怒り  たとえば、移民や特定の外国人へのヘイトクライムの影に、自分たちの仕事が奪われる(た)ことへの不満や、優遇政策へのねたみなどが隠れていることはよくあります。

 どんなに頑張っても暮らし向きが良くならず、働いても働いても先の見通しが立たない状況にある労働者が、「外からやってきたあいつらの方がいい思いをするのはおかしい」とねたむ気持ちはよく分かります。
 
「外国人は出て行け!」と言いたくなったりもするでしょう。

 しかし、本質的な問題は「外国人がいること」なのでしょうか。外国人への優遇政策さえ無くなれば、ひとりひとりの生活は上向き、不安の無い将来が訪れるのでしょうか。

いじめや腐敗は伝搬する

  弱い者いじめや権力の腐敗は伝搬します。虐げられたり、権力者に踏みにじられた人間は自分よりさらに弱い者を見つけ、うっぷんをはらそうとします。

 南スーダンでの平和維持活動の日報隠蔽問題や陸上自衛隊のイラク派遣の際の活動報告書隠蔽問題、森友学園に関する文書を財務省が改ざんしていた問題や、重要文書を隠していた加計学園問題・・・。
 
 長期化する安倍政権のなかで、こうした信じられない問題が次々と明らかになっています。

 また、つい最近は文部科学省局長が、子どもの大学合格を見返りとして東京医科大を文部科学省の私立大学支援事業の対象とするよう便宜を図ったとして、受託収賄容疑で逮捕されました。

 さらにスポーツの世界では横綱による暴力事件が起きた相撲界、指導者によるパワハラ行為が明るみに出たレスリング界、悪質なタックルに端を発して大騒動となったアメリカンフットボール界・・・。

国民を馬鹿にしている

 力のある者がその特権を利用して好き勝手に振る舞う。力のない無い者は指をくわえて見ているか、力ある者の恩恵にあずかって生きるしかない。・・・そんなことがまかり通ってしまっているのが今の日本社会ではないでしょうか。

 何しろ腐敗の事実が明るみになっても、力のある者たちはまったくへっちゃらです。のらりくらりと追求の手をかわし、要領を得ない答弁を繰り返したあげくに、「記憶を無くした」と言って逃げ切ろうとします。

 そうして、その地位に居座り続け、上の者にこびへつらって首をつなぐことに終始しています。

「こうして時間を稼いでおけば、みんなそのうち忘れるさ」とでも言いたげに。本当に国民を馬鹿にしているとしか思えません!

赤ちゃん なぜ、ヘイトクライムが日常化しているのか、どうしてたくさんの法律をつくっても障害者差別が無くならないのか。
 置き去りにされた本質的な問題は、どこにあるのでしょうか。

 前々回のブログで紹介した、クローズアップ現代を見ていて胸に刺さった言葉があります。事件が起きた施設に重い知的障害がある息子さんを通わせていた垂水京子さんという方が、ご自身の息子さんについて語った、言葉です。

「心の底から、かわいいなと。何もできないけれども、笑っている顔、どこのイケメンや俳優よりも、私はかわいい。役に立たなくてもいいし、ちゃんと存在しているだけで幸せだと思う。役に立たなくて悪い?」

「役に立たないものは価値がない」という現実

 その言葉は、障害を持った子どもの親として、きれい事だけでは住まない毎日を生き、迷ったり、悩んだりしながらも、息子さんを愛してきたからこその一言だったと思います。
 そして、相模原障害者施設殺傷事件のなかで置き去りにされた本質的な問題を示唆しているように聞こえました。

 命の差別は、もちろん絶対にあってはならないことです。しかし現実には、「優秀なものと劣ったもの」を区別し、「役に立たないものは価値がない」という考え方は、日本社会に蔓延しています。

 空前の内部留保を持つ大企業は、非正規社員を捨て駒のように扱い、国は福祉を削り続け、大企業優先の施策を続けています。

「平成28年国民生活基礎調査」によると、会社・団体等の職員の平均年収は437.2万円、正規雇用の職員・従業員の平均年収が302.5万円、非正規の職員・従業員の平均年収が125.8万円、パート・アルバイトの平均年収が125万円だそうです。

胎児にまで至る命の差別

「貧困に陥るのも、競争に勝てないのも、成果を上げられないのも自己責任」として甘受を強いられているのが、今の日本社会です。

 そんな社会の価値に合わせて、子どもたちも幼少期から、勉強や習い事に振り回され、ことあるごとにだれかと比べられ、序列化され、社会の物差しで自分を計ることを余儀なくされています。

「何もできないありのままの自分」を受け入れてもらうことなど想像もできない毎日のなかで、常に「優秀であろう」とし、自分らしさを否定し、自己評価を下げ続けていきます。

 そんな命の差別が胎児にまでおよぶようになりました。合法化された新出生前診断によって、受診した妊婦の9割が中絶を選んでいます(『毎日新聞』2016年9月14日)。

 とくに経済的に困窮する人が増え、それが「自己責任」として個人に押しつけられることが当たり前になってしまった昨今、「経済的に役に立たないもの」「自分の足で立つことができない者」への差別や悪意をむき出しにする人が増えているように思えます。

生活保護受給者への悪意?

生活保護 たとえば吉村洋文大阪市長です。

 吉村市長は「生活保護費は市財政の15%を占める」「保護費を目当てに大阪に来る人がいる」と、生活保護制度を問題視する発言を続けています(『東京新聞』2018年7月17日)。

『東京新聞』の取材によると、実際に市が負担している保護費と市長が言う金額にはだいぶ開きがあります。

 確かに、当初の市の一般会計の総額(1兆7千770億円)に対する生活保護費は一般会計の15.9%(2千823億円)にあたります。しかし、生活保護費はいったん自治体が全額を出すものの、その後、国が国の負担分(四分の三)を自治体に払います。そのため、市が実際に負担する額はかなり低くなります。

 同記事に載っている市福祉局総務課の回答では、現実に市が負担しているのは年50億~70億円で4%程度です。

推論から断定

「生活保護目的での転居が多い」との発言についてはどうでしょうか。この元になったのは市と大阪市立大学が行った受給者についての調査。それによると住民登録から1月未満で生活保護を受ける人が突出しているという結果が出ていたそうです。

 でも、調査では転居の理由は尋ねていないため、保護費目的だったかどうかはわからず、あくまでの市長の推論になります。

 また、同記事に登場する元ケースワーカーは「仕事を求めて来た人が、住民票を移す余裕もないまま職を探す。仕事が見つからず保護を受けるしかなくなり、受給の準備で住民登録をする。登録日の直後に保護を受けるのは何ら不自然ではない」とも話しています。

市長発言は印象操作

 こうした状況には触れず、印象操作とも言える発言を重ねる市長。その理由を尋ねたところ「(分析結果は)一ヶ月未満の受給者数が突出しており、市民目線からは疑義があるため、きちっと調査した方がいいと考えた」と回答し、断じた根拠には触れなかったそうです(同紙)。

 吉村市長は元衆議院議員で弁護士資格を持つ43歳。競争主義や自己責任を強調する政策を次々と持ち込み、生活保護の「適正化」として独自の政策を打ち出した橋下徹前市長の支援を受けて市長選に臨み、橋下全市長の路線を受け継ぐと表明している人物です。

 推論でことを断じて生活保護受給者の差別を助長するような発言を繰り返すーー。これこそまさにヘイトクライムであり、相模原障害者施設殺傷事件で被告となった元職員が持っていたとされる「価値ある命」と「不要な命」を区別する優勢思想の現れと言ってもいいのではないでしょうか。

それを首長たる人物が堂々と行うのですから、こんな恐ろしいことはありません。

命を差別する首相

苦学生 しかし残念なことに、このような命を差別したり、役に立つものと立たないものを区別しようとするのは、吉村洋文大阪市長だけではないように思えます。
 
 何より、安倍晋三首相自身がその筆頭に立っています。前々回のブログでも書いた通り、安倍一強の長期政権のもと、大企業に優しく、労働者に厳しい格差社会が進みました。
 経済的に困窮する家庭が増えることは必至ですが、政府は2018年10月より生活保護費を削減する方針を固めています(生活保護費の削減)。

 今や進学費用や家計のため、アルバイトをせざるを得ない高校生ワーキングプアも増えていて、経済的に苦しい家庭の子どもを支援する公益財団法人「あすのば」の新生活応援給付金(16年度)を受けた2200人のうち、子どもと保護者約1500人から得た調査結果では、高校生の3割強が週平均3日、一日平均4.6時間アルバイトをして、スマートフォン代のほか、学校の費用や家庭の生活費などに充てているそうです。

かさむ家庭の教育負担

 収入の厳しい家庭が増加する中でも、「どうにかして“人並み”の学歴を付けさせたい」と願う親は多く、「学習費総額」は小中学校ともに増加傾向です(文部科学省 平成26年度『子どもの学習費調査』)。
 学習塾・予備校市場は少子化のなか拡大し、2015年度は前年比2.0%増の9570億円。早期英語教育需要の高まりを背景に英会話・語学学校市場は前年比1.0%増の3100億円になっています(『教育産業白書 16年版』矢野経済研究所)。

 奨学金利用者は増え、返還できず自己破産するケースが本人、連帯保証人、保証人へと広がって、延べ1万5000人にものぼっています(『朝日新聞』18年2月12日)。

 何しろOECDの統計によると、日本はまれに見る「教育費の公的支出度合いが低く、家計への依存度が高い」国。家庭が子どもにかかる教育費を負担する割合が3割を超え、データがある30カ国のなかで3番目に高いのです。

ランドセル 国は、「子どもの相対的貧困率が12年ぶりに改善した」と胸を張りますが、沖縄県では5歳児のいる世帯の約2割が困窮のため「ランドセルが買えない」そうです(『東京新聞』18年7月13日)。

 また、17年11月、子どもの権利条約に基づく日本政府報告審査へのカウンターレポートを国連「子どもの権利委員会」に提出した『CRC日本報告書』では、「困窮が目立つひとり親世帯の総体的貧困率はバブル絶頂期の1991年から15年までほぼ同水準」と指摘しています。

 つまり、この国は、景気が良くても悪くても、子どもの貧困対策に本腰を入れたことなど一度も無い、弱者の痛みに無頓着な国だということです。

夏休み前後に命を絶つ子ども

 そんな格差社会、自己責任社会の価値に合わせ、子どもたちは幼少期から、勉強や習い事に振り回されます。ことあるごとにだれかと比べられ、序列化され、社会の物差しで自分を計ることを余儀なくされても、「役立たず」として切り捨てられないよう、歯を食いしばって頑張ります。

 頑張りきれず、夏休み終了前後に命を絶つ子どももいます。
 2015年の『自殺対策白書』によると、長期夏季休暇が終わって新学期が始まる9月1日が131人と突出しています。さらに9月2日は94人、8月31日は92人です。

 自殺者数が3万人を切っても、19歳以下だけは減らず500~600人が続いていることも、子ども時代の絶望感の表れと言ってもいいのではないでしょうか(『朝日新聞』18年)。

被告のものと大差ない優勢思想

 こうやって子どもを追い込む、安倍首相が率先してつくってきた「生まれてきてほしい命と、そうでないものとを区別する社会」、その社会を支える思想は、“異常”とされた相模原障害者施設殺傷事件の被告の思想とどれほどの差があるというのでしょうか。

 私には大差なく思えます。おそらく、被告もそう感じていたのでしょう。だから事件を起こす前、衆議院議長への手紙に「愛する日本国の為にお力添えいただきたい」と、「手紙の内容を首相に伝えて欲しい」と、以下のような内容を記したのではないでしょうか。

「保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為(ため)と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。
 理由は世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐことができるかもしれないと考えたからです」(【相模原殺傷】「障害者470名を抹殺できます」植松聖容疑者、衆院議長に手紙(全文)

 安倍首相の目指す日本社会の実現を手助けすることこそ正義だと考えたからこそ、5億円の援助等を要求したのではないでしょうか。

ヒトラー この悲劇的な事件を「容疑者の異常性の所産」に帰すことはたやすでしょう。事件後、逮捕された被告が「ヒトラーの思想が降りてきた」と話したなどの報道もありました。

 しかし、あの“異常”な、大量虐殺を平気でやってのけるヒトラーという人物をつくったのは、彼の過酷な幼少期でした。

 2012年に「生い立ちと人格」で詳述したように、幼い頃のヒトラーは、毎日のように父親にむち打たれ、名前も呼んでもらえず、犬のように指笛で呼びつけられていました。

 子どもの頃のヒトラーは、「何の権利も認められぬ名無しの存在」(『魂の殺人 親は子どもに何をしたか』(アリス・ミラー著/新曜社210ページ)で、それはヒトラー台頭時のユダヤ人の身分とそっくりでした。

 虐待を受けた者が、ストレスフルな環境に置かれると虐待者になってしまう「虐待の連鎖」については、よく知られていますが、ヒトラーはまさにその好例だったと言っていいのではないでしょうか。

人間が狂気へと向かうとき

 相模原障害者施設殺傷事件の被告もまた、過酷な子ども時代を過ごした人物だったのか・・・今はまだよく分かりません。
 しかしひとつだけ言えることがあります。それは、「彼がどんなどんな環境で生きてきたのかを明らかにしなければ何もわからない」ということです。

 人間が狂気へと向かう根底には、必ず不安と恐怖、そして孤独があります。居場所があり、愛し・愛される者がいて、存在価値を感じている者は、けっして破壊的な選択を行いません。

悲劇を止めるために

 この夏、同事件に関してのさまざまな報道がありました。「二度と悲劇を繰り返さないために」という言葉も何度も聞きました。

 もし、本気でそう望むのであれば、この事件の原因を被告個人の異常性など矮小化することなく、「役に立たない者には価値がない」という日本社会を支配している価値観とそれに基づく構造そのものに対峙することではないでしょうか。

 経済的合理性や自己責任を追求するのではなく、障害者も社会のなかでひとりの人間として尊重され、だれもが幼少期から「どんな命にも価値があり、人はみな尊厳を持った存在である」ことを日常的に実感できる社会へと転換しない限り、こうした悲劇が止むことはけっしてないでしょう。