定価 800円+税
・ページ数 四六判で約160ページ
・発売日 2019年12月2日

ケノン

 はやいもので2019年も終わろうとしています。今年は、IFF相談室の閉室、別な場所での開業、そしてオフィシャルサイトの立ち上げとさまざまなことがありました。

 その間、2月には敬愛する斎藤学医師の本を構成させていただき、12月には16年間連れ添った愛犬への思いと自らのペットロスの軌跡をたどった電子書籍も出版いたしました。
 プライベートでは、新しい家族(ゴールデン・レトリーバー、現在4ヶ月)を10月末に迎えるなど、本当に慌ただしい年でした。

 皆様にとっては2019年はいったいどんな年だったでしょうか。

「令和」の居心地悪さ

 今年1年の世相を漢字ひと文字で表す「今年の漢字」は、新しい元号・令和にも用いられた「令」が選ばれました。

 一説によると「令和」とは、「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味だそうですが、私はどうにもいい印象を持てません。

「令」という字には様々意味がありますが、はかんむりとひざまずく人の姿を現していることから「お上の意思に従う」という意味もあります。
 2017年に流行語になった「忖度」に代表されるように、日本の現状を見ていると上から決められた規律・目標・目的に向かって、自らの意思とは関係なく、大勢に飲み込まれて「和する」ことを強制されているような居心地の悪さを感じてしまいます。

ケノンに恥じない一年に

ケノン

 大多数の流れとは相容れなくとも、ぶれてはいけない時があります。たとえ面倒くさい人になったとしても、言わなければならない真実があります。みんなが向かう方向が正しいとは限りません。長いものに巻かれてしまえば大切なものを無くしてしまうこともよくあります。

「どんなときも原点を忘れず、大切なものを見失わずにいたい」

 だから、新しく迎えた小犬はケノン(ギリシャ語で「ゼロ」、「無」)と名付けました。

 来年も、ケノンに恥ずかしくない一年にしていきたいと思っています。

「愛」という名のやさしい暴力

 扶桑社より、『「愛」という名のやさしい暴力』が出版されました。『すべての罪悪感は無用です』に続く、精神科医・斎藤学先生の名言集&その解説の第二弾です。

『罪悪感は無用です』が、機能不全家族で育った人が楽に生きられるようになるための指南本のような要素が強かったのに対し、『「愛」という名のやさしい暴力』は主に共依存を中心とする「家族の『「愛」という名のやさしい暴力』問題」、「女らしさ」や「男らしさ」などの「らしさの病」に関する名言が多くなっています。


同書のメッセージ

 とはいえ、どちらも「生きづらさ」に焦点を当てたものであることには変わりありません。同書の帯には次のようなメッセージが載っています。

「いわゆる「良い子」や「いい人」ほど現代社会では生きづらさを抱えている。
あなたの生きづらさはどこから来たのか。
子どもを愛するがゆえに、子どもに期待して干渉する。
そんな親からの「やさしい暴力」を免れている家庭は、今の日本には少ないかもしれない。
波風を立てず、空気を読み合って、相手の期待を裏切らないようにふるまううちに人は自分の欲求や願望をうしなっていく。
他者の期待を読み取り、それにこたえることが「自分の人生」になっていないだろうか?
誰の役に立たなくても、みんなと同じことができなくても、あなたらしい人生はそこにある。
不安、無力感、寂しさ、怒り、罪悪感に苦しむあなたが「生き生きとした人生」を取り戻すために」

改めて明確になった

 同書の構成をさせていただくにあたって、今ではもう入手困難な、かなり昔の斎藤先生の著書などももう一度、読み直してみました。
 
 しかし、その内容は今読んでみてもはっとさせられることがたくさんあり、よくわかったつもりになっていた共依存やアルコール依存、「らしさの病」について、改めて考えを深めさせていただくことが多々ありました。

 とくに、日本社会・文化が共依存に対して非常に寛容で、その考えに基づいて社会の仕組みや企業論理、家族関係が成り立っているということについては、なんとなく理解しているつもりだったけれど、より明確になった気がします。

ホットな問題にも通じる

 共依存的な社会のあり方や生き方。それが、昨今、話題になっている離れて暮らす親と子どもが関係性をつくるための面会交流を困難にしていることや、国が打ち出す場当たり的で根拠の無いコロナ対策に振り回されっぱなしの私たちをつくっているということもよくわかりました。

 あまり詳細に書いてしまうと、同書を読んでいただく楽しみが減ってしまうかと思うのでこのへんで。どうか手に取って、それぞれの「今」の問題を解決するヒントにしていただけたらと思います。