たとえばご遺族のなかには、この6年の間に「語ることに疲れた」と、すっかり口を閉ざしてしまった方がいます。
語り部などをされ、「大川小で何があったのか」を必死にお伝えされている方々もおられますが、日本という国がかかえる教育の問題点については口が重くなっておられるように感じられました。
もちろん、「裁判の最中だから」と発言を控えておられるということもあるのでしょう。ちょうどこの3月29日に仙台高裁で、犠牲になった子ども23人のご遺族が市と県に約23億円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審(第1回口頭弁論)がありました。
口を紡ぐ原因は
でも、ご遺族が口を開くことに躊躇せざるを得なくなったいちばんの原因は、この6年間の行政の対応、行政に肩入れした第三者委員会のプロセスと結論、「もう一度、教育のあり方を考えよう」というところからほどとおい社会の潮流だったのではないでしょうか。
何よりも大切なはずの命と関係性をないがしろにし、経済的な利益だけを追求してきた日本。利益追求ができる人材を育てることこそを教育目標とし、子どもを守ること、子どもと向き合うことさえ後回しにしてきた日本。
そんな日本の社会こそが、原発の乱立を招き、多くの震災難民とも呼ばれる人々を創り出し、大川小で起きたような悲劇を招いたのです。
ところがその過ちをきちんと検証したり、謝罪したり、償ったりしないまま、「とにかく復興だ」「オリンピックだ」「前を向いて進め!」と、まるで「無かったこと」であるかのような対応をしようとするのですから、ご遺族が疲れ果ててしまうのも当たり前です。
オリンピックに浮かれる前に
人が悲しみや喪失感を乗り越え、新しい人生を手に入れるには辛かった出来事ときちんと向き合い、その過去の出来事を記憶として人生に統合していく必要があります。
そのためには当事者が辛い体験を「辛かった」と安心して語れることが不可欠ですし、多くの場合は、その気持ちを受け入れ、寄り添い、共感して、伴走してくれる他者がいなければなりません。
そうしたプロセスを経なければ、辛い体験はいつまでも生々しい現実のように襲ってきますし(心的外傷)、「自分が生き残ってしまった」という罪悪感(サバイバーズ・ギルト)を抱え込んだままになってしまいます。
「一定の時間が経てば自然と解決する」というものではけっしてありません。
オリンピックに浮かれる前に、「東日本大震災とは何だったのか」をもう一度問い直し、「多くの犠牲が私たちに語ろうとしている言葉」を真摯に受け止めることこそ、急務なのではないでしょうか。(続く…)