松葉杖

 まったくの私ごとですが、一月ちょっと前に足を骨折しました。

以来、身支度をするのも、家事をするのも、猫の世話も、何もかもがびっくりするほど時間がかかり、いろいろなことが滞りがちです。おかげでこのブログも今までに無いほど、更新できないまま放置してしまいました。

通院や出勤はおろか、ちょっとそこまで買い物に行くのも、銀行のATMを利用するにも決死の覚悟。車の運転はできませんし、スーパーなど広大すぎてとても足を踏みれることもできません。
あらゆることが自分一人ではできず、いつもだれかの力を借りなければできない状態が続いています。

社会的弱者を体験中

そんなこんなで、改めて社会的弱者を体験中です。「バリアフリー」が謳われて久しいですが、日本はバリアだらけだと実感します。

とあるJR駅でエレベーターを降りたら、そこにはエレベーターもエスカレータもありませんでした。地下鉄に乗るためには歩道橋を渡るか、駅を横切ってえんえんと階段と地下道を歩いて行くしか無く、慣れない松葉杖歩行に閉口しました。

松葉杖姿で始めて上りエスカレーターに乗ったときは、その早さにうまくついて行けず転落。緊急停止ボタンが押され、人々に囲まれる騒ぎとなりました。交差点では、信号が変わるまでの時間が短すぎて焦り、おしゃれな石畳の道では松葉杖がひっかかって転びそうになりました。

隠された「排除の論理」

不自由な体になるとちょっとした段差や傾斜、今まではまったく気づかなかったちょっとしたでこぼこなどが、そのままになっていることがよく分かります。

「とりあえず付けた」であろうスロープや、「ちゃんとやってますよ」というアリバイづくりのためのエレベーター設置などなど、表面上は善人の顔をしつつ、腹の中では「みんなに合わせられないならおとなしくしていろ」という、無言の圧力を感じます。

表だって排除はしないけれど、「空気を読んで身の丈に合った言動をしろ」、「雰囲気を察して自ら邪魔にならないように振る舞うべきだ」という、「排除の論理」があるような気がしてならないのです。

日本は親切な国?

「思いやり」だの「おもてなし」の国だのと言われ、一見、親切な国のように言われている日本ですが、疑いたくなることが多々あります。

 たとえば、Charity Aid Foundationという団体が、過去1月間に「手助けを必要としている見知らぬ他人を助けたか」「チャリティー団体などに寄付をしたか」「チャリティー団体などにボランティアとして自分の時間を提供したか」などの「人助け指数」を毎年公表している世界寄付指数(world giving index)を見てみると・・・。
 
 最新の2018年の発表では、日本のランキングは世界142カ国中128位。オリンピックを目前に控え、ボランティア活動がさかんになっているはずなのに、前年より17位ランクダウンしています。(参照(PDFファイル)

ネコ

 猫との関わりを通しても、日本人の優しさ、親切心に疑問を感じています。

 これもまた個人的な話でありますが、昨年より保護猫活動を始めました。保護猫の世界ではまだまだ新参者。意見を言うのはおこがましいのですが、そのわずかな経験からも「日本の野良猫たちが日常的に人間から排除され、いじめられているのではないか」と、考えるようになりました。

 野良猫たちは、とにかく人をとっても恐れていて、ちょっとやそっとでは近づいてきません。うっかり庭先で人間に出会ってしまったら、もう大変。右往左往、上を下への大騒ぎで、ゴーヤーネットを破り、植木鉢を蹴飛ばして逃げ回ります。

 家の中に入り込んでしまったときなどは超パニックです。先日は、玄関先に飾ってある旅行の思い出の品や茶香炉などを割られてしまいました。


海外の野良犬や野良猫は

 ひるがえって海外に行ったときには、野良犬や野良猫が開け放たれたレストランの入り口から、ふらっと入ってくる姿を良く見かけます。
 人々はとくに気にせず食事を続けています。顔をしかめる人や、店に文句を言う人に出会ったことがありません。

 ときに店の人に追われることもありますが、あちらも本気で危害を加えられるとは思ってもいない様子。いったんは退散するものの、すぐにまた戻ってきて、ご飯をくれそうな人のもとへと近寄って行きます。

「排除されている」猫たち

 宗教上の問題などもありますから、「世界中どこの国もあらゆる動物に優しい」とは言いません。日本のなかにも通称「猫島」と呼ばれるような場所や東京の「猫の町」谷中のような所があることも知っています。
 
 しかし、それはどちからというと特殊な場所です。日本で暮らしていて野良犬や野良猫が人間に受け入れられ、日常に溶け込んでいる風景はほとんど目にする機会がありません。

 空前のペットブーム、とくに猫ブームと言われる日本において、今も変わらず歴然と「排除されている」猫がいて、人間に怯えながら暮らしているのです。

 日本社会では、だれかの世話になり、手を借り、恩恵に預からないと生きていけない存在は、いつでも小さくなって、隅っこにいるよう強いられているような気がします。