本音とたてまえ、オモテとウラ(4/7)

2019年5月29日

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「ゆとり教育」になったことで、教師は「以前と同じ内容を短時間で、しかも子どもの実感がともなわない方法で教えなければならない」ようになりました。

当然、子どもの理解度は落ちていきます。そして、一度、分からなくなるともう二度と学校の授業には付いていけなくなることも増えました。

「基礎的な学力を何も身につけられないまま、小学校高学年、中学生へと進んでいく子どもが少なくない」
現場の教師はよくそんなふうに嘆いていました。

ゆとりのなくなった教師

そもそも教師自身、子どものことを気にする余裕がなくなっています。「学校を開く」とか「学校の説明責任を明確にする」とか、「優秀な教師を育てる」とか、これまたオモテとウラのある現実で教師への締め付けが厳しくなったのもちょうどこの頃。

オモテ向きはとても耳障りよく聞こえるこれらの言葉の実態は、たとえば基準の明確な数値目標の設定や、教育委員会(文部科学省)の人事考課による教師評価、管理職向けの膨大な事務仕事の増加などです。

すごく簡単に言ってしまうと、“お上”が教師を管理し、個々人の教師が、目の前にいる子どもの現実に合わせて自由に教育を行う自由と余裕を奪ったのです。

時間的にも精神的にもゆとりのなくなった教師には、以前のように必要なときに補習授業をしたり、個別に勉強を見てあげるなどということが難しくなってしまいました。たとえ“気になる子”がいても、教師に余力がなければ「見なかったこと」にするしかありません。

しかも、アメリカを真似た平等や福祉を排除した教育制度——競争と選択によって受けられる教育を個人に決めさせ、その結果責任を個人に負わせて国民を階層化しようというもの——に移行しようという動きもすでに始まっていました。そうした教育制度に親しむよう教育された教師の中には、かつてのように「分かるまでちゃんと教えよう」ではなく、「分からないのは自己責任」と考える教師も増え始めていました。

開く学力の差

当然、“できる子”と“できない子”の学力差は開いていきます。

一昔前には、テストをすると点数の分布表は真ん中付近が高いベル型になるのが普通でしたが、「ゆとり教育」が始まった後からは真ん中がくぼんだM型になることが多くなったという話をあちこちで耳にしました。
しかも、Mの山と山の間はどんどん離れていく傾向にあるというのです。そして、高い点数を取る子どもは、ほぼ全員が塾に行っているという話しも聞きました。

分からなくなった勉強、ていねいに教えてくれる人がいない勉強をすっかりあきらめ、ぜんぜん勉強しない子どもが増える一方で、高額な塾に通い本来は上の学年で学ぶべきことまで先取りして学ぶ子どもも多くなりました。(続く…

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Posted by 木附千晶