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そもそも公判前整理手続では、「なぜ犯行に至ったか」という量刑手続に関する資料は簡略化される傾向にあります。
考えてみれば、当たり前です。「なるべく早く」判決を出そうとすれば、当然、注目されるのは「やったこと」(事実認定手続)ばかり。その理由までは、なかなか目がいかなくなります。

こうした裁判が行われるようになればどうなるか・・・。
事件の背景や全体像がなおざりにされ、犯行に至った被疑者(被告人)の生い立ちや犯行動機なども解明されなくなってしまいます。

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大きくなる社会のリスク

それはとても危険なことです。
私たち人間のすること、なす事。対人関係のパターン。ものごとの考え方や価値観・・・すべては生育歴(法律用語では成育歴)無しには語れないからです。

IFF相談室の斎藤学顧問は、そんな裁判が行われることの危険性を『週刊金曜日』2009年5月15日号25ページで次のように話しています。

「人間の言動にはすべて生育歴が関係している。兄弟でも個性が違うし、そんな子どもを親が平等に愛せるものでもない。
『おとなしい兄はかわいいが、乱暴な弟は疎ましい』などと感じ、対応は異なる。

その時々の家庭の事情も影響する。個々の背景を見ることで、何が犯罪の引き金になったのか、逆に何が抑止力になるのかなどが分かり、社会が保障すべきものも見えてくる。犯罪原因を分析できなくなれば、社会は大きなリスクを抱えることになる」

道連れを得てようやく果たした自殺

そして2001年に大阪教育大学付属池田小学校で起きた小学生連続殺傷事件の宅間守元死刑囚の生い立ちを例に挙げて説明を続けています。

以前、このブログでも紹介したように、宅間元死刑囚の子ども時代はかなり過酷なものでした。
父親からの激しい暴力と血まみれの母親を見る毎日(詳しくは「絶望と自殺(4)」参照)を生き延びることに必死だった彼には、「だれかに大切にされた」と思えるような経験など、まったくなかったことでしょう。

後に「自殺すらできない自分が嫌になった」と語り、逮捕後は「早く死刑にしてくれ」と繰り返した宅間元死刑囚。そんな彼が起こした事件を斎藤顧問は次のようにとらえています。

「あの事件は、一人では死に切れなかった男が『被害者たちという道連れを手入れてようやく果たした自殺』だったように思う。
彼のように無条件に愛され、尊重された経験のない子ども時代を過ごし、今も歯止めになるような他者がいない環境は人を犯罪に向かわせやすい。昨年3月に土浦で起きた8人殺傷事件(注1)や6月の秋葉原事件(注2)などの被疑者・被告人にも共通している」(同誌)(続く…

注1)茨城県土浦市のJR常磐線荒川沖駅前で八人が殺傷された事件
注2)歩行者天国の秋葉原(東京都)にトラックで突っ込み、七人が死亡、十人が重軽傷を負った事件

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こうした裁判員制度によって、少年法も骨抜きになってしまう可能性があります。
少年法は、もともと教育基本法や児童福祉法と同じように、子どもの成長発達のためにつくられた法律です。

だから、いろいろな事情でうまく成長発達することができず、その結果として罪を犯した少年のやり直しを目的としてつくられています。
刑罰を課すことよりも、少年を教育・保護し、行き直すために援助すること・・・つまり、「要保護性」に力点が置かれています。

そのため、成人の場合よりも生育歴や生育環境がていねいに検討されるケースが多くありました。

ところが、今まで述べてきたように、裁判員制度にともなって始まった公判前整理手続では、「何をやったのか」が中心になります。たとえ少年であっても、生い立ちや犯行動機が十分に検討されなくなるのです。

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削られる生育歴の調査

裁判員制度と関係する少年事件は、家庭裁判所(家裁)から検察官に送致され、刑事裁判に付される事案です。こうしたケースを「逆送」と呼びます。
2000年の少年法「改正」で、殺人など重大事件を起こした少年は原則として逆送されることになりました。
現在、およそ年間に30件ほどあります。

こうした逆送される少年事件の事案で、たとえば家裁では「どうせ逆送されるのだから、刑事裁判の方で生い立ち等は調べればよい」と思われ、逆送された後の公判前整理手続では「家裁で調査されているはずなんだから」と、それまでの生活環境などの証拠調べに時間をかけようとしなくなることが起こり得ます。

調査官の存在意義もなくなる

裁判官や検察官、弁護士など、少年事件に携わる法律家の研修を行う最高裁判所所司法研修所でも、裁判員制度導入に向けて「これまで重視されてきた成育歴や素質などの調査記録を証拠とせず、法廷での少年の供述内容で判断した方が望ましい」という研究報告をまとめています(2008年11月)。

また、今まで「要保護性」を守る立場から、犯行に至る経緯や生い立ちなどを社会的・心理学的に調査して社会記録としてまとめてきていた家庭裁判所調査官(調査官)の役割も大きく変わります。

調査官の研修でも、非行につながる環境要因などは簡略化して、社会記録の中の調査票に「刑事処分相当」との意見を「簡潔に」記すようもとめられているというのです。

私の知り合いのある調査官は、その事態をこう危惧しています。

「そんな調査票しか書けなくなれば、要保護性を守るはずの調査官の専門性も、存在意義も失われてしまう。調査官の仕事の基本は、どんな罪に問われた子にも、『いいところ』を見つけて受け入れ、その子の思いに寄り添った調査票を書くこと。子どもは『理解された』という体験があってはじめて、罪を反省し、刑も受け入れることもできる。そこが省略されてしまえば『どうせ俺はワルだ』と開き直り、再び罪を犯す子どもが増えるだけだ」(続く…

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確かに2000年の少年法「改正」以降、「刑罰を課すのではなく、少年を教育・保護し、生き直しを援助する」という少年法の理念はすでに形骸化しつつあります。

しかしそれでも今までは、弁護人が頑張ればどうにかできるという可能性も残されていました。ところが裁判員制度が導入されることで、そうした可能性さえも無くなってしまいます。

私がよく知っている法学者は言います。

「要保護性を守る立場の調査官が『刑事処分相当』と言っているのだから、生育歴が争点になって『少年の生き直しを援助しよう』なんて結果が出ることはあり得ない。逆送された少年が刑事裁判で『保護処分相当』となれば家裁へと差し戻すことを定めた少年法55条も空文化してしまう」

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刑罰のパターン化

百歩譲って、それでも私たちの社会にもたらすメリットの方が大きければいいかもしれません。
こうした裁判員制度の導入によって、裁判に民意が反映され、犯罪が減り、被害者やその遺族にあたる方々が救われるのであれば、多少のことは目をつぶる必要があるかもしれません。

でも、残念ながら、そうはならないでしょう。

たとえば「民意を裁判に反映する」と言われても、法律の専門家ではない私たちには、人を裁く基準など分かりようもありません。意見など述べようもないでしょう。

しかも評決の際には、法律の専門家である裁判官が「過去の似たような事件でどんな判決が下されたか」という量刑相場を示すとも言われています。
つまり専門家が「この程度の犯罪であれば、こうした判決が妥当ですよ」と、提示するわけです。専門家でない私たちが、これに異を唱えたり、疑問を呈したりするには、かなりの知識と勇気が必要でしょう。

しかも、裁判で争われたのは「やったこと」だけ。被疑者が「なぜ犯行に及んだのか」という背景や、被疑者が抱える個別の事情が分からないのですから、疑問を持つ材料すらありません。

たとえ量刑相場が示されなかったとしても、「○人を殺しているから死刑」「致死だったら無期懲役」など、刑罰をパターン化して当てはめる以外ないでしょう。

厳罰化も進む

そして裁判員が下す判決は、量刑相場より重いものになるはずです。

裁判員制度では、「専門家ではない裁判員にもわかりやすい裁判」を合い言葉に、検察側はビデオを使ってことさらに裁判をショーアップしたり、裁判員にも届きやすいプレゼンテーションの手法などを駆使して、「被疑者がいかにひどい人間か」と強調したり、裁判員の情に訴える証拠を出してくることは必至だからです。

今年2月18日に東京地裁で行われた女性のバラバラ殺人事件(注)の公判で、検察側が被害者の肉片の映像まで見せたことを思い出してください。

昨年十二月にスタートした被害者参加制度も、検察側を助けることにつながります。
この制度によって、裁判員は被害者やその家族が語る辛さや苦しさみを直接、聞かされることになります。被告人の生い立ちが見えなくなるのとは逆に、大切に育てた我が子の半生を涙ながらに語る遺族の姿などをリアルに見せられることになるのです。

裁判員の心に、被疑者を「許せない」と思う気持ちがわき、「厳罰に処すべきだ」という思いが喚起されても、なんら不思議はありません。

こうした中で裁判員が下す判決を、はたして「民意を反映した国民の常識」と呼んでいいのでしょうか?(続く…

注)昨年4月に起きた東京都江東区のマンション自室で同じマンションの住人である女性を殺害し、遺体を切断して捨てたとされる事件

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裁判員制度は、被害者の方々も救いません。

ある調査官は、大勢の被害者やその家族と接してきた経験から、その理由をこんなふうに話してくれました。

「被害者やその遺族が知りたいのは、『自分の大切な人が、なぜそんな目に遭わなければいけなかったのか』ということ。その疑問に応えるためには、被告人がどんなふうに育ったどんな人間なのか、なぜ犯行に及んだのか、などが明らかにされる必要があります」

ところが、裁判員制度にともなう公判前整理手続では、まさにそこの部分が削られることになるのです。

「そんなことになれば、被害者側の傷はもっと深くなってしまう」と、この調査官は心配します。

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被害者参加制度も役に立たない

被害者参加制度などあっても何の役にも立ちません。

裁判員制度導入に先立ち、被害者参加制度を検証した新聞記事(『朝日新聞』3月3日)「何のための制度なのか」などという、被害者側の憤りが綴られていました。また、被害者側の精神的負担が大きすぎるという意見も述べられていました。

こうした疑問の声が上がるのも当然のことです。そもそも被害者参加制度に基づき、被害者が公判で述べる意見は「聞き置かれる」だけ。証拠として採用されるわけでもありません。

それにもかかわらず、なぜ被害者参加制度が必要なのでしょう。
知人の法学者は、こう分析します。

「今まで放置されてきた被害者の恨みを被疑者にぶつけるかたちでガス抜きさせ、それに共鳴する裁判員という装置を用意しただけ。被害者感情さえ厳罰化に利用されている」

被害者参加制度は「ガス抜き」

言葉は良くないかもしれませんが、「ガス抜き」という表現はまさにぴったりだと思います。

国民の社会の不満や不安が高まったときに、国の外に敵をつくったり、国内に異端者としてのスケープゴートを用意するのと同じことです。
人々の鬱積した感情は、スケープゴートにぶつけることで緩和されます。本当の意味での解決にはつながらななくても、いっとき「救われた気持ち」にはなるのです。

おかげで「社会をつくっている側」(権力を持っている側)は、本来の問題に手をつけなくてすみます。

不満や不安の原因は、たとえば社会保障が減らされることであったり、仕事が無くなることであったり、経済格差が開いていることであったりするはずなのに、その原因に触れることなく、自分たちにとっては都合のいい今の社会を温存していくことができます。

これを裁判に置き換えれば、被害者参加制度の役割が見えてきます。
「ガス抜き」が出来れば、本当に被害者側が救われるために必要な社会整備はしなくてすみます。

「なぜ犯罪者が生まれるのか」という部分にも目隠しです。
そうして犯罪者が生まれないようにするための社会保障もしないまま、「こうやって権力は悪い奴をちゃんと厳罰に処していますよ。市民を守っていますよ」という“ふり”ができます。(続く…

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しかも裁判員制度の導入によって犯罪が減ることはけしてないのです。
前々回に書いた調査官の方の言葉をもう一度紹介したいと思います。

「子どもは『理解された』という体験があってはじめて、罪を反省し、刑も受け入れることもできる。そこが省略されてしまえば『どうせ俺はワルだ』と開き直り、再び罪を犯す子どもが増えるだけだ」

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“問題児”と重なる姿

この調査官の言葉は、私が出会ってきたいわゆる“問題児”と言われる子どもの姿とも重なります。

バイクの無免許運転などで何度も補導されていたある少女。街行く人がみんな振り返るほどに派手な化粧や服装で夜の街を徘徊していた少女。万引きが止められず、教護院(現在の児童自立支援施設)に入った少年・・・。

求め、信じたあげくに裏切られるかもしれないという恐怖。たとえ“まっとうな”人間になっても自分を認めてくれる人と出会えないかもしれないという絶望観。
「もしかしたらどこかに、そんな自分を理解し、手を差し伸べてくれる人がいるかもしれない」
という、淡い期待を断ち切ろうと、どんどん自分を周縁へと追い込んで行きます。

無意識のうちに

それはたとえば、子ども時代に性的虐待を受けた人が、わざと危険な場所に身を置いて再び性被害に遭ったり、水商売の世界に飛び込んだりするのと似ています。

救いを求めながらも、「自分には救われる資格などない」と思い知らせるため、そして「それは自分のせいなんだ」と納得させるため、わざと奔放な行動に出ては危ない目に遭い、傷の上塗りをしていきます。

いくら本人が「止めよう」「どうしてこんなことになってしまうんだ」と思っても、自分に寄り添ってくれる人を得て、その問題と向き合うようにならない限り、行動をコントロールすることはできません。

知らず知らずのうちに、手を差し伸べようとした相手があきれ果て、見捨てるように仕向けてしまいます。相手の期待を裏切っては疲れさせ、差し伸べられた手を振り払って相手が去って行くように振る舞ってしまうのです。(続く…

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孤独と絶望から犯罪者予備軍に

それによってようやく、「信じたあげくに捨てられるかもしれない」という恐怖から抜け出せます。しかし一方で、より孤独にさせ、絶望の淵へと追い込みます。

そして、恨みやねたみを増大させ、「自分などどうなってもいいんだ」と思い、新たな犯罪に手を染めていきます。

今回の裁判員制度は、本当であれば生き直すことができたかもしれない子どもたちから、その機会を奪い、孤独と絶望、そして恨みの中へと定着させ、犯罪者予備軍とも呼べる人間をつくってしまいます。


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裁判員制度を即刻、見直すべき

本当に被害者を救い、新たな加害者を無くし、国民のものとなるよう刑事裁判を改革するというなら、まず警察による長期間の取り調べを無くすべきです。

その上で裁判官や弁護士を増やし、警察・検察側だけが有利になることがないような新たな仕組みをつくり、被害者の悲しみを共有できる人間を用意して事件の全体が明らかになるような裁判を行うべきです。

しかし、つい最近、「被告人は栃木県で女児を殺害した犯人ではなかった」とされた足利事件においても、当時の捜査や裁判の問題点を検証することはありませんでした。ただ再審が決定されただけです(参考サイト)。

こんな不誠実な司法がまかりとおる社会で始まっただれも救わない裁判員制度。それどころか、私たち国民に、その責任を押しつける裁判員制度。こんな制度は、即刻、見直すべきです。

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想像してみてください。

たとえば、幼い自分を置いて家を出て行き、その後、一度も会ったことのなかった母親を、ある日突然「扶養義務があるから引き取りなさい」と言われたら、あなたはできるでしょうか。

虐待され、逃げるように父親から逃れたあなたが「父親の面倒をみろ」と言われたら、すんなりと納得できるでしょうか。

その逆もあります。
離婚した配偶者と共に家を出て、長年音信不通だった我が子が「生活に困っているから」と連絡して来たら、あなたはいくつもの思い出を分かち合って来た子どもと同じように深い愛情を持って受け入れることができるでしょうか。

関係性の無かった人は「存在しない人」

人には、その人が長い間紡いで来た人生の結晶である「今の生活」があり、その人をかたちづくっている「人間関係」があります。

そうした生活やその関係性の中に、まったく存在しなかった人間をただ「血が繋がっているから」と受け入れることは多くの場合、かなり難しいと思います。
そうすることによって、今の生活や大切にしてきた人との関係が壊れてしまうことだってありえます。

もちろん、受け入れられる人もいることでしょう。人並み外れた人間性や能力、経済力などがあれば可能かもしれません。

でも、少なくとも私のような凡人にはとうていムリです。長い間、関係性が無かった人とは「存在しない人」と同じことなのですから。

新たな悲劇を生む前に

「血が繋がっているから」と、ずっと関わりのなかった親族までを扶養するようになれば、新たな虐待や家族崩壊を招くことは火を見るよりも明らかです。

そんな新たな悲劇を生む前に、生活保護が増え続ける原因の方を取り除くべきだと思います。
今、必要なのは「生活に困窮した人」から生活保護を取り上げることではありません。
「巨額の富を手にする一部の人」だけに、利益が分配されている社会構造をつくりかえることです。(続く…

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藤原さんが校長を辞した後も、やはりリクルート出身で、当時トップアスリート社代表取締役だった代田昭久氏が就任しました。

その後は民間人校長の採用は行われていないようですが、今も学習塾の講師を招いての有料の補習授業は続いているようです。


子どもを見捨てた?

縷々書いてまいりましたが、話をうんと元に戻しましょう。
四角いスイカ(2)で気になるコメントをされていると書いた長谷川さんは、そんな市場価値を学校内に取り入れた和田中のある杉並区で適応指導教室に勤めていた方です。

その方が、次のようなコメントしていたのです。

「和田中から不登校や知的な障害がある子らが、適応指導教室に送り込まれた。他の中学より多い印象だった。学校の価値を高めないとみなされた子を見捨てたのか」(『東京新聞』 2015年2月28日付)

枠にはまらないものははじかれる

まさに「四角いスイカ」の話とそっくりではないでしょうか。

窮屈な枠をつくればつくるほど、その枠にうまくはまれないものも増えます。エネルギーがあったり、自分らしさを色濃くもったものほど、はめられた枠を壊そうとして、うとましがられます。

枠に適応できないものは「不適応」の烙印を押され、市場では価値のないものとしてはじかれていきます。

“発達障害ブーム”も一役買っている

たとえ適応させようとする枠のほうに問題があっても、そのことが顧みられることはありません。どんなにへんてこな枠であっても、それに適応できないものは「不良品」とされてしまいます。

そんな仕組みが今の日本ではあちこちに見られます。そうしてはじき出された「不良品」を、「どうにか加工してして格好をつけ、枠に当てはめてあげることが正義」だと本気で信じている方々も多くいます。

昨今の“発達障害ブーム”も、こんな社会の風潮に一役買っていることでしょう。(続く…

2015年2月、神奈川県川崎市の多摩川河川敷で中学1年の男子生徒が殺害され、遺棄されるという痛ましい事件がありました。

その1週間後に加害者とされる18~17歳の少年3名が殺人容疑で逮捕されると、成立が目前だった18歳選挙権と呼応して「成人年齢を下げるのなら、少年法の対象年齢も下げるべき」と少年法の厳罰化議論が再燃しました。

それについては、以前、このブログ(「機能不全社会(6)」)で書いたので、そちらをご覧ください。

元少年Aの有料ブログが凍結

このようなことがあるたびに「少年法の精神はどこにいってしまったのだろう」と暗澹たる気持ちになるのですが、つい先日もそのことを強く感じることがありました。

きっかけは、「元少年Aとされる人物が始めたインターネットでの有料配信サービスがブログ運営もとに凍結され、閲覧できなくなった」というネット上のニュースをたまたま見たことです(「元少年A」の有料ブロマガが凍結 アクセス不能に)。

元少年Aとは、言わずと知れた酒鬼薔薇(聖斗)事件の加害者男性のことです。当時14歳だった加害者男性は報道上、「少年A」の名で呼ばれました。

酒鬼薔薇(聖斗)事件とは

では、その酒鬼薔薇(聖斗)事件とはどんな事件だったのか。ざっとおさらいしておくと1997年に兵庫県神戸市で小学生を襲い、2名を死亡させ、3名に重軽傷を負わせた事件です。

正式には神戸連続児童殺傷事件と言いますが、当時、14歳だった加害者男性が「酒鬼薔薇聖斗」の名で犯行声明文を書いたことから、酒鬼薔薇(聖斗)事件と呼ばれてきました。

今年8月にはその加害者男性(以下、男性)が8月には公式ホームページを立ち上げ、そのことを女性週刊誌に知らせたことが話題になっていました。(続く…

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こうした騒ぎの発端は、男性が今年6月に手記『絶歌』(太田出版)を発表したことです。
同書は、初版10万部を売り切って増刷となりましたが、被害者遺族は出版の中止・回収を求め、独自の判断で取り扱わないとする書店や図書館も相次ぎました。

識者らは「表現の自由」や「知る権利」などを理由に「出版はやむを得ない」とする立場と「被害者感情」を理由に「出版すべきでない」との意見を戦わせました。しかし、出版社側は「少年犯罪の理解に役立つ」と出版を継続し、バッシングの嵐が起きました

バッシングのきっかけとなったことのひとつが、世間はかつて未成年で殺人事件を起こした永山則夫死刑囚などが実名で執筆活動を行ったのに対し、男性が「元少年A」との匿名で執筆したことでした。

サムの息子法の必要性も

「人を殺しながら少年法に守られて罰を受けず、名前も明かさないまま出版によって大金を手にするのは許せない」ということなのでしょう。

犯罪者が手記を書いたり、映画化の権利を売ったりしてその犯罪行為をもとに収入を得た場合、「遺族など被害者側の申し立てにより、その収益を犯罪者から取り上げることができる」とするアメリカ・ニューヨーク州の法律である「サムの息子法」などの必要性も論じられました。

社会のバッシングはいかがなものか

もちろん、こうしたことを言いたくなる気持ちは分かります。「被害者の立場に立ったとき、こうした本を出版するのはどうなのか?」との疑問も沸きます。
手記の中身はともかく、その後、立ち上げた公式ホームページなどを見ると、まるで男性は自分の思考や特異な人生に酔っているかのような印象も受けます。

なぜ彼が、こうしたホームページを立ち上げたり、独特の表現をし続けようとするのか。それも本当はもっと知りたいところですがここではあえて取り上げず、話を少年法に戻したいと思います。

私たちの国は、未成年者に対して刑罰とは違う少年法というものを用意している国です。
被害者側のご遺族らが、出版に否定的な反応をするのは仕方がないとして、社会がこぞってバッシングするのはいかがなものなのでしょうか。(続く…