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なぜならそもそも少年法は、生育環境などの問題でうまく成長・発達することができなかったため、反社会的な行為をしてしまった未成年者が生き直せるよう、健全育成と環境調整を行うための法律です。
だから、少年法では教育・保護し更正することに力点が置かれています。

男性は、こうした少年法に基づいて医療少年院で約7年の治療を受け、社会へと復帰しました。

被害者や被害者遺族を誹謗中傷するような、もしくは犯した罪を肯定したりするような本なら批判されてもしかるべきでしょう。しかし、ただ「自分の気持ちを語りたい」と手記を著すことがなぜいけないのでしょうか。

少年法の考えに則れば、匿名での執筆も当たり前の話です。死刑が確定していた永山死刑囚とは違い、男性はこれからもこの社会の中で生きていかなければならないのです。本を出版しただけで、これだけの騒ぎが起きる日本社会ですから、顔と名前が周知されればどんなことになってしまうか・・・。火を見るよりも明らかです。

日本は閉塞的で不自由な社会

平気で男性をバッシングし、書店や図書館が「本を扱わない」という自主規制に走る日本社会は、少年法の精神をまったく理解していないだけでなく「罪を犯した者は一生口をつぐみ、『ごめんなさい』と小さくなって生きるべきだ」という閉塞的で自由がない社会でもあります。

こうした社会では、人々は逸脱行為をした者に「自分とは違う理解不能のモンスター」という烙印を押し、切り捨て、つぶしていきます。

それによって被害者らが何よりも知りたい「なぜ、自分の大切な人がこんな理不尽な被害に遭わなければならなかったのか」という問いの答えは永遠に闇に葬られます。だって犯行に至る経緯や生い立ちも見えなくなってしまうのですから。

真に安全な社会を築くには

犯罪に至る原因やきっかけが分析できなければ、何が犯罪の引き金になるのかも、逆に何が抑止力になるのかもわかりません。結果として社会は大きなリスクを負い、「犯罪の凶悪化」という負のスパイラルに陥っていきます。

だれもが安心して暮らせる安全な社会を築く最も確かな方法は犯罪者を厳罰に処することではありません。

犯罪者の人生を紐解き、何が犯罪に向かわせたのかを明らかにし、社会の中から同様の犯罪要因を取り除き、環境に恵まれなかった子どもをなるべく早い時期から支援していくことです。

法律 労働者の祭典であるメーデー(5月1日)や憲法記念日(5月3日)などがあったつい先日のゴールデンウィーク期間、個人的な都合で奇しくもさまざまな法律を学び直す機会がありました。

 すっかり記憶の彼方に飛んでいた労働三法をはじめ、うろおぼえだった精神保健福祉法や最近とんと目にしなくなっていた少年法や2006年に「改正」された教育基本法などなどを改めて学び、いろいろと考えさせられることがありました。

 子どもをめぐる取材を主な仕事にしていた頃は、少年法や教育基本法はとてもなじみの法律でした。取材の現場で目にすることと法律の関係を常に考えざるを得ない状況にいたのですが、最近はそんな機会も無縁でした。
 
 お恥ずかしい話ですが、日頃、臨床の場でお目にかかるクライアントさんたちの置かれた状況が法律とどんな関係にあるのか、法律が変わったり運用が変わったことでどんな影響を受けているのかなどと考えることも、とんと無くなっていました。

憲法改正は是か非か

 話は少し飛びますが、憲法記念日と前後してメディアでは「憲法改正は是か非か」という討論などが盛んでした。

 NHKの調査「日本人と憲法2017」によると、「改正する必要がある」と答えた人は、1974年、1992年、2002年の調査では増加を続け、アメリカの同時多発テロ事件の翌年の前回2002年は58%に上りましたが、今回は43%に止まっています。

 同調査によると「改正が必要」な理由の筆頭に挙げられているのは、「日本を取り巻く安全環境の変化に対応するため」(54%)で、次いで「プライバシー権や環境権など新しい権利を盛り込むべき」(16%)、「国の自衛権や自衛隊を明確にすべき」(15%)「アメリカに押しつけられた憲法だから」(12%)と続きます。

 一方「改正反対」の理由としては予想通り「9条を守りたい」(51%)が最多で、「すでに国民の中に定着しているから」(23%)、「基本的人権が守られているから」(21%)でした。

自衛隊は合憲

「9条を守りたい」人が多くて、「改正が必要」との意見は減っているのに、「自衛隊は認められる」と答えた人は62%で過去の調査よりも増えています。

 その理由に挙げられていたのは「テロ防止、対策」(63%)「他国からの侵略や攻撃への防衛」(62%)、そして何より「人命救助や災害復旧」(90%)がダントツでした。

 東日本大震災をはじめ、近年、相次いでいる地震や台風、火山の噴火に土砂災害などなどが影響しているのでしょう。

「憲法9条は守りたいけど人命救助や災害復旧のためには自衛隊が必要」という「憲法と自衛隊」をめぐる調査を目にするたびに、いつも思うのです。

「どうして人命救助や災害復旧をするために自衛隊が必要なのか?」と。

人命救助のための部隊は必要だけど

自衛隊 確かに10年くらい前から日本はとても多くの自然災害に見舞われています。以前なら「震度4」と聞けば「かなり強い地震」という印象を持ちましたが、最近では「震度5」のニュースを聞いても驚かなくなってしまいました。

 あちこちで火山が噴火し、地震の規模は大きくなり、津波や原発への不安も続いています。
 ゲリラ豪雨という言葉が普通になり、長雨や集中豪雨による土砂災害や川の急な増水などでもたくさんの人が犠牲になっています。

 そんな災害が起こるたびに自衛隊が駆けつけ、多くの命を救ってきたことをもちろん私も知っています。人々を救う姿を見ては「こういうプロフェッショナルはやっぱり必要だな」と、いつも強く実感します。

なぜ「災害救助隊」ではいけないのか?

 でも、それがなぜ「軍隊」でなければいけないのでしょうか? 災害現場に駆けつけて人命救助をするのなら「災害救助隊」があれば十分です。

「憲法9条は守りたいが人命救助や災害復旧のための特別部隊が必要」だというのなら、それに特化した訓練部隊をつくり、そのための法律をつくればいいのではないでしょうか。
 災害における人命救助を目的にするのであれば、戦車や戦闘機など必要ありませんし、憲法9条ともケンカしません。

 なのにどうして「人命救助や災害復旧のために自衛隊が必要」という話になるのか。本当に不思議です。

最高法規をコロコロ変えていい?

「日本を取り巻く安全環境の変化に対応するため」(54%)とか「プライバシー権や環境権など新しい権利を盛り込むべき」(16%)だから憲法改正が必要という話も、わかったようでよく分かりません。

 憲法はその国の根幹を成す最高法規です。取り巻く環境が変化したから、新しい問題が生じたからと、その根本をコロコロと変えていいものなのでしょうか。
 そうではなく、憲法に照らして環境を整えたり、周囲の国との関係を構築したり、憲法を使って新しい問題をどう解決すべきか考えていくことこそ、筋なのではないでしょうか。

 国の根幹であり、「どんな国をつくっていくべきか」という理想と覚悟を示した憲法を「現実に合わせて変えていこう」という考え同様、私が不思議に感じているのは「市民感覚を司法に持ち込む」という考え方です。
 
 その考えを知ったのは、一般市民も裁判員として刑事裁判に参加し、被告が有罪かどうか、有罪だとしたらどのような刑に値するのかどうかを裁判官と一緒に決める裁判員制度が始まるときでした(2009年)。

裁判員制度のメリットと落とし穴

裁判 同制度を使うメリットとしては、「集中審理が行われるので審理期間が短縮される」「裁判が身近で分かりやすいものになる」「司法への信頼の向上につながる」などが喧伝されました。

「日本の裁判は時間がかかりすぎる」ということは、よく耳にしていたので「集中審理が短くなるならいいことではないか」と私も単純に考えていました。しかしそこに、まず大きな落とし穴があったのです。

 同制度の導入に先立って、集中的に審理ができるようにするため、あらかじめ争点を絞り、なおかつ素人である裁判員にも分かりやすいものになるよう、審理する証拠も厳選する公判前整理手続というものが始まっていました。2004年のことです。

公判前整理手続の問題点

 公判前整理手続では、初公判前に裁判官、検察官、弁護人(被疑者)が協議し、証拠や争点を絞り込んで審理計画を立てます。たとえ公判が始まってから重要な証拠などが見つかっても公判前整理続で認められていなければ、原則として新たな証拠請求はできません。

 そもそも日本の刑事裁判では、警察官と検察官が綿密に被疑者を取り調べ、有罪の証拠を固めるところから始まりますから、検察側が持っている証拠をすべて見ることができない弁護側はかなり劣勢からのスタートとなります。

 その雲泥の差のある情報の中から、裁判官がどれを証拠採用するのかを判断していきます。

裁判官も人間

 裁判官も人間です。「有罪の証拠が固まった」検察側の情報を見て検察側に気持ちが傾いてしまうことはないのでしょうか。

 もしかしたら公判が始まる前から、被疑者に疑いの目を向けてしまうかもしれません。そんなふうに、すでに被疑者を「クロ」と思っている裁判官が、はたして素人の裁判員に「わずかでも検察官の主張におかしいところがあれば無罪である」と無罪推定の原則をきちんと説明できるのでしょうか。
 私にはかなり怪しく感じます。

「市民感覚」を持ち込んだ裁判員制度が始まることでいちばん気になったのは、この10年間、少年による犯罪は激減しているにもかかわらず、「市民感覚」によって厳罰化が続いている少年法への影響でした。

 18・19歳の犯罪も増えてはいません。このように少年による犯罪が減っている理由のひとつとして挙げられるのが「要保護性」を重視した少年法の理念によって、再犯が減っているということです。

少年法の理念が失われる

家族 少年法は、家庭環境に恵まれないなど、さまざまな事情でうまく成長・発達することができなかった少年の生き直しを目的につくられた法律です。そのため、罰を与えるのではなく、教育や保護を行って更正を促すことに力点が置かれてきました。

 殺人などの重大事件を起こし、おとなと同じように刑事裁判によって処罰するのが相当と考えられる検察官送致(逆送)となったときでも、生育歴がきちんと検討されることも多く、犯罪責任を子どもだけに押しつけることなく、身近なおとなや社会が果たすべき責任や義務も示すことができました。

 しかし素人にも分かりやすいスピード感を必要とされる裁判員制度が導入されると「なぜ犯行に至ったのか」(量刑手続き)は関するものは簡略化され、「やったこと」(事実認定手続き)に関する資料が中心にならざるを得ません。

 そうなれば、とたとえ少年の事件であっても、生育歴を調べることなどに時間をかけなくなる可能性がありました。

調査官の存在意義も無くなる?

 さらにその当時、裁判員制度について取材するなかで気になる話も聞きました。裁判員制度導入に向けてた家庭裁判所の調査官の研修のことです。

 調査官の重要な仕事のひとつは、非行を犯した少年などの家庭や学校の環境、生い立ちなどを調査し、裁判官が適切な指導や処遇を考えるうえで参考となる報告書を作成することです。

 そんな重要な任務を負う調査官の研修で、非行につながる環境要因等は簡略化し、「刑事処分相当」との意見を「要にして簡潔に」記すよう求められたというのです。匿名を条件として取材を受けてくれたある調査官が話してくれました。

 この調査官は「これでは要保護性を守る調査官の専門性も存在意義も失われる」と大きな危惧を持っていました。

 裁判員制度の導入に向かっていた当時、司法に関わる者の研修に関しても気になる話を耳にしました。

 取材を受けてくれた調査官は「非行につながる環境要因等は簡略化し、『刑事処分相当』との意見を『要にして簡潔に』記すよう求められた」と研修について語りました。

 また、調査官や裁判官・検察官・弁護士の研修を行う最高裁判所司法研修所は「これまで重視されてきた成育歴や素質などの調査記録を証拠とせず、主に法廷での少年の供述内容で判断した方が望ましい」との研究結果をまとめていました。

加害者の生い立ちが見えなくなる一方

反省 罪を犯すところまで追い詰められた少年の生い立ちが軽んじられるようになる一方、犯罪被害者等基本法制定後の2008年にはじまった被害者参加制度によって、裁判員は被害者やその家族から直接、辛さや苦しみを聞かされることになりました。

 もし我が子を殺された家族であれば、当然、死んでいった子どものへの思いや、子どもの無念さ、自分たちの未来や希望がどれほどずたずたに引き裂かれたかなどを涙ながらに語るでしょう。私が被害者家族であっても、きっとそうすると思います。

 被告人である少年の「なぜ犯行に至ったのか」が見えなくなるなか、被害者側の苦痛を目の当たりにすることになった裁判員の心に「被告人を許せない」という感情が沸いても不思議ではありません。

「国民の常識」と呼べるのか?

 評決の際には、「素人である裁判員が参考にできるように」と、裁判官が類似の事件でどんな判決が下されたか(量刑相場)を示すこともあるでしょう。

 いえ、たとえそのようなものが無くても、被告人の個人的な事情がわからなければ、犯行行為以外に判断材料はありません。「○人殺せば死刑」「致死なら無期懲役」など、パターン化した結果にならざるを得ません。

 こうしたなかで下される判決が、果たして「市民感覚」が生きた「国民の常識」と呼べるものと言えるのでしょうか。

被害者側も救わない

 こうした裁判は被害者側も救いません。前出の調査官は、大勢の被害者と接してきた経験からこんな話をしてくれました。

「被害者や遺族が知りたいのは、『なぜ大切な人がそんな目に遭わなければいけなかったのか』です。それに応えるためには、被告人がどんなふうに育ったどんな人間なのか、なぜ犯行に及んだのか、などが明らかにならなければいけない。公判前整理手続でそこが削られてしまえば、被害者側の傷はもっと深くなります」

 このような裁判員制度がはじまれば、少年法が厳罰化されていくことは、火を見るよりも明らかでした。
 そして今、それは、まさに現実のものとなりました。

 2016年6月、裁判員制度で初めて、犯行当時18歳だった元少年に死刑判決が確定したのです。

少年法も「永山基準」も形骸化

少年犯罪

 裁判員制度が始まった当初から、分かってはいたことでしたが死刑確定のニュースを聞いたとき、私はやはり衝撃を覚えました。

 最高裁が少年法の基本理念である「更正の可能性」よりも「結果の重大性」を重視し、「少年でも相応の責任を取るべきである」という一審仙台地裁の判決を最高裁が認めたのです。これではもう少年法は死んだも同然です。

 また、この最高裁決定は、1968年に4人を射殺した永山則夫元死刑囚(犯行当時19歳)の裁判で示された、いわゆる「永山基準」も形骸化させたのです。

「永山基準」とは、1983年に最高裁が死刑適用の基準として犯行の動機や犯行時の年齢など考慮すべき9要件を示し、犯行やその結果の重大性だけでなく、「少年の個人的事情をも十分に考慮したうえで死刑とすべきか決定せよ」としたものです。

石巻少年事件とは

 石巻少年事件は、2010年に宮城県石巻市でおきました。元少年が元交際相手(元少女)の実家に押し入り、元少女の姉ら3人を牛刀で殺傷した事件でした。

 2000年になってからおこった「凶悪事件」と言われる大阪教育大付属池田小事件の犯人同様、元少年も子ども時代に激しい虐待を受けて育ちました。その虐待がどんなものだったのか。最高裁の判決が出る前、『島根日日新聞』はこう伝えています。

「5歳の時に両親が離婚し、母親に引き取られた。母親は1年後に再婚したが、家に1人で置いてきぼりにされたり、母親の機嫌が悪いと暴力を受けたりした。首輪をはめられ、ドアノブにつながれることもあったといい、小学校5年で祖母に引き取られた」

 しかし、こうした少年の個人的事情はほとんど考慮されず、犯行やその結果の重大性だけが重視されました。

少年院 厳罰化の一途をたどっている少年法。こうした流れをつくったのは、2006年に山口県光市で起きた母子殺害事件でした。
 最高裁は、この犯行当時18歳の少年が起こした事件に対し、1審と2審での無期懲役判決を破棄し死刑判決を言い渡しました。

 その後、2009年に当時14歳だった少年が、殺害した小学生男児の首を校門に起き、「酒鬼薔薇聖斗の名で犯行声明文を書くなどした神戸連続児童殺傷事件が起きました。
 それをきっかけに2012年の少年法改正では「16歳以上」だった刑事罰の適用年齢が「14歳以上」に引き下げられ、16歳以上の少年が故意に殺害した場合には、原則、刑事裁判にかける(逆送)ことになりました。

 そして、2016年の佐世保小学生殺傷事件後の2019年の改正では少年院送致の下限年齢が「14歳以上」から「概ね12歳以上」になったのです。

社会は利益を得たのか?

 現実に合わせて憲法でさえ改正しようとし、スピード感のある判決に向けて、圧倒的に検察官に有利な公判前整理手続きをし、市民感覚を生かして厳罰化を進めるさまざまな改革によって、私たちの社会は何か利益を得たのでしょうか。

 私にはまったく実感できません。それどころか、犯罪者を増やすという危険な道への歩みを進めているように思えます。

 すでに書いたように、ここ10年間、少年による犯罪は激減し、18歳・19歳の若年者の犯罪も増えてはいません。逆に多くの立ち直りの事例が報告されています。これは「更正」を目的とする少年法の理念が正しかったことを示すものではないでしょうか。

 そんな少年法の理念を捨て、市民感覚を取り入れた裁判によって厳罰化を進めていけば、本来ならば更正できたはずの少年も、その機会を失い、犯罪を繰り返す者を増やしてしまうことにつながるでしょう。

待っているのは「犯罪者の増加」

 生い立ちが軽んじられることも、気になります。

 同じ悲劇を生まないためには、「どんな環境が人間を犯罪へと向かわせ、いったい何が最後の引き金を引くのか」ーーそれを知るためには、犯罪者の成育歴を詳細に明かし、犯罪者本人が自分自身と向き合い、その気持ちを吐露できるようになるまでの時間も必要なはずです。

 つい最近も、東海道新幹線内で男女3人を殺傷するという悲劇的な事件が起きました。報道を見る限り、この事件もまた、家族や生い立ちなどの生育環境に、事件の謎を解く鍵が隠れているように見えます。

 そうした部分に光を当てず、「やったこと」だけに目を向けるようになれば、犯罪者を生まない社会をつくることは難しくなります。もし、そうなってしまったら・・・その先に待っているのは「犯罪者の増加」という、取り返しのつかない事態です。

法律 もうすぐ神奈川県相模原市にあった県立の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」に、同施設の元職員が侵入して19人を刺殺し、27人に重軽傷を負わせた事件から2年が経とうとしています。

 事件の直後、元職員は「奴をやりました」と最寄りの津久井警察署に出頭し、逮捕後は、「障害者なんていなくなればいい」などの主張を繰り返していました。

 また、その後の調べによって、元職員が犯行前の2月に衆議院議長公邸を訪れ、「障害者は不幸をつくることしかできない。世界経済の活性化のためにも抹殺すべき」として具体的な犯行方法を記した手紙を渡してたり、同僚に「重度障害者安楽死させる」と話したことから退職に追い込まれ、10日ほどの措置入院になったことなども明らかになりました。

 これらが報じられると、「おそるべき優生思想」「命を差別している」といった批判や「精神障害者はやはり危ない」といった声があちこちから上がった一方、元職員に同調するような意見もインターネットの書き込みを中心に拡散し、社会問題となったことはみなさんもよく覚えておられるのではないでしょうか。

障害者に関する法律が次々と

 振り返って考えてみると、相模原障害者施設殺傷事件が起きる前の10年間ほど「障害者」に関する法律が次々とできた時代はなかったのではないでしょうか。

 2006年には障害者権利条約が国連で採択され(日本の批准は2014年)、国内では悪名高き障害者自立支援法が成立しました。障害者自立支援法が問題とされた理由のひとつは、確かそれまでの応能負担(支払える能力応じて費用を負担する)から、応益負担(受けた利益に応じて費用を負担する)となった点だったと記憶しています。

「受けた利益に応じて費用を負担せよ」と言われても、支払う能力がなければ「無い袖は振れない」ということになります。そうなればお金が無い障害者はよい福祉が受けられなくなり、極力、福祉サービスを受けないようにするしかなくなってしまいます。

法律ができても差別は解消できないまま

 その後、2011年には障害者基本法の改正や障害者虐待防止法の成立があり、2012年には評判の悪かった障害者自立支援法が廃止となり、変わって障害者総合支援法が成立しました。
 さらに2013年には障害者差別解消法ができています。

 こうやって書いてみると本当にあまりにもいっぱいありすぎて混乱するばかりです。改正されたものや廃止されたものもあり、いったい何が何やら分からなくなってきます。

 が、言えるのは2006年に障害者権利条約が採択され、世界規模で障害者の権利が大きく謳われるようになったことで、国内でも障害者とその家族が抱える問題から目を背けることが難しくなったということ。
 
 そして、法律をつくるだけでは「障害者差別」は解消されず、相模原障害者施設殺傷事件を起こした元職員のような考えも無くならなかったということではないでしょうか。

 確かに、ちまたにはバリアフリーの建物が増え、ユニバーサルデザインのものが珍しくなくなり、公共交通機関では障害がある人へのサービスが厚くなりました。
 ホテルなどの宿泊施設や行政機関でも、「盲導犬受け入れマーク」を貼ったり、「筆談に応じます」等のお知らせを置くなど、一見すると、日本は障害者に優しい国になったような気もします。

 しかし本質的なところは何も変わってはおらず、逆にいくつもの障害者に関する法律がつくられたこの10数年間で、差別感は増したような気がしてならないのです。

クローズアップ現代を見て

HATE そんな障害者差別について深く考えさせられたのは、昨年7月26日に放送されたNHKのクローズアップ現代を見たときでした。
 殺傷事件からちょうど1年がたったこの日、NHKは「シリーズ障害者殺傷事件の真実  “ヘイトクライム”新たな衝撃」という番組を放送しました。

 番組のテーマは、欧米で増加する人種や民族など、特定のグループへの偏見や差別を起点とするヘイトクライムと、同事件の犯人である元職員の思想の共通を指摘し、「ヘイトクライムは社会を分断する危険性が指摘されている」として差別のない社会をどう実現していくのかを模索するというものでした。

ヘイトクライムが社会を分断する?

 この番組を見て、正直、私は困惑しました。私には「ヘイトクライムが社会を分断する」とは思えなかったからです。

 私には、社会のメインにいる人たちが「すべてを経済合理性で割り切ろう」とせんがために、社会が分断され、差別が助長され、その結果、ヘイトクライムが日常化しているとしか思えません。

 反貧困ネットワーク事務局長で元内閣府参与の湯浅誠さんの著書のタイトルを借用して恐縮ですが、今の社会はちょっと油断すればだれもが困窮者となるような「すべり台社会」です。

 そんな社会でうっぷんをかかえながらも、メイン社会の端っこから滑り落ちないようしがみついている人が増えれば、スケープゴートを見つけてうさばらしをしたいと考える人が増えても当然なのではないでしょうか。