そんなわけでなかなか気持ちを込めて応援したり、楽しんだりすることができないオリンピックなのですが、今回はその気持ちが顕著でした。
それはオリンピック開始前から終了後まで続いていた「母に捧げるメダル」や「母がいたからここまでこれた」という、各選手をめぐる報道のせいです。週刊誌やワイドショーだけでなく、新聞までもが母への感謝と大絶賛に埋め尽くされていました。
親子にとって本当に幸せ?
「家族の支えがなければ続けられなかった」というのは本当のことでしょう。自分を支えてくれた人に感謝するのは当然のことですし、そのこと事態は、とても素晴らしいことだと思います。
しかし、小さな頃から母親が子どもの練習につきっきりで過ごすというのはどうなのでしょうか。家族の生活の中で、あるひとりの子どもの練習が何よりも優先されるというのは子どもにどんな影響を与えるのでしょうか。
練習を続けるには莫大なお金もかかります。もし、飛び抜けて裕福な家庭ではなかった場合、家族が経済的にも苦労しながら、自分の上達だけを望み、大きな期待をかけられるというのは本当に子どもにとって幸せなことなのでしょうか。
さらに言えば、パートナーと家族をつくるほどの年齢になった子どもに「お母さん(お父さん)のためにメダルを取る」と言われることは、親にとって幸せなのでしょうか。
これまたひねくれ者の意見
これもまたひねくれ者の意見で恐縮ですが、もし私がオリンピック選手の母親だったどうかと考えるのです。まったく仮定の話ですが、自分の子どもがそんな偉大な選手になって、そんなセリフを口にしたらどうなのかと想像してみるのです。
自分の人生を楽しむ中で最高のスポーツと出会い、新しいパートナーと力を合わせ、自分のためにベストを尽くすというのなら、親として応援もできます。「周囲の人に感謝してメダルを目指してね」と、笑顔で送り出すこともできると思います。
でも、もし「お母さんのためにメダルを取る」と言われたら・・・。
「そんなこと重たすぎるから勘弁してくれ」
それが、私の本音です。
そして、「ああ、私は子どもの人生をこんなふうに支配し、コントロールしてきた母親だったのか」と、改めて愕然とすることでしょう。
なぜならオリンピック選手となった子どもが「お母さんにメダルを捧げる」と語ることは、「あなたのために自分の人生はあった」と言うに等しいことだと思えてしまうからです。(続く…)

5月27、28日にスイスのジュネーブにある国連で開かれた子どもの権利条約に基づく第三回日本政府報告書審査の傍聴に行ってきました!
その牧歌的な風景&文化を守り続けるために、イタリア政府(か県?)はさまざまな援助や規制をしているそうです。
のっけから脱線してしまいましたが本筋にもどし、そろそろ国連の話をしましょう。
実は今回、子どものプレゼンテーションの日時や場所も、同席できるおとなの人数も、本審査同様、最後まで確定しませんでした。
そして「周りにバカと言われる学校に通っている劣等感を持っていた」というDさんは、「このまま(劣等生)でいい」という思いと「競争に戻ってみんなに勝たなければ」という矛盾した思いを紛らわせようと「明るいバカというキャラを演じて友達と合わせてきたけれど、それが高じて自分がどんどん希薄になっていき、自分が分からなくなった」と言い、本当の自分を見せられない毎日について語りました。
そうやって、子どもたちが迷い、考え、身を削りながら、力を振り絞って臨んだプレゼンテーションなのですから、国連の委員の方々の胸を強く打たないわけがありません。