image061207.jpg 今回は、子どもたちが本音を語ることができない現実について書く予定でしたが、急遽変更。緊急事態である教育基本法「改正」について取り上げさせていただきました。

今、教育基本法「改正」案(「改正」案)が参議院で審議されています。
最も「改正」の影響を大きく受ける子ども、そして保護者や現場の教師の多くが、いったい何が論議されているのか、「改正」されれば何がどう変わるのか想像もつかないまま、早ければ今月8日、延びても来週には可決される見通しが強まっています(教育基本法「改正」情報センター)。


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このままでは、多くの人が今の教育基本法のことも知らないまま「教育基本法は時代に合わない」「教育基本法のせいで子どもたちの状況が悪くなった」などという宣伝文句だけが先走りし、「改正」案は成立してしまいます。先月、与党による単独・強行採決という、力づくによって衆議院で可決されたように。

しかし、この「改正」案も、その審議のプロセスも問題をいっぱいかかえています。
以前、このブログ(「奈良放火事件から考える」)でも書いた通り、「改正」案は、「分に応じて国や社会に役立つ人材を育成する」ことを目標としています。その目標達成のため、教育現場には企業経営の手法が持ち込まれます。教育内容と、その達成度の基準を国が決め、上意下達の命令と規律、競争原理を用いて子どもたちを叱咤激励し、指導し、さらには選別・序列化することになります。

こうしたことを実現する法律に「改正」されれば、子どもが成長するために必要な「おとなとの受容的で安心できる継続的な関係」は、こなごなに破壊されてしまいます。

そんな「改正」案であるのに、その審議の過程で「子どもの成長や発達に何が大切なのか」「教育とはどうあるべきなのか」など科学的、歴史的見地に立った教育論議がいっさいされていません。「本当に教育基本法のせいで子どもたちの状況が悪くなったのか」も、「何が子どもたちの成長発達に必要な土台を壊してきたのか」も、まったく検証されていないのです。(続く…

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子どもはおとなに気に入られる“よい子”のふりをすることなく欲求(意見)を表し、それを受け止めてもらうことーーありのままの自分を認めてもらうことーーで、
「自分は愛されている」
「世の中は自分を受け入れてくれている」
という、自己肯定感や基本的信頼感を育みます。そのような感覚を得てはじめて、生来持っている共感能力や自律性、道徳性や好奇心が生まれ、人生を生き抜いていく力を獲得します。

子どもが、人格的にも肉体的にもバランスの取れた人間へと成長発達するためには、子どもをそのままで抱えてくれる人間関係、自分は守られていると感じられる安全基地が不可欠です。

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もし、そうした人間関係を持て無かった場合、人格形成に何らかの歪みが生じます。安心感がないため、他人を信用できず、攻撃的であったり、引きこもったり、保身だけを考えたりする人間になるおそれもあります。

たとえ知的能力が高く、社会的には高い地位につけたとしても、同じです。かえって権力やお金を手しまった分だけ、社会にもたらす弊害も大きくなります。
多くの場合、身近なおとなから力で押さえつけられて育っているので、成長したときには他人が信用できず、金や権力で人を支配したり、より強い者にしがみついたり、面従腹背で私利私欲に走るような人間になってしまうおそれがあるのです。共感能力が育っていないので、他人の痛みにも無頓着です。

談合事件で次々と逮捕されている知事たちや、子どもの心を育てる「ココロねっこ運動」に熱心な長崎県の県庁で発覚した大がかりな裏金づくり事件を考えてください。

子ども期における身近なおとな(多くの場合は養育者)との受容的な関係性を重視する考え方は、イギリスの精神分析医であるジョン・ボウルビィが提唱したアタッチメント理論に基づくものです。

小児科医でもあったボウルビィは、継続的で愛情に満ちた養育者を持たない子どもたちを調査するなかで、養育者との基本的な関係性である健全なアタッチメント(誕生の瞬間から築かれていく愛情にあふれた情緒的な絆)が形成できなかった場合、その影響は将来にわたって深刻な影を落とすことを明らかにしました。

また、近年、虐待などの不適切な養育による慢性的なトラウマ体験を持った子どもへの理解やケアの在り方についての研究が進むなかで、トラウマとアタッチメントはコインの表裏のような関係であることも分かってきました。
つまり、健全なアタッチメントが形成されていないとトラウマを受けやすくなり、トラウマを受けると健全なアタッチメントによって築かれた安心感を崩してしまうことが分かってきたのです。

そこには、科学の発達による大脳生理学の発展が関与しています。
母親の胎内にいる期間も含めて、ごく小さいときから身近なおとな(養育者)から、慰めや共感、喜びの共有などが受け取れなかった場合、右脳の発達不全が起こることが明らかになりました。そして、トラウマ治療の研究から、人との関係性によって脳(心)の機能が改善することも立証されはじめたのです。(続く…

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image061211.jpg このような科学的事実から、昨年は国連「子どもの権利委員会」もアタッチメント理論を取り入れた乳幼児の権利に関する見解を出しました。

現代社会では、子どもの人格的・肉体的な発達に欠かせない健全なアタッチメントを育む関係性をつくれなくなっていることから、国連「子どもの権利委員会」は、条約の中核に「自ら身近なおとなとの間に『ありのままで認めてもらえる人間関係』を形成し、自らの成長発達に主体的に参加する権利」である意見表明権(12条)をすえました。そして、それによって子どもたち一人ひとりの持てる力を最大限に引き出し、子どもたちが心身ともにバランスの取れた人間へと成長発達することを保障しようと考えたのです。

ちなみに、子どもの権利条約は子どもの成長発達を保障するための国際的なとりきめですが、日本も1994年に批准し、国内でも大きな拘束力を持っています。


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改正で国(国益)中心の教育に

そんな子どもの権利条約の考え方は、「人格の完成」(第1条)を教育の目的とする今の教育基本法と通じます。
教育基本法では、この目的を達成するために、自発的精神を養うことや自他の敬愛と協力——人間関係——(第2条)を重んじています。教育を受ける機会の平等(第3条)や学校における教職員の尊重(第6条)などが謳われ、教育が時の政治勢力の思惑に左右されないことを明確にしています(第10条)。

ところが、「改正」案は違うのです。いちばん大きな違いは、教育振興計画(17・18条)によって、時の政権が望む子どもをつくるために、教育内容や実現のための法律、手段などをいかようにもつくれるようになるということ。つまり、教育が国(国益)中心のものとなり、そのための人材育成が教育となってしまうということです。
それを実現するために現場職員への管理や統制が強まり、国が家庭の教育のあり方に口を出せるようになります。
また、国の望む教育をきちんと実行する学校が優遇されるようになり、学校間の格差も広がります。

教職員は職務命令と数値目標で身動きが取れなくなり、子どもと向き合うことなどとてもできなくなります。
全国一斉学力テストがはじまり、効率よく国の求める教育内容を達成するための管理体制が強化されます。
予算配分も人事も、何もかもが内閣府に設置される振興計画会議の計画にそって決まっていくため、教職員はその計画の実行者に過ぎなくなり、保護者は教育内容に逆らわない子どもを育成する担い手にされるばかりか、お金を出して教育サービスを買わされる“購買者”に成り下がります。

東京都が「改正」先取りの好例

こうしたことが起こることは、現在、教育基本法「改正」を先取りしたさまざまな取り組みが行われている東京都などを見れば明らかです。

東京都では、管理強化による教職員の精神疾患問題が深刻です。子どもの顔を見るよりも管理職の顔色をうかがうようになった教職員に対し、子どもは不信や暴力で訴えています。それは学級崩壊や学校内暴力と呼ばれることもあります。
学力テストや学校選択性の導入によって、学校に格差が生まれ、足立区のように学力テストの結果に応じて予算配分を行うことを決めた自治体も出てきました。
親たちは、子どもの将来に有利な学校選びに奔走しています。近年、相次いで発刊されているお受験や学校選びをテーマにした雑誌の多さを見てください。(続く…

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「改正」されれば子ども問題は深刻化する

image061212.jpg そんな教育現場にはびこるのは、自己決定と自己責任に基づく競争原理と上意下達の命令や道徳規範、規律です。子どもたちを“調教”しようというのです。まるで競走馬のようです。
生まれつきハンディを負っていたり、“調教”の過程で反抗したり、故障したりすれば、容赦なくはじかれてしまいます。
子どもが成長発達するために必要な人間関係など保障する余裕はありません。

それでなくとも国は「構造改革」や「自由競争」という名で、保護者や教職員の労働条件を悪化し、教育や福祉分野の予算を削減させ、企業優遇の措置を取り続けることで、子どもがすくすくと育つための人間関係を破壊し続けてきました。

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お金と地位、そして成果争いに駆り立てられているおとなには、とても子どもと受容的な人間関係を築くための経済的・時間的余裕が無くなってしまいました。
万が一、そうした余裕があっても、そのおとな自身がそのままで認めてもらえた経験、つまり愛された記憶がないために、自分がされたのと同じような方法で「これがお前のためだ」と言って、子どものお尻を叩いてきました。

「改正」されれば、こうした状況はますます深刻になります。今よりもずっと、教職員は管理職の顔色をうかがうようになります。親の所得や意識によって子どもが受けられる教育に差が出来ます。幼少期にどんな教育を受けたのかということが、将来、いえ、次の世代にまで影響を及ぼすようになるため、教育熱心な親は戦々恐々となって子どもを追い立てるようになります。

エリート優遇の格差社会では、一度ついてしまった格差が一生をかけても取り返しがつかないほど大きくなってしまうからです。

安易な「改正」ではなく真摯な議論を

子どもとおとなとの間の受容的な人間関係など皆無になり、子どもの欲求はつぶされ、居場所は無くなり、ストレスは増し、子どもたちの抱える問題は必ず増大します。

政府与党が言うように、競争によってモラルが回復し、教職員の質が向上し、子どもたちの学力が向上し、国が豊かになるなどということは絶対にありません。それは、子どもの権利条約の理念を生かした、子ども一人ひとりを大切にした教育を行っているフィンランドやデンマークなどのスカンジナビア諸国が、文化的民度や学力の国際比較、そして国際競争力においても常に世界のトップを占めていることからも明らかです。

教育基本法の「改正」は、日本の将来のあり方を決定する国の「百年の計」のはずです。けして一部の政治家の感情論や経済界の目先の利益に左右されるべきではありません。
それにも関わらず、冒頭で述べたように「改正」案にも、「改正」プロセスにも、科学的・歴史的な事実に基づいた論議がまったく欠如しています。

確かに、今までの教育施策や教育制度は、教育基本法の理念通りに行われてこなかったという反省点はあります。
しかし、だからと言ってこのまま安易な「改正」に踏み切れば、日本国民は大きな負の財産を背負い込むことになります。

「改正」を急ぐのではなく、今こそ「子どもの成長発達には何が必要なのか」を真摯に問う、国民的な大議論を行なうべきです。(終わり)

image061225.jpg 2006年12月15日、私たちは「教育の原点」を失いました。「改正」教育基本法が成立したのです。

「教育の原点」は人格の完成を目指す人間教育です。そのために、子どもの成長発達を援助するための締約国の責務を定めた子どもの権利条約は「一人ひとりの子どもが、その持てる能力を最大限に発揮できるよう援助すること」(教育の目的/29条)を定めています。

その子どもの権利条約の理念は、人格の完成を教育の目的とし(1条)、時の権力による介入を排除した(10条)教育基本法にも通じます。多くの命を奪った戦争の反省に立ち、当時の日本人は世界に半世紀も先んじた「教育の原点」を確立していたのです。

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その原点が、論議もつくされぬまま崩壊しました。必ずしも理念通りの教育が行われて来なかったという現実はあるにせよ、「憲法を変えなければ『改正』はできない」とまで言われていた法律があっけないほど簡単に変えられてしまいました。

15日に国会を傍聴していた人たちによると、形式だけの野党の反対討論と与党の賛成討論があり、あっという間に「改正」案が可決したそうです。

タウンミーティング問題と『改正』問題は別?

タウンミーティングでのやらせや過剰な経費の使い方などが次々と発覚。「『改正』ムードを高めるための世論誘導」「自民党案をそのまま『改正』案にスライドさせた」などの批判もありながら、安倍晋三首相や伊吹文明文科相の責任が追求されることもありませんでした。
同じ15日に、衆議院に提出されていた安倍内閣の不信任決議案も伊吹文部科学相の問責決議案も、簡単に退けられました。

1回あたり平均2千万円を超えた高額の経費が使われて開催された教育改革についてのタウンミーティングでは、会場での送迎に4万円、エレベーターからの誘導に2万9千円などが支払われ、官僚の送迎などに使われたハイヤーが水増しされるなど、不適切なコストがかさんでいました。
こうして開かれた全174回のうち、6割にあたる105回で、やらせ発言や発言依頼者への謝礼などが行われていました。

常識的に考えれば、その責任の所在や不正の原因を明らかにし、当時官房長官だった安倍首相がどのように関わっていたのかにもきちんと追求されるべきではないでしょうか。少なくとも安倍首相が給与を返納して事足りるという種類の問題ではありません。
ところが、安倍首相らは「タウンミーティング問題と『改正』問題は別」と言い切り、きちんと取り合おうともせず、今回の可決に踏み切りました。(続く…

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image061228.jpg「改正」の明確な理由もなく

しかし、そこまで急いで「改正」しなければならない明確な理由は何も示されていません。参議院・教育基本法改正特別委員会で参考人に立った知人に聞いても、「公の理由は『国際社会の変化に合わせるため』だけ」とのことでした。

「国際社会の変化に合わせるため」に何を行うつもりでいるのかについては前回までの「教育基本法『改正』で子どもは育つか?」で述べました。端的に言えば、「分に応じて国や社会に役立つ人間の人材育成」です。
このような意図は「改正」法の中に明記はされていません。でも、それは教育改革国民会議(2000年)から続く、「21世紀教育新生プラン」(2001年)、「人間力戦略ビジョン」(2002年)、「中央教育審議会答申」(2003年)など、「大競争時代を打ち勝つ」として次々と出された提言などを見れば一目瞭然です。

そして、その先に競争の激化と規律・統制によるストレスの増大、子どもの序列化、そして人間関係の崩壊が待っていることも、「改正」先取りの教育改革を行っている自治体の現状から疑念の余地がありません。

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「改正」法成立と同じ日、文部科学省は絶妙のタイミングで「改正」を先取りした教育「改革」の影響の一端を発表しました。文部科学省の調査によると、2005年度に病気休職をした公立小中高の教職員は7000人を超えました(前年比709人増)。そのうち、うつ病などの精神疾患で休職したのは、前年度比619人増の4178人で過去最多です。10年間で約3倍に急増したそうです。

責任重大なマスコミ

多くの問題をはらんだ「改正」法とその審議でしたが、子ども問題に関心がある人にでさえ、その問題点を理解してもらうことほとんどできませんでした。多くの国民は「自分とは関係のないこと」と感じ、多くの保護者は「問題を起こさない子どもを育てるには規律ある教育の方が望ましいのでは?」と考え、多くの子どもは蚊帳の外に置かれたままでした。

そこには分かりやすく問題点を伝えることができず、保護者や子どもたちの視点を忘れていた反対する側の責任もあります。しかし、何よりも責任重大なのはマスコミでしょう。
「改正」に関する一連の問題を早くから、鋭い視点で掘り下げた記事を掲載した大手新聞は『東京新聞』くらいです。日本のジャーナリズムを代表すると言われる大手新聞などは、自らのグループ会社がタウンミーティングを取り仕切ったためなのか、当たり障りのない記事ばかりという印象を否めませんでした。

多くの人に影響力を持つテレビは、「改正」間際になってもアジア大会の報道に忙しくて教育の根幹に関わる法律をじっくり検証する暇はありませんでした。
参議院の特別委員会で強行採決された日の夜も、トップニュースは松坂大輔投手が61億円でレッドソックスと正式契約をしたことでした。

大手マスコミは、「『改正』の焦点はイデオロギー(愛国心)問題である」かのような報道をギリギリまで行ない、本当の問題点を曇らせてしまいました。
実は、愛国心を盛り込むかどうかなど、どうでもいいことなのです。「改正」案の教育行政(16条)と教育振興計画(17条・18条)があれば、国はやりたいように教育を操作することができます。つまり政府が「戦争をはじめよう」と思えば兵士づくりのための教育が、「国際競争で負けない優秀な人材を育てよう」と思えば子どもを選別する教育ができてしまうのです。

メジャーなテレビ局が「改正」問題を大きく取り上げたのは参議院本会議で可決された後です。15日の夜、NHKは伊吹文科相をスタジオに招き、「改正」を宣伝する番組を放送しました。また、反対のスタンスを取ったある民法のキャスターは「圧倒的な数の論理を使って“われわれの知らない間”にこんな重要な法案が通ってしまった」と、吠えていました。(続く…

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政治と一体化したマスコミによる世論誘導

image070109.jpg 昨年の秋と同じです。マスコミ各社は自民党圧勝が決まった後になって、まるで用意していたかのように小泉政権が行なった構造改革の問題点、いわゆる格差社会の問題についての報道を一斉に始めました。
選挙前、多くのマスコミはまるで郵政民営化だけが焦点であるかのような報道を続け、構造改革が国民にどのような生活をもたらしているのかということをきちんと伝えようとしませんでした。

政治と一体化したマスコミによる世論誘導。ちょっと横道にそれますが、その怖さは拉致問題についても感じます。
安倍内閣になって担当の首相補佐官が起用され、10月には政府が重点的に報道するようNHKに命令まで出した拉致問題。それは安倍首相が副官房長官を務めた2000年以来、極めて大きく報道されるようになりました。

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1960年代から断続的に起きていながら、ほったらかしにされてきていた拉致事件が、急に脚光を浴びたのです。
拉致問題に熱心に取り組み、北朝鮮脅威論をあおり立てる人たちが、憲法「改正」、軍事増強を唱える人たちと重なることもあいまって、何とも言えない不安を覚えます。

偶然の一致なのか15日には、防衛庁の省昇格関連法や「改正」テロ対策特別措置法も成立しています。
これらの法案を可決させ、自民党政治家から「保守本流に戻った」と喝采を浴びる安倍政権。「戦後体制からの脱却」を掲げる安倍首相。彼が次に照準を定めているのは憲法「改正」です。

改めて子どもの権利条約を広める重要性

取材やNGOの活動のなかで出会う親の愛を渇望する子どもたち。臨床の現場で出会う親(世間)の期待でがんじがらめになったおとなたち。そうした方々の現実を見たとき、私には安倍政権が指し示す先に人々が幸せなる社会を想像することはできません。

自分の親からされたことを振り返ったとき、規律と統制、すなわち「上から押しつけられた価値」を子どもに植え付けることで子どもが“よく育つ”と思えるでしょうか? 一部のエリートのための社会で子どもはすくすくと育つでしょうか? そんな子どもたちの犠牲の上に築かれた日本は、本当に「美しい国」でしょうか?

私たちは早急に「教育の原点」を取り戻さなければなりません。子どもをめぐる現状が厳しさを増す中で、今度こそ現実をともなった「教育の原点」を確立していかねばなりません。そのために役立つのは、やはり「教育の原点」を示した国際条約であり、国内でも強い拘束力を持つ子どもの権利条約です。
改めて子どもの権利条約の持つ理念、そして重要性を改めて広めていきたいと思います。(終わり)

この5月から、殺人や傷害致死などの重大な事件を争う刑事裁判に裁判員制度が導入されます。導入を進めてきた人たちは、「裁判の迅速化を図る」「国民の意見を裁判に反映させる」「刑事司法を開かれたものにする」など、と言って宣伝していますが、本当にそうなのでしょうか?

導入が決まった後になって、各マスコミはようやく裁判員制度の問題点を指摘するようになりました。それによってようやく国民も、法律の専門家ではない一般人が司法判断を下すことの難しさや、裁判員となった場合の義務、義務に反したときの罰則等について現実的な問題としてとらえられるようになってきました。

昨年3月に日本世論調査会が実施した調査によれば、「裁判員を務めてもよい」と答えた人は26%。対して「裁判員を務めたくない」と答えた人は72%にもおよび、「務めてもよい」の3倍にも達しています。
また、最高裁判所の調査でも、「参加したくない」とする意見(38%)は、「参加してもよい」(11%)の3倍以上になっています。

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なぜ今、裁判員制度導入なのか

多くの国民が「裁判員にはなりたくない」と言っている制度をどうして導入しなければならないのでしょうか。そもそもなぜ、裁判員制度導入の話が持ち上がったのでしょうか。

国民の参加を提言したのは2001年の「司法制度改革審議会意見書ーー21世紀の日本を支える司法制度」でした。

背景には同じ年に成立した小泉内閣が推し進めた、経済活性化、国際競争力強化のための構造改革、規制緩和がありました。

構造改革、規制緩和を軸とする小泉改革は、「それまで政府が国民生活を守るために行ってきたさまざまな規制や縛りをとっぱらい、あらゆるものを市場経済に委ねる社会をつくる」ことを目指しました。
そして国民に対しては、「政府に頼ることなく、自らの意思決定において市場経済に参加し、選んだ結果には自分で責任を取ること」を求めました。

司法においても同様に、「国民が裁判官とともに広くその責任を分担するための仕組みが必要」と考えました。たとえ法律に関する知識がない国民であっても、「国民の健全な社会常識を反映させることができる」として。

それが、「国民の意見を裁判に反映させる」「刑事司法を開かれたものにする」ということだというわけです。

起訴されると有罪率ほぼ100%

では、「司法の迅速化」はどこに行ったのでしょう。

その話をする前に、日本の刑事裁判はなぜ時間がかかるのかという話をしたいと思います。

日本の刑事裁判は、まず警察官と検察官が被疑者を綿密に取り調べるところから始まります。この段階で有罪の証拠を固めてしまうのです。
取り調べの間、被疑者は警察署の中に設置された代用監獄という場所に、ずっと入れられます。「やったかどうか分からない、犯人の疑いがある人」であるだけなのに、最大で23日間日間もここに押し込まれます。

この間、外部との接触はほとんどできません。孤立無援の状態におかれ、「お前がやったんだろう」と責め続けられます。疲れ切った被疑者は「どうにかしてここから逃れたい」と思い、検察側に有利な供述をし始めます。

こうした異常な取り調べが、世界に類を見ない「いったん起訴された場合の有罪率はほぼ100%」という数字を可能にしています。(続く…

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世界でもまれな、被疑者の人間性を無視した代用監獄の存在は、国連からも批判されています。
代用監獄で被疑者がどのように扱われるか、興味のある方は東京弁護士会のサイトをご覧ください。

ご一読いただければ、なぜ代用監獄が国連から批判されるのか、なぜ被疑者が嘘の自白までしてそこから出たいとまで思うのか、おわかりになるかと思います。

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次回の開廷まで時間がかかる理由

こうした代用監獄に被疑者を押し込め、警察・検察側に有利な証言を引き出すまで超時間にわたる取り調べができるうえ、捜査権限も持つ警察・検察側に対して、弁護側は圧倒的に不利です。

一般市民は、警察に協力するようには弁護側には協力してくれませんし、被疑者との面会さえも制約されます。当然、弁護側が手にする情報は検察側に比べて、かなり少ないものになります。

弁護側は、そうした状況下で検察側の作成した膨大な調書(事件によっては、段ボール箱何箱にも及ぶ調書になることもあります!)を読み、反証する材料を見つけていかなければなりません。どうしてもある程度の時間が必要になります。

次の開廷まで間隔が空いてしまい、事件によっては判決まで長い年月がかかってしまうのも、無理はありません。

日本の刑事裁判が抱える根本的問題

膨大な調書が引き起こす問題は、開廷の間隔が空いてしまうというだけではありません。

裁判官が次の開廷までの期間に「法廷外で、検察側が作成した調書を読まざるを得ない」ことも、見逃せない問題です。

これによって、裁判官が公開の場である法廷内での直接的なやりとりよりも、法廷外(密室)で読んだ調書によって心証を形成し、その影響を受けた裁判・判決につながることが少なくないからです。

だから、検察側の膨大な調書作成が引き起こす
1)被疑者の長期勾留による「自白の強要」、「虚偽の自白」
2)開廷間隔の長期化
3)裁判官が法廷外で心証を形成してしまうこと
は、長年、日本の刑事裁判が抱える問題点とされてきました。

不思議な司法制度改革

それならば、諸悪の根源である代用監獄を無くし、警察・検察側が「いったん起訴されると有罪率がほぼ100%」にもなるような取り調べをできないようにすればいいと思いますが、不思議なことに司法制度改革審議会の専門家の方々は、そうは考えなかったようです。

そして、いつの間にか根本的な議論は置き去りにされ、問題がすり替えられました。そう、前回、このブログで書いたように、「国民が裁判官とともに広くその責任を分担するための仕組みが必要」という話になってしまったのです。

こうして、相変わらず代用監獄は残されたまま、「司法の迅速化」を図り、「裁判を民主化する」(「国民の意見を裁判に反映させる」「刑事司法を開かれたものにする」)として、裁判員制度の導入が決定されました。(このシリーズの最初の記事へ

“>続く…)

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裁判員制度になれば、確かに審理期間は短くなります。集中審理が行われるため、3〜5日程度で結審することになるのです。

こうしたスピーディな裁判を実現するために行われるのが、公判前整理手続です。

公判前整理手続とは、初公判に先立って、裁判官、検察官、弁護人、必要な場合は被疑者が話し合い、あらかじめ証拠や争点を絞り込んで審理計画を立てる場です。ここで、法律の専門家ではない裁判員にもわかりやすいよう、証拠が厳選されます。

2005年から一部の刑事裁判で行われていて、その場は“慣例として”非公開です。
たとえ公判が始まった後に重要な証拠などが見つかっても、公判前整理手続で認められていなければ、原則として新たに証拠請求をすることはできません。

代用監獄は残したまま、こうした公判前整理手続を導入することは、弁護人を今まで以上に不利な立場に追い込みます。
前回も書いたように、弁護人には捜査権限が無く、被疑者との面会さえもままならないのです。

公判前整理手続が行われれば、その手続までに弁護人が情報を集められず、十分な準備ができないままに臨む可能性が高くなることは否定できません。しかも「証拠が厳選される」ため、検察官が握っている証拠をすべて見ることもできなくなります。

へたをすれば裁判方針も立てられないまま、公判前整理手続を終えることにもなりかねません。

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本心を語れるようになるには

安易に早さだけを求めることは、他にも大きな問題を残します。そのひとつは「被疑者が犯行に及んだ真の理由が見えなくなる」ということです。

被疑者が真実を話せるようになるまでには、かなり長い時間を要することもあります。

その良い例が、1999年4月に山口県光市で起きた母子殺害事件です。
当初、この事件の被疑者は「強姦目的で部屋に侵入し、抵抗されたため殺害した」と、検察に有利な供述をしていました。

ところが、7年以上たった公判で、乱暴を目的としていたこと、そして殺意を持っていたことを否定する供述を始めたのです。

この被疑者に対し、「嘘つき」と言葉を投げつける人々は多くいます。「弁護士にそそのかされて供述を覆した」と、弁護人ともども非難の対象ともなりました。実際、最高裁判所も「新たな供述は信用できない」との判断を下しました。

カウンセリングの現実に照らして

でも、果たしてそう言い切っていいのでしょうか?
人が真実を話せるようになるには、思いの外、長い時間がかかります。それは、日々のカウンセリングの場でも感じることです。

たとえ被害者の立場の方であっても、被害に遭った自分の情けなさや至らなさ、それを認めたくないプライド・・・ときには、加害者への愛情などが、本心を語ることを妨げます。
意識的に本心でないことを語られる方もいらっしゃいますが、中には無意識のうちに自らの思いを封じ込め、表面的な言葉で語るケースも少なくありません。

重篤なケースであればあるほど、人が本当の自分の気持ちに気づき、語れるようになるまでには、長い時間がかかります。そして、その期間、ずっと自分を否定せずに寄り添ってくれる他者がいなければなりません。

こうしたカウンセリングの現実に照らし、母子殺害事件の被疑者のことを考えると、新たな供述を「まったくの嘘」と即座に断じてしまうのはとても危険なことのように思われます。

「信頼できる弁護人との関係性によって、ようやく口を開きかけた」ととらえることもできるのですから。(続く…