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その後も、イスラエルとパレスチナの戦闘はどんどん激しさを増しています。
イスラエル軍の軍事作戦がはじまった7月8日以降、パレスチナ人の犠牲者は550人にも及び、21日には7人の子どもを含む9人が死亡。病院までもが砲撃の対象になっていると報道されています(『東京新聞』2014年7月22日)。

また、ロシアとウクライナの関係が悪化する中、今月17日には、乗客乗員295人を乗せてオランダからマレーシアに向かっていたマレーシア航空の旅客機がウクライナ東部で墜落するという事故が起きました。
墜落の原因は、親ロシア派による撃墜との見方が濃厚です。

二度にわたる世界大戦を教訓に、国際社会が「平和」「平和」と言い続けてきたはずなのに、現実はまったく違う方向に向かっているように見えてなりません。

「死の本能」はあるのか

いったいなぜ、こんなことになってしまっているのでしょうか?

フロイトの言うように、やはり人間は「死の本能」があり、すべての生物は「無」・・・すなわち「死」へと向かう基本的な傾向を持っているのでしょうか。

「死の本能」が「生の本能」を圧倒してしまったがために、自分を破壊しようとする衝動や他者を攻撃しようとする欲求が強まってしまい、世界中でこんなにも戦争が激化してしまっているのでしょうか。

超自我を強化しても無駄?

もしそうなのだとしたら、「こうあるべき」という価値観を植え込む超自我をいくら強めても、無駄なことだという話になります。

何しろ、安倍首相をはじめ、今や世界中の権力者が秩序や規範を強化し、厳罰化を進め、規制を強めています。
そうやってたくさんのルールをつくって、「やっていいことと悪いこと」を徹底させれるべく、努力しているにもかかわらず、戦争は無くなる兆しもありません。

それどころかさらに憎しみは増し、恨みは倍増して、「目には目を」「やったことには責任を」というような状況が生まれています。

フロイトの理論から言えば、超自我を強化すれば、人間の願望である「死の本能」は抑制できるはずですが、やっぱりそれは間違っていたということになります。(続く…

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そもそも平和とはどんな状態を指すのでしょう。
戦争がなくて、テロがなくて、食べ物が十分にあれば平和と言えるのでしょうか。

もしそうだとしたら、世界の国々と比較すれば戦後の日本はほかに類のない平和な国ということになります。
間接的にアメリカ軍を応援したり、自衛隊の増強を図ってきたり、集団的自衛権を行使できるよう憲法解釈を変更するなど、「本当に戦争を放棄した国なの?」と思う動きは多々あしますが、少なくとも具体的な戦闘状態というのはありませんでした。

日本は「平和の文化があふれた国」?

では、日本はどうでしょう。

このブログの『福祉から遠い国』でもご紹介したように、日本でも生活保護が受けられず餓死する人がいます。
今月、厚生労働省の『国民生活基礎調査』から、平均的な所得の半分を下回る世帯で暮らす18歳未満の子どもの割合を示す「子どもの貧困率」が16.3%と過去最悪を更新したこともわかりました。

しかしそれでも、日本の飢餓のレベルは、難民キャンプで暮らしている人々や、慢性的な食糧不足にあえぐ国とは違います。
では、はたして、今の日本は「平和の文化があふれた国」と言えるのでしょうか?

平和の文化など存在しなかった

国際連合教育科学文化機関憲章(ユネスコ憲章)の前文
https://www.mext.go.jp/unesco/009/001.htm)には、「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」と書かれています。

でも、人類の歴史を振り返ってみたところで、そうしたとりでを築くことに成功した国や文化が存在したでしょうか。

自由、正義、民主主義を掲げるアメリカという国が、けして「平和の国」でないということは、周知の事実です。

「縄文時代は争いが極端に少ない文化だった」とか「江戸の世は天下太平だった」という話も聞きますが、そうした時代においても、争いはありましたし、何より力を持った者が持たないものを力で支配するという事実は存在していました。

私たち人類は、今まで一度も、本当の意味で平和の文化を享受したことはなかったし、心の中に平和のとりでをつくることもできなかったのではないでしょうか。(続く…

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では、人類史上、一度も存在したことのない平和の文化を築くには、どうしたらいいのでしょうか。それよりなにより、暴力というものはいったいどこから生まれてくるのでしょうか。

それは、わたしたちひとりひとりの心の中です。私たちはだれもが心に「内なる暴力」ーー子どもの頃から身に受けてきた自覚できていない暴力ーーを抱えているのです。

不幸な子ども時代が悲劇を生む

たとえば世話をしてくれるはずの親が理不尽な理由で暴力をふるったり、「子どもだから」と屈辱的に扱われた子どもが力を得たときに、自分より弱い者に対して横暴な振る舞いをするという話はめずらしくありません。

そうした不幸な子ども時代が多くの人の命を巻き込む悲劇を生んだ例として以前、ヒトラーを紹介しました(「生い立ちと人格」)。
もっと身近な話なら、2001年に大阪教育大付属池田小学校に包丁を持って押し入り、子ども8人を死亡させ教師と子ども15人に重軽傷を負わせた宅間守死刑囚や、東京秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込んだ後、ナイフを振り回して7人を死亡させ、10人に重軽傷を負わせた加藤智宏被告などがいます。

また、ここまで大がかりな事件ではなくても、虐待を受けた子どもはそうでない子どもよりも長じて虐待者になりやすいという「虐待の連鎖」は、よく知られていますね。

真実から目をそらして

私たちはみな、「親に愛されたい」と願いつつ成長します。無力な子どもは、自分を愛し、世話してくれるおとななしには生きていけないからです。
だから親がたとえ理不尽なことを言ったりやったりしたとしても、それを「ありがたい」と受け止めたり、「自分が悪い子だからこんな目に遭うんだ」と、自分を納得させます。

また、「親は子どもを愛するもの」という社会通念もあります。だから、もし、暴力で支配されながら育ったとしても、それが「暴力である」と気づくことはとても難しくなります。いえ、それどころか「親が厳しくしつけてくれたおかげでこんな立派なおとなにれた」などと思っていたりします。
真実に気がつくことは、自分の身を危うくしますから、必死に真実から目をそらそうとするのです。

「内なる暴力」の正体

こうした方法は、確かに日々を生き延びるためには便利ですが、高い代償も伴います。
暴力に怯え、力に支配され、だれにも慰めてもらうこともないまま泣き続けている子ども時代の自分から目をそらしつづけることになるからです。

自分自身からも存在を消されたこの子どもは、自分自身にさえ理解してもらえない憤りと孤独の中で、ひっそり生き続けます。自分をそんなところに押し込めた恨みをどうにかしてはらそうと機会がうかがいながら・・・。

それが「内なる暴力」の正体です。(続く…

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こうした「内なる暴力」に抗うには、どうしたらいいのでしょうか。「平和の国はどこにある?」(2)でも示したとおり、規範や価値観を教え込んで超自我を強めても、効果がないことは、過去の歴史が証明しています。

いや、現在進行形の各国の紛争・戦争をはじめ、ヘイトスピーチや、原発の再稼動や武器輸出の問題。パワハラ、体罰、いじめ、虐待・・・現代社会に噴出する、命や尊厳を脅かすさまざまな問題が、それを証明しています。

なんだか絶望的な気分になってきますが、打つ手はあります。

「内なる暴力」が私たちの心の中から生まれてくるのであれば、それが生まれないようにすればよいのです。不幸な子ども時代が、「内なる暴力」を生み、増幅させるのですから、多くの子どもが幸せな子ども時代を送れるような社会を築けばよいのです。

白バラ抵抗運動

ヒトラーが君臨した時代のドイツ国民は、ヒトラーを盲信しました。ヒトラーが言うとおりに戦争へと突き進み、ユダヤ人を収容所に送り、幼い子どもまでも平気で殺しました。
心の底から、ユダヤ人を軽蔑し、「どんな仕打ちをしてもよい」と思っていた人もいるでしょうし、自らの身を守るためにそうせざるを得ない人もいたでしょう。

しかし、そうした世の中にあっても、ユダヤ人の強制収容に反対した人たちがいました。よく知られているのが「白ばら抵抗運動」と呼ばれる反政府運動がありました。
この白ばら運動に参加し、処刑されたゾフィー・ショルという女性を主人公にした映画(『白バラの祈り ゾフィー・ショル最期の日々』TCエンタテインメント)のおかげで、日本でもよく知られていますね。

ゾフィーは1943年にドイツのミュンヘン大学構内で違法なビラをまいた容疑で兄と共に逮捕され、わずか四日後に死刑判決を受け、即日処刑されました。この白ばら運動ではショル兄妹を含む6人が処刑されていますが、最も年若で女性だったためにゾフィーがその象徴のように扱われるのかもしれません。

アリス・ミラー氏の指摘

私が敬愛する心理臨床家のひとりであるアリス・ミラー氏(ポーランド生まれ、スイス在住)は『子ども時代の扉を開く 七つの物語』(新曜社)に興味深いことを著しています。

「ナチ時代に、ユダヤ人を救おうと自分の命を危険にさらした人たち」について、400人以上の証言に基づく実証的な研究から、「多くの人々が残酷な行為へと流されていくなかで踏みとどまることができた人々の家庭の雰囲気」、「教育スタイル」について述べているのです。(続く…

このシリーズの最初の記事へ ミラー氏によると、ショル家だけでなく自分の命を危険にさらしてまでユダヤ人を救おうとした人たちの生育環境に共通していたのは、「親だからと言って上から命令したり、暴力で子どもを支配するようなことがなかった」ということでした。

そうした人たちの両親は、子どもとよく話し、「なぜそう思うのか」と子どもに問い、子どもが悪いことをしたときには「なぜ悪いのか」をきちんと説明してくれるような人たちだったというのです。

平たく言えば、力で子どもの尊厳をつぶすことなく、子どもの発するメッセージにきちんと耳を傾けてくれるようなおとなとの関係性の中で育った人たちだったということでしょう。

健全な関係が子どもの脳を育てる

子どもにいつでも目を向け、そのニーズをくみ取り、子どもの心に生じる不安や恐怖を取り除いてくれるようなおとなとの関係。いつでもその人のもとへと戻れば、安心でき、慰められ、エネルギーを充電できるようなおとなとの関係。

こうした関係が子どもの心(脳)の健全な発達・・・人間として生きていくために必要な共感能力や前向きに何かにチャレンジする力、自分だけでなく他者の幸せのためにもそのエネルギーを使えるような道徳性や自律性・・・つまり「平和の国」を築くために必要不可欠なさまざまな能力を発達させることは、かねてから言われてきました。

それを理論としてまとめたのは、アタッチメント(愛着)理論の提唱者であるイギリスの精神科医ボウルビィです。

ボウルビィは、戦争孤児の調査から子どもが養育者との間に心から安心できるような絆を結べるかどうかがその後のあらゆる発達に影響を与え、健全な人格形成には健全なアタッチメントの形成が必要であることを示しました。

アタッチメント理論の浸透

実はこのアタッチメント理論は、1990年代以降、ほとんどの心理療法へと浸透し、近年、アメリカで一大ブームを巻き起こしています(『ソマティック心理学』139頁、久保隆司著/春秋社)。

大脳生理学やトラウマの研究、虐待の世代間連鎖の研究、日々の臨床の現場などなど、さまざまな研究・科学・実践が進む中で、ボウルビィが観察研究によって打ち立てた理論が、真実であるということがわかりはじめたのです。

たとえば、子ども時代に不適切な養育を受けたおとなであっても、心理療法を受け、セラピストとの間に健全な絆、安心できる絆を結ぶことができれば、子ども時代に持ち得なかった、人格形成、心(脳)の発達に不可欠な体験を補うことができるというわけです。(続く…

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前回までに述べたような研究、実証、いえ、現実があるからこそ、科学的・歴史的・世界的に認められた子どものための国際条約である子どもの権利条約は、「子どもは、愛情と理解ある家庭環境の中で子どもが成長すべき」として、「子どもの成長および福祉のため、責任を十分に引き受けられるような保護と援助を家族に与えよ」と述べているのです(子どもの権利条約 前文)。

だからこそ国連子どもの権利委員会は、子どもの権利条約12条を「子どもがありのままの意見・欲求を身近なおとなに表明し、それに適切に応答してもらう権利」と解釈したのです(2005年11月「乳幼児期(出生から8歳まで)における子どもの権利」に関する一般見解)。

平和の国は確かにある

戦争も争いも暴力も無い平和の国は、確かにあります。

私たちおとなの目の前にいる、子どもひとりひとりの心の中に、その国は紛れもなく存在しています。

しかし残念なことに、その平和の国を、平和の国として維持し、発展させるようなかかわりが、私たちおとなにできていないのです。競争や格差、差別を容認し、子どもの思いや願いよりも経済的な利益を優先する私たちの社会が、子どもたちの心の中にある平和の国を破壊してしまっているのです。

平和の文化が花開くとき

平和の国は、強い武器や兵力をもつことで到達できるようなものではありません。一部の力ある者の支配によって実現できるようなものでもありません。規範やルールの強化で可能になるものでもありません。

私たちおとなが、子どもの欲求にきちんと応え、ありのままで子どもを抱えてあげることができるようになったとき。
こどもたちが「自分は愛されている」「自分はここにいていいんだ」と、心の底から核心できるようになったとき。
親からされた理不尽な暴力を「ありがたいもの」と受け止めたり、いつのまにか育てた恨みや憎しみをため込む必要がなくなったとき。

そんなふうに子どもたちが生きられるようになったとき、平和の文化は花開き、子どもたちの心の中にある平和の国が、現実の国となるのです。

新年、明けましておめでとうございます。

すでに年が明けてから半月が過ぎてしまいました。ご挨拶が遅れましたことをお詫びいたします。

「大切なもの」を考えせられた去年

昨年はみなさまにとってどのような年だったでしょうか。そして、今年はどのような年にしていきたいとお考えでしょうか。

私にとっての2015年は、いろいろなものを失った年でした。
私にとって大事な存在を失うこと、関係性を失うこと、若さや健康を失うこと・・・いろいろなものを実感いたしました。

でも逆に言うと、「大切なものは何か」を改めて考えさせられた年でもありました。
まだまだ悲しみに沈むときが多い、今日この頃ですが、大切なものを失ったのですから、当たり前ですよね。

今年は、じっくり、ゆっくりと自分の気持ちと向き合い、悲しみを整理する年にしたいと思っています。

ネガティブな感情を否定

一方、ちまたには「ポジティブシンキング」「前向きに」ということがあふれているように感じます。

とくに若い世代に顕著のように思うのですが、「悲しい」とか「つらい」とかいう気持ちを持つこと事態が良くないと考える人が増えている気がします。

たとえばクライアントさんから「気分が落ち込むのはうつ病なのではないか?」「明るい気持ちになれないのは自分には問題があるのではないか」というようなことを尋ねられることがあります。

でも、たとえば会社で嫌なことがあったり、失恋したり、何かがうまくいかなかったりしたら気分が落ち込むのは当たり前です。逆に、心が健康だからこそ、落ち込んだり暗い気持ちになるのです。(続く…

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学生さんたちに臨床心理のお話をする機会を持っているのですが、症例を紹介すると「自分も精神疾患なのではないか。治療機関に通うべきか」という相談を持ちかけてくる方が、必ずと言っていいほどいます。

たとえば躁うつ病の症例を見て「自分も気持ちの浮き沈みがあるんです」と言ってこられたり、うつ病の症例では「気持ちが落ち込むことがあるのはうつ病なのでしょうか」とおっしゃられたりするのです。

個別の相談に乗れる状況ではないので細かいことはわかりませんが、聞ける範囲で「なぜそう思うのか?」を尋ねると、躁うつ病の方は「仲間といるときにはハイテンションなのに家にいるとそうではない」という話だったり、うつ病の方は「バイトが忙しくて眠る時間が取れず疲れている」など、気分が落ち込む原因がちゃんとあったりします。

ロールプレイの感想では

カウンセラー役とクライント役にわかれた学生さんたちに、カウンセリングのロールプレイをしてもらったときにも、ネガティブな感情を否定するかのような感想が寄せられました。

たとえば「相手が暗い感じだったので、自分も暗い雰囲気になってしまった」とか「話が盛り上がらなかった」とか、「明るい話題に持っていけなかった」とか・・・。

私がカウンセリングをさせていただいているときにも、明るい話題が登場することはありますし、クライアントさんと一緒に笑うことだってあります。とんでもなく辛い話を笑い飛ばすように話すクライアントさんもいますし、「もうその辛い出来事は過去のことで、あなたには乗り越える力があるし」などとお伝えするため、私のほうが意識的に明るい口調でお話することもあります。

明るく盛り上がらないとダメ?

だけれどたいがいの場合、クライアントさんは、つらい過去や、やりきれない今、長く続く悲しみや怒りなどのネガティブなことを表現されます。
当然、その場が盛り上がる雰囲気にならなかったり、暗い空気に包まれたり、明るく返すことができないときは多々あります。

でも、それは当たり前のこと。そもそも、だれかと話をするときに「明るく盛り上がればならない」という発想が、ちょっと違う気がします。(続く…

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場を盛り上げられない、空気が読めない、みんなと同じように振る舞えない、つまり、他者と望ましいコミュニケーションが取れない・・・そんなことが「あってはいけないこと」であるかのように語られ、こうした人が「発達障害」と呼ばれることが増えたのはいつの頃からでしょう。

大きな流れを作った要因のひとつは2004年に成立した発達障害者支援法のような気がします。
その前年に長崎で起きた男児誘拐殺人事件や同年の佐世保小学生殺傷事件の犯人として捕まった10代前半の子どもたちが「発達障害ではないか」と言われたことも発達障害を印象付け、支援法に則ったやり方が学校現場に広まることに一役買ったことでしょう。

「発達障害は早めに手を打たなければ取り返しの付かない事態を招く」という危機感に、この法律が上乗せされ、発達障害のある子どもを早期発見することが、重要であるかのような印象を学校現場をはじめ、世間に与えたように思えるのです。

発達障害者支援法の対象は

発達障害の医学的・学術的な定義は「発達期のさまざまな中枢神経系(脳)の障害によって、身体的または精神的機能の獲得が障害されること」です。簡単に言えば、先天的な脳の障害で、後天的なものではないということです。

ところが発達障害者支援法が対象としたのは、自閉症、アスペルガー障害(高機能自閉症)、LD(学習障害、後述)、ADHD(注意欠陥・多動性障害)など、自閉症とその近縁の障害。知的障害も含みません。

コミュニケーションが苦手な子は発達障害?

さかのぼってみれば、文部科学省は1994年以来、LDの定義を医学上のLearning Disordersの「読み、書き、計算の障害」に、「聞く、話す、推論することの習得と使用の困難」も加えたLearning Disabilitiesとしていました。

こうした“定義の工夫”。法律の成立。そして「発達障害は放っておくと危険である」という認識が、会話がうまくできなかったり、コミュニケーションが苦手だったり、空気を読んで教師(社会)の要求通りに振る舞うことができなかったりする子を発達障害としてしまう可能性を広げたと考えるのは早計でしょうか。(続く…

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だれとでも楽しくコミュニケーションをと取って、過ぎたことはくよくよせず、問題があっても深くは考えずに、嫌なことがあっても笑って流す・・・。

一見、ポジティブで良さそうに感じますが、それは人として健康なことなのかと首をかしげてしまいます。

だいたいだれとでも楽しくコミュニケーションを取るなんて、できるはずがありません。「十人十色」という言葉があるように、ひとりひとり違った個性を持っています。それならば気が合う人、気が合わない人、なんとなく好感を持てる人、持てない人がいて当たり前です。

「だれとでも気が合う」ということは「どこにも特別な人がいない」ということとイコールです。どれでは人はいつまでたっても淋しさから抜け出せません。これでは依存症が増えるわけです。

身に迫る危険や不利益

過ぎたことをくよくよせず、問題があっても深く考えず、笑って流すというのも考えものです。

くよくよしたり、深く考えたりするから人は成長するのです。だから同じ過ちを犯さないように気をつけるし、自分らしい生き方を手に入れることができます。すべてを笑って流していたら、時代に振り回され、他者のいいように人生を操られてしまうかもしれません。

こうした風潮は、個人の問題だけに止まることではありません。社会全体、いえ世界中が、何も考えずに「前へ、前へ」と推し進められていくことで、さまざまな危険や不利益が私たちの身に迫っています。

世界に目を向ければ

世界に目を向ければ、戦争や暴力があふれています。二度の大戦という大きな犠牲を払った過ちを忘れ、命について深く考えないまま文明の利器を求めてきた私たちは、無人の殺人機が人を殺す事態まで招いてしまいました。

力で相手をねじ伏せる行為はいたちごっこです。最近、「ミサイル防衛費が1.5倍以上になった」という『東京新聞』(2月23日)に驚きましたが、暴力で立ち向かえば、相手はさらなる暴力で立ち向かってきます。

憎しみはどんどん増長し、いわゆるテロ行為を助長させます。(続く…