「同情と善意だけではどうにもならない」

当たり前です。
同情とは、「他者の痛みを『その人のもの』として外側から眺めて感じる辛さや悲しみ」などのこと。 誤解を恐れずに言うなら、「他人事」としてと眺めることです。

「他者の痛みを 『自分のこと』として感じて(もしくは感じようとして) 共にあろうとする」共感とは全く違います。

また、善意は、それを行う側の視点で「良いと思うこと」ですから、同情して(他人事として)いる限り、 相手の望みとズレてしまうことは、往々にして起こります。

「善意の押し付け」が、独りよがりで迷惑なものになりがちだということは、みなさんも経験があるのではないでしょうか。


善意の押し付けの根底にある承認欲求

一般に、善意の押し売りをする人は「だれかの役に立ちたい」という思いがあり、その根底には「認められたい」という承認欲求があります。そして、承認欲求の強さは、「認められなさ」の裏返しです。

これもまた、キツイ表現になってしまいますが、そうした人が満たしたいと思っているのは、困っている相手の欲求ではなく、自分自身の欲求です。

褒められ、承認された子の特徴

褒められ、承認されて育った子は、こうした承認欲求とは真逆のところにいます。「だれも認めてくれなくても、自分がいいと思うことをする」ことができます。

「そのままで認められる」経験は、共感の経験に通じますから、独りよがりにならず、他者の痛みに共感する力も育っています。
自分を犠牲にするのではなく、自分のできる範囲で、自分を大切にしながら、他者に救いの手を差し伸べることができます。

愛され、認められた体験は、IQのように数値で測ることができない非認知能力 (人間力、心の力などと呼ばれるもの)を高めるので、コミュニケーション力や頑張る力も伸びていきます。

2024年も、大きな話から、ごく身近な小事まで「もやっ」とした思いにとらわれることが多い年でした。

大きな話で言えば、進まない能登半島の復興、終わらない戦争、自国の利益だけを声高に叫ぶ指導者の乱立・・・などなど、ため息の出ることばかりでした。

能登半島地震から1年が経つというのに、未だ避難所生活を続けている人は多く、住宅の整備すらままならない状況です。円安による建築資材の高騰や建設業の人手不足が原因、と言われます。

一方で、東京は建設ラッシュです。超高層ビルがバンバン建ち、うちの近所でも新築の戸建てが雨後の筍のごとく次々とつくられています。大阪万博の準備も着々と進んでいます。

ロシアによるウクライナ侵攻は止まることを知らず、ガザ地区では子どもを含む4万人以上がイスラエルの攻撃によって亡くなったと報じられています。さらにイスラエルとレバノンやイランとの戦闘にも発展し、中東全体に戦禍が広がる勢いです。

そんな状況を大国は放置したままです。

定着した格差

円安の追い風に乗って大企業の収益は伸び続け、株価はうなぎ上り。富裕層の金融資産はつり上がる一方なのに、日本の雇用の7割を支える中小企業は円安に苦しんで倒産が続出しています(『東京新聞』24年7月21日)。

大企業の収益増で法人税は激増、国の税収が過去最高の78.4兆円になるのに(『日経新聞』24年12月25日)、NPO法人が12月28日に行った食糧配布には通年で最多の人が並び、「食品がないときは、水道水にしょうゆをたらしておなかを満たしました」(52歳女性)という人も(『東京新聞』24年12月28日)。

過保護? それとも優しさ?

小事で言えば、日常生活のなかで「これは過保護? それとも優しさ?」と、あたまを悩ませる出来事が・・・。

近年気になっているのが、「電車の中で当然のように座る子どもと、譲るおとなの図」です。もちろん、幼児なら気にしません。が、遊び盛りの小学生や元気盛りの中学生が当然の顔をして空いた席に座り、一緒にいるおとなが立っています。立っているおとながランドセルを持ってあげていることもあります。

それが祖父母であったりすると、なおさら「もやっ」と感が募ります。

同じような違和感

同じような違和感は、けっこうな大きさの子どもを自転車の幼児用座席に乗せ、必死で自転車をこぐおとなとすれ違ったときにも感じます。

自転車の幼児用座席に乗せることができる子どもの年齢制限が、46都道府県で「6歳未満」から「小学校入学まで」に緩和されたせいなのか? それにしては妙に大きなサイズの子どもが乗っていたりします。

ときには、祖父母と思わしき初老の人物が、自転車で孫(とおぼしき小中学生)を幼児用座席に座らせ、よたよたしながら運んでいる姿にも出くわします。「無理せず子ども自身に自転車をこいでもらったほうが良いのでは」と心配になることもしばしばです。

来年の抱負

今年はぜんぜんブログを更新できませんでした。来年こそは、こうした「もやっ」とした思いを文章にして、発信していきたいと思っています。

みなさんどうぞ、よいお年をお迎えください。

地下鉄サリン事件から25年3月20日で30年。あちこちで、さまざまな検証報道がなされています。

『東京新聞』(25年3月14日)では、サリン事件の実行犯役のひとりで無期懲役が確定している杉本繁郎受刑者が同紙に寄せたという手記も。こんな紹介でした。

「(杉本受刑者は)事件について『最終解脱者は何をやっても(略)すべて許されるという妄想を本気で信じ込んでいた麻原影晃(本名・松本智津夫元死刑囚、2018年7月死刑執行)の妄想の集大成、それが地下鉄サリン事件だった』と総括。社会へのカルトの浸食があらためて不安視される現在、『生の続く限り、知っていることのすべてを語り続けたい』としている」

あさましい権力者たち

一連の「オウム真理教事件」を検証すること自体は否定しません。しかし、宗教という、多くの日本人がアレルギー反応を感じる“特殊な”ものに矮小化されてしまうのは、ちょっと「もやっ」とします。

「最終解脱者は何をやっても(略)すべて許されるという妄想」の「最終解脱者」の部分を「巨万の富を持つ者」と置き換えたら、アメリカに象徴される、現代社会の権力者となんら変わりありません。

金と権力を背景に「自分は特別」という妄想にとらわれ、平気で他国の領土を侵略し、資源を横取りし、自国(自分)の利益だけを追求する。権力者たちのほうがもっとあさましい気さえもします。

私の人生を変えたオウム真理教事件

そんなことを考えていたら、ふと、私がまだタブロイド紙に勤めていた頃を思い思い出しました。空前の「オウム景気」に沸いていた地下鉄サリン事件直後の時代です。

思えば、今の私があるのは同事件があったからです。

サティアンと呼ばれるオウム真理教の施設(山梨県旧上九一色村)から、必死で抵抗するオウム真理教信者の子どもたちが、機動隊や警察官に力づくで、次々と担ぎ出され、それを「またひとり、子どもが“保護”されました!」と実況中継する報道陣。

その姿に、大きな大きな「もやっ」と感を覚えたことが、子どもの権利条約に惹かれる要因をつくり、マスコミの世界から心理の世界へと転身するきっかけになりました。

そんな私の人生を変えた事件から、はや30年。そして去年は日本が子どもの権利条約を批准して30年でした。

そんな節目に、もう一度、子どもの権利のことを考えて行きたいと改めて思う、今日この頃です。