本音とたてまえ、オモテとウラ(5/7)
教育熱心で、学校以外に勉強の場を確保できるような親がいる子どもの学力は上がり、そうでない子どもの学力は下がる・・・。
そんなことが当たり前のようになっていきました。
そして、学力格差を生み出すような「学ぶ子」と「学ばない子」が歴然とする学校は、学力以外にもさまざまな問題をもたらしました。
それまでは、たとえ勉強ができなくても、走るのが速いとか人前で話すのが得意とか、それぞれの得手不得手を活かして、行事で活躍できる子が大勢いました。
だから、テストでは上位になれなくても、自分のことを卑下したり、ストレスをため込むことは少なかったのです。
でも、ゆとりが無くなり、行事が減らされる一方の学校では、勉強以外の活躍の場はどんどん減っていきました。
勉強以外で活躍できない子どもたちの中には、荒れたり、暴力的になったり、弱い者いじめで鬱憤を晴らそうとする子が出て来ました。また、早いうちから「どうせ自分は頭が悪い」などと考え、諦めてしまう子も増えていきました。
進む学力低下と問題行動の増加
その結果、学力の二極化はどんどん進んでいき、全体の学力レベルは下がり、問題行動は増えて行きました。
たとえテストの点数が高い子であっても、生涯を生き抜く力につながるような真の学力が向上しているのか、学ぶことによって思いやりなどの人間性まで育てられているのかは眉唾です。
何しろテストで点数が取れるのは、塾などで「他人を蹴落として点数を取る」勉強のテクニックを学んだ子ども。だれかに支えられながら好奇心を持って取り組んだり、みんなで知恵を絞って難しい課題に取り組むなど、人とつながる経験をもとにする“こころ”を育てながら、持って生まれた力を伸ばすような学びではありません。
しかし、残念ながら「受験体制は変えないまま教える内容と時間を減らして、教員の管理を強めて多忙にすれば、子どもにかかわれない教員が増えて、子どもの学力が二極化、低下したり、子どもの問題行動が増えるは当たり前」という事実は、ほとんど振り返られることはありませんでした。
本質はおきざりにされたまま、子どもたちがうまく育たない原因は「学校(教師)が悪いから」という雰囲気で語られ、「教員の質の問題」や「学力向上にはゆとりではなく競争が大事」という論調がつくられていきました。
「ゆとり教育」の見直し
そして2005年、ついに「ゆとり教育」の見直し論争が始まりました。
確かにその導入からの経過をきちんと見ていけば「ゆとり教育」が子どもによいものをもたらしたとは言えません。だから、その見直しをはかることには、私も異論がありません。
でも、「ゆとり教育見直し」を声高に叫んだ人たちが主張する「ゆとり教育見直しの必要性」は、私が考える理由とはまったく違いました。
彼・彼女らの主張は「週休二日制や教科内容の厳選(三割削減)などの生ぬるい『ゆとり教育』が学力低下を招いた。だから子どもたちをもっと競争させ、たくさん勉強するようにしなければならない」というものでした。(続く…)