「森発言」は個人のジェンダー差別問題なのか(1)

 東京五輪・パラリンピック組織委員会の新会長に前の五輪担当相だった橋本聖子氏が就任しました。
 橋本氏自身がオリンピックでも活躍したアスリートであること、そして、女性であることなどから、就任を歓迎する声も高く、いわゆる「森発言」問題も、これで幕引きという雰囲気になっています。

森氏辞任で一件落着?

 ことの発端は、2月3日の日本オリンピック委員会(JOC)臨時評議員会で当時会長だった森善朗氏が、「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」とか「組織委にも女性はいるが、わきまえている」などと発言したことでした。

 森氏は、「不適切な表現だった」と謝罪し、発言を撤回したが国内外からの批判は収まらず。女性の人権擁護団体を筆頭に、「オリンピックの男女平等の精神から大きく外れる」と、スポンサーやアスリートらも怒りのコメントを発表。聖火ランナーやボランティアが辞退するという事態にもなりました。

 こうした批判の声は、最もだし、私もまったく同感です。しかし、一方で、「森氏だけが批判され、辞任すれば一件落着なのか?」という疑問もあります。

海外生活の長い方の指摘

 森氏の発言について、海外生活の長いある方がこんなことを言っていました。

「森さんの発言は、確かにおかしいと思います。でもあれって、森さんだけの考えなんでしょうか? 日本では、『○○の女』とか『女✕✕』というタイトルのドラマなどをよく目にします。そういうのって欧米では無いと思うんですよね。それに女性として求められている能力が高いことを『女子力がある』というんでしょ? これもへんな言葉」

 指摘を聞いて、私は「なるほど」と膝を打ちました。芸能ニュースにうとい私でも、近年はやったドラマ『科捜研の女』『未解決の女 警視庁文書捜査官』(いずれもテレビ朝日)や『女弁護士~~』というようなタイトルがすぐに浮かびます。

 そもそも、「女優さん」とか「女医さん」と職業に性別を付けて区別する、というのもおかしな話です。

「女子力」って何?

 続いて「女子力」について調べると、定義は極めて曖昧でした。

 とある女性向け美容サイトでは、「外見のキレイさ、内面の美しさなどを磨くことで育つパワーのこと。魅力的な女性のまとっているオーラを「女子力」と呼ぶこともあります」(HOT PEPPERビューティマガジン)などと書いてあります。

 このサイトに載っている「女子力」の外見編は、「いつも笑顔でいる女性はみんなの目にかわいく映ります」、「ヒール・スカート・アクセサリーなど女性らしいアイテムを身につけてみましょう」など。内面編では「料理をきちんとつくる」「お部屋をキレイに保つ」などとあり、「男性がお嫁さんにしたい女性の条件」を思い出しました。

 自身の発言、存在を「老害」と呼ばれ、憤慨していた森氏ですが、なるほど怒る理由は一理あります。確かに、「女性はかくあるべき」という考えにとらわれているのは、必ずしも“高齢のおじさん”だけではないと言えそうです。

 ところで、女性と男性はまったく同じ生き物なのでしょうか? 女性らしさや男性らしさというのは幻想で、いっさい否定されるべきなのでしょうか。

「森発言」を批判する方々の中には、「男性と女性の能力に差は無い」とか、「女性と男性を区別するのはおかしい」といった意見も多く聞かれましたが、やはり私は違和感を覚えました。

男女の違いはある

“産む性”と“産まない性”は明らかに違います。男性でも子育てはできるかもしれませんが、子産みは女性にしかできません。
「新しい生命を宿し、この世に送り出す」という性を持つ女性は、多くの場合、子どもを産み育てることに必要な能力に長けています。

 もちろん個人差はありますが、たとえば危機的状況や他者の感情に敏感であったり、世話を焼くのが上手であったりします。

 一方、男性には男性の特性があります。こちらも同じくまた個人差はありますが、一般に、女性より体が大きく、体力や筋力があります。感情より論理で動こうとします。

 こうした男女の違い、「区別」というものは、それぞれの特性であって否定されるべきものではないはずです。


問題は経済効率で推し量ること

 問題なのは、こうした違いを経済効率で推し量り、優越を付けたり、本人の意思を無視して鋳型にはめようとすることです。

 妊娠や出産のために仕事を続けられなかったり、自分の能力を活かしたいのに「女性は子育てに専念せよ」と言うのは、おかしな話です。世話焼きが上手だからと、家事育児が女性の仕事のように言われるのも疑問です。

 そうやって、男性優位につくられてきた社会に不都合だから、経済効率から見て合理的でないからと、女性が重要なポストに就けなかったり、社会での活躍の場を削られるのは言語道断と言わざるを得ません。

「男らしさ」に苦しむ男性

マッチョ

 男性も同様です。「男だから」と、弱みを見ず、社会でバリバリ働かなければいけないというのはどうなのか。家事育児の方が得意な男性だっているはずです。

 それなのに社会が決めた「男らしさ」に縛られて、自分で自分のお尻を叩いて上を目指し、そのストレスを大事な家族にぶつけるしかないような、苦しい思いをしている男性に、私はたくさんお目にかかってきました。

ダイバーシティ

 今も日本にはだれもが「その人らしいオリジナルの人生」を生きることを阻む仕組みや考え方がはびこっています。差別されているのは、決して女性だけではありません。

「年を取っているから」
「障害を持っているから」
「子どもだから」

 そんな理由で、私たちの社会は相変わらず差別を繰り返しています。「力が無いのなら文句を言うな」「自分で稼げないやつは黙って従え」という、強者の論理を振りかざしています。

「森発言」は、こうした日本社会が隠そうとする差別思想の、氷山の一角に過ぎません。


個人の問題に矮小化してはいけない

 今回の「森発言」を、森氏の特殊な人格の問題だとして批判したり、女性蔑視発言に矮小化して糾弾することは、こうした日本社会全体の問題を覆い隠すことにつながります。

「老害」として森氏だけを切り捨てることは、逆に日本社会全体が持っている「弱者は差別されて当然」という、経済効率一辺倒の価値観を温存させてしまうことになります。

責任は私たちひとり一人にある

 批判されるべきは森氏だけで無く、換えるべき価値観は女性に対しての差別だけではないのです。

 森氏のような人物を政界のドンに祭り上げ、経済界と結びついたオリンピックやスポーツ界でも影響力を持つ人として君臨させてきたのは、私たちがつくってきたこの社会です。

 その責任は私たちひとりひとりにもあります。

だれもが認め合える社会を

 そんな自分たちの至らなさ、過ちを猛省し、「あらゆる人が『ひとりの人間』として認め合える社会」をつくっていくべきです。

 そのためにはまず、子どもやお年寄りなどの社会的弱者と呼ばれる人々、経済利益を生みにくい人々が、自分の思いや願いを遠慮すること無く表現し、それに沿った人生を選べるよう、社会の仕組みや価値観を変えていくことが必要です。

間違っても、「女性アスリートを会長に就任させる」だけで終わってはならないのです。

「オリンピックはスポーツの祭典でも、平和に寄与する祭典でもない」

今年の東京オリンピックほど、その事実を白日の下にさらしたオリンピックはかつてなかったのではないでしょうか。

世論調査によるばらつきはありますが、少なくとも6割強から多いものでは8割もの国民が反対し、東京では毎日1000人を超えるコロナの感染者数が確認されるなかでの開幕です。

7月30日には、3日連続で都内の感染者が3000人を超えました。医療体制も逼迫状態で、通常の医療への影響が心配されています。
同日、菅義偉首相は東京都と沖縄県の緊急事態宣言を8月31日まで延長すること、埼玉県、千葉県、神奈川県、大阪府に緊急事態宣言を出すこと、北海道、石川県、京都府、兵庫県、福岡県で、まん延防止等重点措置を実施しすることを発表しました。


それでも「中止はない」(菅首相)

それでも菅首相は「オリンピックの中止はない」と言い切りました。
『朝日新聞』21年7月27日)によると、先の四連休時には、首都圏から移動した人は18万人。それでも「人流は減っている」(菅首相)のだそうです。

小池百合子都知事も「オリンピックはステイホームに貢献している」(『東京新聞』21年7月29日)との認識です。

危機感を薄めたオリンピック開催

一方、同じ記事中で厚生労働省に助言する専門家組織アドバイザリーボードの脇田隆字・国立感染症研究所長は「五輪というか、お祭りが行われているメッセージも影響する可能性がある」と指摘しています。

「国が祭典であるオリンピックを開催しているくらいなんだから、多少、出歩いても問題無い」という意識が広がっている、ということでしょう。

私も同感です。去年の緊急事態宣言時には厳密にステイホームを守っていた人たちが「だって、オリンピックやってるし・・・」と言うのをたびたび聞きました。

オリンピック開催が、「真剣にコロナ対策などしなくてよい」とのメッセージになってしまっています。

ずさんなコロナ対策

そもそも、国のコロナ対策を見ていると、とても本気というか、正気とは思えません。

国が「どんどん接種してほしい」「接種は順調」と豪語したワクチン供給量は足りず、防衛省の大規模接種センターでは「予約が消える」「虚偽番号でも予約可能」逆に「正しい番号でも予約ができない」などのトラブルが続いています(『東京新聞』21年7月22日)

大会関係者らへの定期的なPCR検査についても、未受検者への警告は全員でなく、対象者を抽出して行うと記載した内部マニュアルを作成していました(『東京新聞』21年7月22日)。それでも、すでに100人を超える陽性者が出ています(『毎日新聞』21年7月23日

ずさんなコロナ対策は棚に上げ、菅首相は、「若い世代での感染が急拡大している。40代、50代の重症者が増加傾向になっている」(21年7月30日の会見/『NHK』)と、責任を若い世代に転嫁してはばかりません。

五輪関係者を外部と遮断するはずのバブル方式も穴だらけです。来日した五輪関係者らが、コンビニに出かけたり、宿泊ホテルの近くで「路上飲み」したりする姿が報道されています。

国民には、「不要不急の外出自粛や飲食店の時短営業、テレワークをしながら自宅でオリンピック観戦を」と言いつつ、オリンピック関係者らをはとバスツアーで“おもてなし”しようとしたり、国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長は広島訪問。さらには迎賓館で歓迎のセレモニーを開くなど、もうあきれるばかりです。

まるで明治初期

国民を犠牲にして迎賓館でバッハ会長をもてなす報道を見て、鹿鳴館で白人をもてなしていた明治初期を連想しました。

西洋の文物を取り入れ、西洋人におもねって西洋文化を文明国だと認めてもらおうと必死に猿真似していた明治初期。あの頃と、日本という国はなにひとつ変わっていなかったのだと心からがっかりしました。

これでは一部の上流階級の権益とプライドを守るため、国民を犠牲にして戦争へと突き進んで行った時代と何ら変わりありません。

格差を見せつけられるばかり

「コロナに打ち勝ち、スポーツの力でつながりを取り戻す」(政府)ためと言いますが、やっていることは「オリンピック(スポーツの力)で分断を招いている」ようにしか見えません。

オリンピックが商業主義になり下がったことは周知の事実ですが、巨大な利益を享受するIOCやそれに群る大企業、それらと一体化した政治家らの傲慢さと、一般庶民との格差を「これでもか!」と見せつけられている気がします。

専門家の意見は無視

政治家たちは、なぜに専門家の意見を聞かないのでしょう。
前回も書いたように、オリンピックが人流を増やしているのか、減らしているかについて小池都知事と脇田国立感染症研究所長の見解は真逆です。

6月の段階で、新型コロナウィルス感染症対策分科会の尾身茂会長が、「今の状況でオリンピックをやるのは、普通はない」と言い、オリンピック開催時には新たな人の流れが生まれるとして、「スタジアムの中だけのことを考えても、しっかりした感染対策はできないと思う」と発言したときには、田村憲久厚生大臣が「自主的な研究の成果の発表」(『毎日新聞』21年6月8日)と言い、ある自民党幹部は「言葉が過ぎる。(尾身氏は)開催を決める立場にない」と発言しました(『朝日新聞』21年6月3日)。

専門家の意見を個人的な感覚や感想で一刀両断にできるほど、どうしてそんなに政治家やオリンピック関係者は傲慢で、“偉い”のでしょうか。

皮肉な「多様性と調和」という大会理念

今回のオリンピック・パラリンピックの大会理念は「多様性と調和」です。

皮肉なことに、女性蔑視発言を堂々とできる東京オリンピック(五輪)・パラリンピック大会組織委員会森善朗前会長をはじめ、出演者の容姿を侮辱する演出を考案した佐々木宏氏、過去のいじめを自慢していた音楽担当の小山田圭氏、ホロコーストのコントを発表していたショーディレクターの小林賢太郎氏など、関係者の特権意識、差別意識も明らかになました。

今や日本中に不協和音が鳴り響いています。

おとなはテレワーク、大学生はオンライン授業。子どもたちの楽しい行事は「密になるから」「人の移動は減らさないといけないから」と、潰されているのに、どうして海外から大勢を呼んでのオリンピック開催は大丈夫だと言えるのでしょうか。

逆に、一般には「熱中症になるから激しい運動は避けよ」と言いながら、猛暑の炎天下でのオリンピック開催も解せません。
今回は、一部選手らの申し出で開始時間が変更になった種目もありますが、そもそも近年の東京の暑さを考えれば、この時期にオリンピックを開催すること自体が常識外れです。

二枚舌使いもここまで来るといちいち指摘するのもバカバカしくなります。


「復興五輪」はどこへ?

聖火ランナーはまともに人の集まる街道を走れず、ほとんどの会場が無観客。国や種目によってはオリンピック参加を辞退したり、コロナが陽性になったことで棄権した選手もいます。

100歩譲って、「オリンピックが平和の祭典」で「人のつながりを取り戻すために行う」のだとしても、こんな状況での開催に、いったいどんな意義があるのでしょう。

そもそも言われていた「復興五輪」はどこに行ったのでしょうか?

「復興」の名の下、東京での開催が決まったとき、福島の知人が言っていた「開催するころには、福島は忘れられている」と言っていた言葉が、今も耳に響きます。

安倍前首相は「福島の原発はアンダーコントロール状態にある」と強調していましたが、福島は今も原子力緊急事態宣言が発令中です。復興どころではありません。

メディアもダブルスタンダード

権力を批判、監視するはずのメディアのダブルスタンダードも明らかになりました。

コロナで逼迫する医療現場や疲弊する飲食店の窮状を報じ、「国民の多くがオリンピック開催に不安を持っている」といった意見を示しつつ、日本選手のメダル獲得を称え、選手や関係者らを賞賛する報道を続けました。

もちろん、選手たちに罪が無いことは分かっています。しかし、オリンピック開催について反対なのか、賛成なのか・・・。メディアの姿勢も理念もまったくわかりません。
結果的に、政府やオリンピック開催者を応援しただけなのではないでしょうか。

そして何より、不満を持ちつつもオリンピックムードに酔う多くの国民の感覚も、私には理解できませんでした。

国民に行き渡るだけのワクチン供給さえできず、「オリンピック最優先」で日常生活の制限までされているのに、オリンピックが始まるやいなや、街頭インタビューでは「家に帰ってテレビを見るのが楽しみ」だの「日本選手の活躍にワクワクする」といったコメントをする人たちがいました。

関連グッズも飛ぶように売れたそうです。開会前の8倍にも上る勢いだったとか(『Yahoo!ニュース』21年7月28日

英雄や権力者、理想とする人物を真似たり、そういった人々と一体感を味わうことで、劣等感などの満たされない欲求を満たそうとする無意識の働きを精神分析では「同一化」と呼びます。

もしかしたら、多くの日本人が“満たされなさ”を抱えているという証拠かもしれません。

子どもたちは何を受け取る?

今回のオリンピックから、子どもたちはいったい何を学んだしょうか。少なくとも「多様性」も「調和」も「つながり」も学ばなかったことだけは確かでしょう。

「この時期の日本は温暖で晴天が多い」と嘘をついて大会を招致し、森善朗・前組織委員会会長の女性蔑視発言に代表されるパワハラやセクハラ、障害者や容姿への差別などが続出しました。

大会ボランティアの弁当を大量廃棄するなどの食品ロス、大学生をはじめとする子どもたちの動員問題もありました。

大会期間中にコロナ感染者が爆発的に増え、国民の生活と命を危険にさらしても、だれも責任も取ろうとしません。

「力がある者は何をしてもいい」

子どもたちはそんなメッセージを受け取ってはないでしょうか。

パラリンピックに子どもを動員?

こんな状況で、今度はパラリンピックを有観客にするかどうかの議論が行われています。

「小中高校生らが学校単位で参加する『学校連携観戦プログラム』の活用を求める動きがある」というニュース(『毎日新聞』21年8月8日)を見て、腰を抜かしそうになりました。

日本代表選手団の河合純一団長は8月5日に、千葉県庁を訪れ、パラリンピックの有観客へ積極的な姿勢を示していた熊谷俊人知事に子どもたちが観戦できるよう協力を求める要望書を提出したというのです。

思わず小説家で劇作家、俳優でもある筒井康隆氏のエッセイ『狂気の沙汰も金次第』(新潮文庫)というタイトルが頭に浮かびました。

オリンピックは中止にすべき

商業主義オリンピックとなってからどうにも受け入れがたかったオリンピック。しかし、今回ほどで強い嫌悪感を感じたことはありません。
本来の目的を失い、金と利権にまみれた祭典、そして不信と分断、差別と格差を募らせるオリンピックなど、金輪際、行うべきではありません。

東京パラリンピックが無観客のまま開幕しました。新型コロナウィルスの全国的な感染拡大の中での開幕です。

この間、海外から来日し選手村に滞在する選手1人を含む新たに10人が新型コロナウイルスに感染したと報道されました。大会組織委員会の発表(24日)によると、東京パラリンピックに関連して新型コロナの検査で新たに陽性反応を示した人は10人。

これで組織委員会が今月12日から発表しているパラリンピック関連の感染者は154人となりました(『NHK NEWS WEB』2021年8月24日) 。


中止という選択肢は無いまま

東京オリンピックの開催が感染拡大の大きな要因だったことはもはや明白です。「海外から来た関係者が持ち込んだ」「聖火リレーや開会式時に人が集まった」というような、物理的な理由だけでなく、人々に「オリンピックをやってるんだから、オリンピック関係者は平気で出歩いているんだから、自分たちだって多少は出かけてもいい」という気持ちにさせたという側面が、非常に大きかったことは否めません。

それにもかかわらず、政府やオリンピック関係者からは、「オリンピックのおかげで(家でテレビを見たりする人が増えて)人流は減っている」という、驚くような発言が飛び出しました。そして、パラリンピックの中止はただの一度も、議論の俎上にも乗りませんでした。

驚きの「学校連携観戦プログラム」

子どもたちへの感染が広がり、「2学期から通常通り登校できるのか」「基本的にオンライン授業にすべきでは」という話も出るなかで、東京パラリンピックの観戦機会を子どもたちに提供する「学校連携観戦プログラム」は取り消されませんでした。

競技会場のある埼玉、千葉、東京の3都県が計約17万2千人を対象に実施する予定だとの報道(『東京新聞』21年8月22日)を見て、卒倒しそうになりました。

実際には、参加を望まない家庭や学校も出てくるため、もう少し減ったでしょうが、この現状を踏まえたら驚きの数字です。何より、実行するという勇気にびっくりです。

学ぶのは商業主義のえげつなさ

パラリンピックを観戦すれば、「学校連携観戦プログラム」を強硬に後押ししている小池百合子都知事らが言う「共生社会について学ぶ」ことが本当にできるのでしょうか。

私にはとうていそうは思えません。
前回までのブログ「不信オリンピック」でも書いたように、子どもたちが学ぶのは、力ある者の横暴さであり、矛盾に満ちたダブルスタンダードです。

学校や友達との遊びや、行事は中止。それなのに、オリパラは実施する。
不要不急の外出は自粛で夏休みの旅行は中止なのに、バッハ会長の“銀ぶら”はOK。
人が集まることはしてはいけないはずなのに、パラリンピックには行く。
「安心・安全」と言いながら、感染者が拡大してもその責任は取らない。

共生どころか、商業主義のえげつなさや“持てる者”とそうでない者との決定的な格差を実感したことでしょう。

無策

それにしても日本は、この国の政治家は、権力者たちは、どうしてここまで無策なのでしょう。なぜここまで有効なコロナ対策ができないのでしょうか。

オリンピック・パラリンピックを強行しようというのならば、せめて国民に潤沢なワクチン供給を約束するべきでした。

ジャニーズのコンサートのようにすぐに埋まってしまう予約枠のおかげで、多くの人がワクチンの予約のために無駄な労力を使わされています。ワクチンを打ちたくてもいまだ打てない人がいっぱいいます。

東京都渋谷区に設置された東京都若者ワクチン接種センターに長蛇の列ができたことを見ても、「若者の接種意識は低い」という話も眉唾です。

接種のための予約方法も、少ない供給量を隠すために、わざわざ予約手続きを複雑にしているのではないかというような手間がかかり、とても不親切です。

アメリカでは身近なドラッグストアで簡単に接種予約が取れたり、球場など不特定多数の人が集まる場所で未接種の人にワクチンを打って歩いたりという話も聞いたとき、日本との違いにびっくりするのを通り越し、怒りがわきました。


ただ国民に責任を押し付けただけ

自粛

日本政府がやったコロナ対策と言えば、緊急事態宣言・蔓延防止等重点措置を繰り返し出し続けたことだけです。つまり、ただひたすら国民に自粛を求め、責任を国民に押し付けただけ、ということです。

自粛に応じた飲食店等に協力金の支給はしていますが、その支払いが遅かったり、申請がややこしかったり、飲食店に物品を納入する業者は含まれなかったりなどと、またもや「できるだけ金を使いたくない」という姿勢がありありです。

「だれでもなり得る」とのスタンスで

もはや感染はだれでもあり得ます。マスクをして、手洗いに気を付けていても、できるだけ外出しなくても、だれもが陽性者になり得ます。
実際、医療現場のひっ迫で病院に入れず、適切な保健所のサービスも受けられない自宅療養の人も増え続けています。

それなのになぜ、陽性者を一堂に集めて医療チームが重症度に応じた治療ができるような“野戦病院方式”の治療施設を設置するなどの医療体制をつくろうとはしないのでしょう。
「だれでもなり得る」というスタンスで、かかったときにだれもが安心してすぐに医療を受けられる体制づくりこそ、今は急ぐべきではないでしょうか。

オリンピックやパラリンピックのために設置された会場を効率的な陽性者の治療病院として提供するほうが、ずっと共生社会を学ぶ機会になるのではないでしょうか。

「どうして政府は動かないのか」
「なぜ、だれもが有効とは考えていない緊急事態宣言・蔓延防止等重点措置を出すだけなのか」

憤りを感じながら、全国知事会などが「人の流れを抑えられるロックダウンのような措置を」と要求(『NHK NWES WEB』21年8月20日)するニュースなどを見ていて、ふと思いました。

「もしかしたら、わざと無策を演じているのか」と。

GIGAスクール構想のように

コロナ禍に乗じ、もともと機会をうかがっていた政策や立法の実現を目論んでいるのではないか、という考えが浮かんだのです。

たとえばコロナのおかげで、企業の新たな市場発掘のために進めたかった小中学生にタブレット等の端末を配布して教育現場のネット環境を推進するGIGAスクール構想も前倒しで進みました。関連予算は4600億円超です(『日経NEXT ACTIV』)。

コロナ禍だからこそ、多くの予算を少人数制のための教員増員や子どもが安全に登校できる設備づくりに充てるべきです。子どもは、関係性の中でしか共感能力や自己肯定感を身に着けることはできません。そうした人格形成のための教育を放棄し、教育を金儲けの道具にしてしまいました。

何かを狙っている?

これと同様、自粛という名で責任を国民に押し付け、無策に走るふりをしつつ、何かを狙っているのではないでしょうか。

安倍政権時に、「東京オリンピック・パラリンピックに向けたテロ対策」として、平成の治安維持法とも呼ばれる「テロ等準備罪」(共謀罪)がつくられたように。21年秋に行われる自民党総裁選に立候補している岸田文雄前政調会長が、アフガニスタンからの日本字らの退避をめぐり、自衛隊法を改正すると言い出したように。

恐ろしい妄想

もしかしたらそれは、言うことを聞かない国民や、都合の悪い考えを持つ国民がいたら、規制をかけられるような法律づくり。国が「有事」と判断したら、国民の自由を制限できるような仕組みづくりなのではないでしょうか。

オリパラ強行開催やワクチン供給量の不足など、国の責任は棚上げにして、「自粛しろと言ったのに、国民が従わなかったからコロナが蔓延した」と、今以上に、自分たちにとって都合よく国民をあしらう準備をしているのではないでしょうか。

そんな恐ろしい私の妄想が、妄想であってほしいと祈る今日この頃です。