新年、あけましておめでとうございます。

今年もまた、さまざまな思いをこのブログでお伝えしていきたいと思いますので、みなさま、どうぞよろしくお願いいたします。

高支持率の新内閣

年末に新内閣が登場し、世の中は安倍晋三首相への期待感があふれています。いくつかの内閣支持率調査を見ましたが、どれも60%を超える高い支持率でした。だいたい新政権発足時には高く、次第に下がっていくのが常ですが、それにしても高い数字です。

民主大敗に終わった前回の選挙。それを受けての自民圧勝の背景には、安倍首相の「日本を、取り戻す」というCMの効果があったという指摘がありますが、こうしたCMの余韻が支持率にも影響を与えているのでしょうか。

自民党の選挙CMの分析

『東京新聞』のこちら特報部では立命館大の東照二教授(社会言語学)は「人間が物事を認知する仕組みは基本的に直感的、感覚的で、繰り返されるものに反応する性質がある」と説明した上で「くどくどと政策を説明するのではなく、短いフレーズを効果的にリフレインする手法。有権者に分かりやすく新鮮な印象を与え、有権者の投票行動に結び付きやすかったのでは」と分析しています。

また、CMの中で「取り戻す」と言っているはずの安倍首相の言葉が「とりもろす」にしか聞こえない部分があったことも、親しみやすさや、きまじめなイメージにつながると選挙プランナーの野沢高一氏は指摘しています。

さらに京女子大学の李津娥(イージーナ)教授(広告・メディア論)は、この「取り戻す」の意味に注目。
「有権者それぞれが思い描く『日本の良かった時』のイメージを持ちやすい」と言うのです。(続く…

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確かに自民党という党自体に、安定感や安心感を覚えるという気持ちは理解できます。戦後、長い間、与党として日本をひっぱり、高度経済成長時代をもたらしたのは自民党です

がんばればがんばった分だけ報われたあの時代。
努力すれば夢が叶うと信じられたあの時代。
だれもが学校に行けさえすればそれなりの学力を付けられたあの時代。
文句を言わず、上に逆らわずに従っていれば、それなりに出世できたあの時代。
社会からはみ出るような行為をしなければ、何らかのおこぼれにあずかれたあの時代。

「そんなあの頃に戻りたい」という郷愁に似た思いは私も同じように持っています。

しかし、こうした自民党がつくってきた施策、社会の先に「今」があることも真実です。民主党が破壊したものも大きかったとは思いますが、安倍首相がCMで語った「豊かな教育を受け、誰もが安心して生活できる」日本とは違うところに国を導いてきたのも自民党でした。

イメージだけでの支持は危険

その現実を忘れ、イメージだけで支持をするのはやはりとても危険なのではないかと思います。
そして以前の安倍首相政権下で、安倍首相が取り組んだ施策の数々をみれば、再びの政権掌握によってもたらされるのがはたして「豊かな教育を受け、誰もが安心して生活できる」日本なのかは疑問です。

甘言に乗せられず、イメージにまどわされず、真実を見極める目を磨きながら、本年もこのブログを続けていきたいと思っています。

大阪市立桜宮高校のバスケットボール部主将の男子生徒が、顧問の男性教諭から体罰を受けた翌日に自殺した事件が話題になっています。

この事件を受け、文部科学省は全国の教育委員会などに体罰の実態調査実施を指示するとともに体罰を行った教員らへの厳正な対応を求める通知を出しました。

マスコミは連日、体罰に反対する評論家やコメンテーターの意見を報道。かつては体罰容認派であった大阪市の橋下市長も、亡くなった生徒の家を訪ねて遺族に謝罪し、その後の記者会見で「考え方を改めないといけない。反省している」と述べるなど(『東京新聞』2013年1月13日)、「体罰禁止」の声が高まっています。

一定条件下での体罰は必要?

こうした中、「それでも体罰は必要」と言う勇気ある意見を見つけました。「一定条件下の体罰は必要 殴るのにも技術がいる」(『産経新聞』産経新聞 1月27日)。

個人的には、同記事の執筆者にはまったく共感できませんが、「なぜ体罰が無くならないのか」を考える上ではとても参考になるのではないかと思いますので、ご興味のある方は、ぜひサイトをご参照ください。

今の世論の流れを見て「今は体罰容認の発言は控えよう」と思っている政治家や識者の方々の中には、この記事の執筆者のような考えの持ち主が多くいるのではないでしょうか。

執筆者は「ケガをさせない」とか、「1発だけに限る」などの条件下で、「ねじれた心を正すため」の体罰は必要だと述べています。そうした部分にもいろいろと突っ込みどころはありますが、何よりもまず子どもの問題行動を「ねじれた心によるもの」と思うところに、すでに大きな間違いがあります。

子どもには暴力を見分ける力がある

うまく言葉に出来ないから、本当は分かって欲しいから、さまざまな問題行動というかたちで子どもはメッセージを発します。それを「ねじれた心を持っている」と判断し、力で押さえつけようとするおとななど、子どもが信頼できるはずがないではありませんか。

弱い立場に置かれた子どもという存在は、自分への愛情が高まってほんとうにごくごくまれに“思わず”手が出てしまったのか、おとなの価値観を押しつけるために“おとなの都合”で暴力を使っているのかを瞬時に見分ける能力を備えています。(続く…

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話が広がってしまって恐縮ですが、この間、びっくりするようなシンポジウムのお知らせを見つけてしまったので、記しておきたいと思います。

「維新政党 新風」という、最近よく聞くとある政党と見間違うような名前の団体が2009年に開いていた「教育における体罰を考える」シンポジウムの呼びかけには、次のように書いてありました。

体罰は教育?

子供のための体罰は教育!

罰は子供を強くするため、
進歩させるために行われます。
「叱るよりほめろ」では子供は強く
なることができません。
いかに多くの罰を受けたかが
優しさを決めます。
人のことを思いやる力をつけるには、
体罰は最も有効です。

まるで、昨年12月にブログ『生い立ちと人格』で紹介したヒトラー家を思い出させるような恐ろしい考えです。「多くの罰を受けた方が優しくなれる」という発想も受け入れることはとうていできません。

さらに知りたい方はどうぞ同政党のサイトをご参照ください。余談ですが、このシンポジウムの第一部である対談に登場したのは、当時東京都知事だった石原慎太郎氏とジャーナリストの櫻井よしこ氏でした。

いじめ自殺と同じ構図

・・・ということで話を本筋へ戻したいと思います。
大阪市立桜宮高校の体罰事件についてです。

事件をめぐっては、ついこの間までマスコミを席巻していたいじめ事件同様、学校(教職員)や教育委員会の隠蔽体質を責める声が強く聞こえます(『産経新聞』2013.1.11)。そして「だから教育委員会には任せられない」と叫ぶ首長が登場するのも、同じ構図です(『産経新聞』1月15日)。

こうした「首長(政治)主導の教育へ!」という主張の先頭に立っている橋下大阪市長がずっと体罰(子どもへの暴力)容認派であったことは、すでにブログ(「生い立ちと人格(5)」)にも書きましたし、その語録を拾うこともできます。

橋下氏はこの事件で自殺した生徒の保護者と面会した後の 記者会見では「自分の考えは間違っていた」と反省したとの発言をしていますが・・・。(続く…

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しかし、学校や体罰を行った顧問、教育委員会に責任を負わせれば体罰事件は解決するのでしょうか?

桜宮高校では、その後バレー部顧問による体罰も報道され(『朝日新聞』2013年1月10日)、記事では同校の校長が「今後は体罰を一掃するため、部活動の顧問以外に悩みを相談できる窓口の設置などをあげた」と書かれていますが、こうした窓口があれば体罰は無くなるのでしょうか?

答えは「否」だと思います。

なぜだれも救えなかったのか

同事件をめぐる報道を見ていると、自殺した生徒は友達や母親などに体罰を受けたことを話しています。また、顧問が体罰を行っていることをほかの教師や校長も把握していたとの話も出ています。

つまり、「窓口」はなくても、生徒は最も身近にいるおとなたちに自分の窮状を訴えていたし、周囲のおとなも生徒の危機的状況を認識していたわけです。

それにもかかわらず、だれも生徒を救うことはできませんでした。いったいなぜ、だれも生徒の死を止められなかったのでしょうか。

どうして生徒の周囲にいるおとなは体罰を目撃したり、「今日も殴られた」と語る生徒に対して、「そこまでして部活を続ける必要なんてない!」「生徒にそんな思いまでさせて強いチームにならなくていい!」と言ってあげることができなかったのでしょうか。

顧問は暴力を使ってまで強くなることに固執しなければならず、生徒は自殺をする前に「部活を辞める」という選択をなぜできなかったのでしょうか。

もし自分なら声を上げられたか?

私はけっして「母親にも責任がある」とか「生徒自身にも落ち度がある」などと言うつもりはありません。

ただ、だれかを悪者にしたり、顧問だけを責任追及して終わりにするのではなく、「どうしてだれひとり、『ここまでして強くなろうとするのはおかしい』と声を上げることができなかったのか」を考えたいと思っているのです。

「辛い」とか「恐い」とか「ひどい」などの感情を封じ込め、結果的に体罰を容認し続けてしまったのはどうしてなのか。
そして、もし自分だったら、同じ環境の下で体罰を止めるよう声を上げることができたのか。

その問いの向こうにこそ、私たちの社会が体罰を根絶できない理由があると思うからです。(続く…

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あの環境下にいたら、おそらく私も体罰を止めるのは難しかったのではないかと思います。

もし、私が教師だったとしたら、スポーツで学校の名を上げ、生徒の大学進学にも貢献し、校長からも一目置かれている顧問に「あなたのしていることはおかしい」と声を上げるのはかなりの勇気が必要でしょう。

一方、もし私が保護者だとしたらどうでしょう。
桜宮高校に子どもが入り、世間でも「強豪」で知られる部活を子どもが続けるからには、保護者としても一定の覚悟をしているはずです。その心の底には、「子どもに部活動で活躍して欲しい」という思いもあるでしょう。

「うまく行けば大学の推薦がもらえるかもしれない」「将来的にスポーツの世界で食べて行けるようになるかもしれない」などと、きっと考えたことでしょう。

『週刊文春』の記事

『週刊文春』(2月7日号)には、「自殺した生徒の母親が子どものスポーツ教育に熱心だったことや、大学の推薦が取れると考えていた」といった趣旨の記事が載っています(週刊文春の桜宮高校バスケ部体罰問題に関する記事がひどすぎる)。

『週刊文春』は、子どもの権利条約に基づく第1回目の日本政府報告書審査時に、国連でプレゼンテーションをした子どもたちの発言や国連委員の反応を、悪意を持ってねつ造した雑誌です。

後日、事実を知る私たちが抗議をしたときも「担当者不在」などと言い続け、まったく責任を取ろうとはしませんでした(ご興味のある方は、ウィキペディアの週刊文春の項目内「問題のあった記事・注目を浴びた記事」の1998年の部分をご参照ください(ウィキペディアの週刊文春)。

こうした私の経験から言っても、文春の記事をすべて真実と受け止めるのはいささか危険だと思いますが、自殺した生徒の母親がスポーツ教育に人一倍熱心だったとしても、なんら不思議なことだとは言えないのではないでしょうか。

もし私が高校生だったら

そしてもし、私がスポーツで強くなることを何よりも大事だと考える環境で生きている高校生だったとしたら・・・。自ら「もう嫌です。部活を辞めます」と言えたでしょうか。
きっと無理だったと思います。

社会経験も少なく、自らの価値観も形成途中で、周囲のおとなに頼らなければ生きられない子どもにとって、学校や周囲のおとなは全世界と呼んでも過言ではありません。
それ以外の価値など、よっぽどのことがなければ持ちようがありませんし、その世界から外れること、その世界に受け入れてもらえないことは、この世の終わり・・・つまり死を意味します。

だからこそ、学校から排除されるいじめや、おとな不信に陥る虐待が、あれほどにまで子どもに大きなダメージをもたらすのです。(続く…

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ではなぜ、おとなたちは子どもをそんなところまで追い込まなければならないのでしょうか。おとな自身も、本当は感じていたはずの戸惑いや、疑問、さまざまな感情を封印してまで、子どもの尻を叩かなければならないのでしょうか。
何よりも大切なはずの命を犠牲にしてまで、子どもに結果を要求しなければならないのでしょうか。

成果や利益を求める社会の必然

それは社会が目に見える成果や利益をあまりにも求めるからです。

競争を前提とした世の中で、自分で自分の面倒をきちんとみることができる、福祉や他人に頼らない人間を求めるからです。少しでも早く自立し、自分の生活は自分だけでまなかえる人間を“よし”とするからです。

そうした社会では、自活できない者、他者に支えてもらわなければならない存在はダメな存在だとみなされます。

だから多くのおとなは、「子どものため」という善意から、子どもが生き残っていくための術を少しでも早く教え込もうとします。子どもが、競争の荒波に飲み込まれず、生き残れる人間になれるよう、厳しい訓練を施そうとします。

子どもの気持ちは後回し

そこでは子どもの思いや気持ちは、後回しです。
いえ、たとえ子どもの気持ちに気付いたとしても「こんなことでへこたれてどうする!」と、叱咤激励することこそが愛情だと勘違いしてしまいます。

そして、それが愛情だと信じている限り、子どもを厳しく訓練し、言うことをきかせ、子どもを奮い立たせる体罰は絶対に無くならないのです。

体罰は「暴力を使った“指導”」

桜宮高校での体罰事件が発覚してから、「暴力と体罰はどう違うのか」とか「どこからが体罰なのか」とか「体罰なしの教育などあり得るのか」などという議論が盛んに行われていましたが、極めてばかばかしいことです。

体罰は「暴力を使った“指導”」に他なりません。そして“指導”とは、力を持っておとなの都合や価値観を子どもに植え付け、言うことを聞かせるための支配に過ぎません。

だからこそ、第3回の子どもの権利条約に基づく日本政府報告書審査で(2010年)、国連「子どもの権利委員会」委員が、さんざん疑問を呈したのです。

「“指導”としつけ、虐待はいったいどう違うのか?」と。(続く…

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精神分析の権威として知られる精神科医の小此木啓吾氏は、1979年に出版した『対象喪失 悲しむということ』(中公新書)の「まえがき」で、「今日、悲しみを知らない世代が誕生している」と、次のように記しています。

「死、病気、退職、受験浪人から失恋、親離れ、子離れ、老いにいたるまで、あらゆる人生の局面で、対象喪失は、大規模におこっているのに、人びとは、悲しみなしにその経験を通り抜けていく。対象喪失経験は、メカニックに物的に処理されてゆく。対象を失った人びとは、悲しむことを知らないために、いたずらに困惑し、不安におびえ、絶望にうちひしがれ、ひいては自己自身までも喪失してしまう」(同書iページ)

自己や感情まで喪失

小此木氏の本を読み、今回の体罰事件を振り返ると、小此木氏が同書を記してからすでに30年が経過する中で、人びとは本当に自己を喪失し、自己を形成するための感情まで失ってしまったかのように見えます。

目の前で子どもが叩かれていても「それは勝つために必要なこと」と見なかった振りをし、「辛いよ」と声を上げても「がんばれ!」と励ます。そして、死ぬほどに追い詰められていても「もう嫌だ」と言わせない社会。
「感じることを止め、求められた務めを果たすこと」が、何よりも大切とされる・・・そんな感情を失った世代が築いた社会に、私たちは生きています。

あらゆる場で「感情労働」が求められる

そして感情を失った世の中だからこそ、今や逆に、あらゆる場で“求められる適切な感情”を演出する「感情労働」が求められます。

「感情労働」という概念は、ホックシールド氏の調査研究『管理される心 感情が商品になるとき』によって知られるようになったものです。

最近、エッセイストの岸本裕紀子氏は『感情労働シンドローム 体より、気持ちが疲れていませんか?』(PHP新書)という書を著し、その中で「仕事をするなかで、苦痛を感じたり、怒りをかきたてられたり、虚しさにとらわれたり、違和感を覚えたり、不安感が頭から離れなかったりしても、そういった自分の感情をうまくコントロールして、感じよく接し、相手のプラスの感情を引き出すようにする」(3ページ)ことが感情労働であると、営業職という身近な例を挙げてこう説明しています。

「新規開拓のため連日、足を棒にして何十軒と訪問しても、一件も契約が取れない。そうしたなか、丁寧に説明している途中で、バタンとドアを閉められたとします。『いくらなんでも失礼だろう』というショックや怒り、『はたしてこの商品は相手の役に立つのか』という疑問、『自分はいつまで不毛な戦いのようなこの仕事をつづけるのだろう』という虚しさや不安。
そういった感情を抑えて、前向きに、さわやかに次の訪問先に向かう・・・。」(4ページ)(続く…

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岸本裕紀子氏の挙げた例のように、相手を不愉快にさせず、いつでもポジティブで明るい雰囲気を提供する「感情労働」。それを行う対象は、客やクライアントだけではありません。職場の上司であったり、部下であったり、同僚であったりします。

もっと言えば、それは仕事をしている人だけの話ではありません。一昔前、子どもたちの間ではやった「KY」という言葉が象徴するように、学校や幼い頃からの友人関係でも必要とされています。

「感情労働」が要求される場では、あるシチュエーションの中で、当然、人間が抱く「リアルな感情」の存在は許されません。
いえ、「リアルな感情を持つ人間」であることが許されないと言った方がいいかもしれません。


まるでロボット

何があっても笑顔で、期待されるよう振る舞い、求められるままにやるべきことをこなす・・・
まるで職務遂行をプログラミングされたロボットのようです。

ロボットは、何があっても怒ったり、悲しんだりしません。その代わりに、他者の痛みに共感し、他者の辛さを自分のものとして共に痛むこともありません。悲しむことができないのですから、当たり前のことです。

「リアルな感情」を排除した「感情労働」を常とする社会で生きざるを得ない私たちは、その職務に徹するため、極力、心を動かすものを見ないようにしてきたことでしょう。もし、心が動いてしまえば、その世界で生きることが危うくなってしまうからです。

そして「感情を動かさない」よう訓練を続けた結果、いつの間にか本当に感情を失ってしまったのではないでしょうか。

そうなってしまえば、たとえ目の前でだれかが殴られても平気です。辛い思いをしている人がいても、その存在を見ない、考えないようにすることができます。

そんな人びとの心性を小此木啓吾氏は次のように述べています。

「自分に心的な苦痛や不快を与える身近な人の苦しみや悲しみにかかわることには辛くて耐えられないと言えば、それは現代人のやさしさのように受け取れるが、このやさしさは、汚れ、醜さ、不快、悲しみを感じさせるものは、できるだけ眼前から排除し、遠ざけておきたい冷たさとひとつである。そしてこの心理的傾向は、いつの間にかわれわれ現代人のだれもを支配する心性になってしまった」(『対象喪失 悲しむといいうこと』195ページ)(続く…

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感情を失った人びとが、この日本社会を席巻していることは昨今の政治状況や政策を見ていても明らかです。

そうでなければ、放射線によって少なくとも今後4年は帰還できない住民が約5万4千人にも上るというのに(『朝日新聞』3月10日)、平気で原発再稼働などと言えるはずがありません。

住居さえ確保できず、先の見えない生活を送る人びとへの手当を後回しにして、老朽化した道路や橋の再築・修復、学校の耐震補強などを進められるはずがありません。

被災者の生活は置き去り

「経済成長最優先」と言ってはばからない安倍政権下では、公共事業や防衛費に多額の予算が付く一方、東日本大震災で被災した人びとの生活を支えるために制定されたはずの「子ども・被災者支援法」にはまったく予算が付かず、その基本方針さえ示されないままです。

東日本大震災被災者の住宅再建事業も進まず、宮城県では2015年度末になっても計画の約7割しか公営住宅を確保できない見通しで、原発事故による避難区域のある福島では必要な戸数さえも整理できないままで整備計画すら示せずにいます(『東京新聞』3月10日)。

人口流出が深刻化

大企業が請け負う事業には大きく予算が付く一方で、被災した中小企業を支援する「中小企業グループ補助事業」の予算は昨年度当初の半額である250億円に減らされました(『東京新聞』2013年2月10日)。
これでは地元企業の再建は進まず、農業や漁業もダメージを受けたまま。雇用不安が深刻化するばかりです。

菅直人元首相の肝いりで2010年4月にスタートした復興構想会議も、中間提言を出したものの同年11月には解散となり、被災地の復旧・復興は進まず、元の地域での再建を諦めて他の場所へと移転する人口流出が深刻な課題になっているとも言います(自治体の人口流出 危機が現実に)。

無人の浜に巨大防潮堤

そんな状況なのに、宮城県石巻市白浜地区の無人の浜には、建設費約45億円を投じて高さ8.4メートルの大防潮堤が1.3キロにわたる建設が予定されているといいます。

この防波堤を取り上げた『東京新聞』(2013年3月7日)の記事では、地元の自営業の男性が「住宅地を守るためならともかく、誰も住まないような空き地に、なぜ巨大な防波堤を作る必要があるのか。何十億円もかけてコンクリートの壁を築く意味が分からない」と憤る声を取り上げています。

また、この男性は、昨年5月に環境省が被災した沿岸部の国立公園や国定公園などを再編して三陸海岸一帯を国立公園化するという「三陸復興国立公園」(仮称)構想について、「巨大コンクリートで海も見えない国立公園なんてバカみたいだ」とも語っています。(続く…