10月29日の『朝日新聞』に学校での動物飼育についての記事がありました。

「命の大切さを実感する機会として力をいれる学校がある一方、飼育経験が豊富な教員の減少や感染症の不安から、飼育をとりやめる学校も増えている」そうで、全国的には動物を飼育する学校は減少傾向だそうです。

広島県動物愛護センターが県内4市の小学校や幼稚園、保育所等に対して行ったアンケート(12年)によると、とくに減っているのが鳥類で、鳥インフルエンザの人への感染が確認されたことが影響しているとみられるとか。

その他、「動物の病気・けがが心配」「世話する人がいない」「人手不足」などで廃止にしたところがあり、動物アレルギーを持つ子どもへの配慮もあるそうです。

動物がいれば心配はつきない

確かに動物がいれば、動物が病気になったり、けがをすることはあるでしょうし。そうならないためや、なったときの配慮や心配はつきません。

また、アレルギーや感染症の問題も避けては通れないでしょう。

かく言う私も、かつては猫をはじめとした毛を持つ動物アレルギーでした。
動物が好で「生き物係」になるものの、マスク着用、手洗い必須、動物を触った手で絶対に自分の目には触れないなど、自分なりに工夫したものです。

どうやっても、猫だけは強いアレルギー反応が出てしまうため、20代になるまでは「猫はかわいいし、触りたいのに触れない」状態が続いていました。

それは本当に「子どもを守る」こと?

「危険な可能性のあるものから子どもを守りたい」
「動物が病気やけがを負ったり、亡くなったりする悲しみを子どもに味わわせたくない」
「不容易にめんどうなことはしたくない(させたくない)」

その気持ち、わからないでもありません。でもそれは本当に「子どもを守る」ことになっているのでしょうか。(続く…

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話が飛ぶようで恐縮ですが、「子どもを守る」というキーワードで思い出すのは、今年の夏、大阪府寝屋川市の中学1年の男女が遺体で見つかったいわゆる寝屋川事件です。

ふたりが京阪電鉄寝屋川市駅前の商店街の防犯カメラに映っていたのを最後に行方不明になったことが分かり、「子どもの深夜の出歩き」や「夜中も携帯電話(スマートフォン)でつながるこどもたち」の問題が、マスコミ等で指摘されました。

子どもの深夜の出歩きの要因は?

その大きな要因とされていたのは、24時間営業の店が増えたこと、塾通いで夜遅く子どもが出歩くことがめずらしくなくなったこと、ソーシャル・ネットワーキング・サービスの発達などが挙げられていました。

警視庁によると、東京都内で昨年深夜徘徊などで歩道された子どもは4万937人に上るそうです(『東京読売新聞』夕刊 2015年8月19日)。

自治体によっては「防犯チェックシート」を子どもたちに配ったり、夏休み中の夜間外出を控えるように呼びかけたり、学校長や教職員向けに「子どもをしっかり指導するよう」な研修会が開かれたりしました。

私も生活環境の変化が無関係だとは思いません。しかし、「それが本質的な要因なのだろうか?」という疑問はあります。

防犯についての知識を学んだり、学校や警察による生活指導を強めれば、こうした事件に子どもが巻き込まれることが本当に減るのか? と思うのです。

居心地のいい家なら夜遊びなどしない

たとえば24時間営業の店にたむろしている子どもに家に帰るよう言い聞かせたら、本当に家に帰るでしょうか?

もし私が注意される子どもの立場だったら、絶対に家になど帰りません。いったん言うことを聞いたふりをして、もっと暗くて、もっとおとなの目に付きにくい、もっと危険な場所で集まろうと考えます。
取り締まりや見回りを強化すれば、事件がアンダーグラウンド化するのは常識です。

そもそも「家に帰るように」と促されて帰りたくなるような居心地のいい家なのであれば、深夜に外でたむろする必要などないはずです。(続く…

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もちろん、一部の作家の方々などのように「鍵をかけて子どもを外に出さないようにする」とか「親の監視を行き届かせるべき」などというのも論外です。

経済的に苦しかったり、精神的に行き詰まっていたりして、とても子どもことを最優先に考えて生活できる状況ではない親だって、世の中にはたくさんいます。

子どもを家に残して夜通し働いてようやく生計を立てている親、子どもに注ぐエネルギーが無くだれか(何か)に充電してもらわなければとても生きられない親だっているでしょう。

子どものことが最大の関心事である親でいられることは確かに理想かもしれませんが、それをただ親に強要し、できない親を責めたら何かが解決するのでしょうか。


自分の身を守れないのも当然

それより、だれもが正当な賃金を得ることができ安心して子育てできる社会の仕組みをつくったり、うまく子育てができない親のサポートを充実させたりすることが先決なのではないかと思います。

そもそも日本社会そのものが、子どもが安心して親に甘え、子どもらしくわがままを言ったり、欲求をぶつけたりして、きちんとした子ども時代を生きることを保障せず、「早期教育」「早期自立」だの「競争」や「成果」にこだわって、子どもの成長・発達する力をつぶし、「あらゆる命に価値がある」と思う機会を奪っているのです。

親がうまく子育てできなかったり、子どもが自分の身を守ることができないのも当然ではないでしょうか。

サポート感が高い子は危機回避能力が高い

自分の身を守るためには、「自分は大切だ」と思えなければなりません。そんな気持ちを子どもの心の中にはぐくむのは、親をはじめとする身近なおとなのかかわりです。

周囲のおとなが「あなたは宝物だよ」「あなたはとってもかわいいよ」というメッセージをたくさん発してくれた子どもは、自然と「自分には価値がある」と思えるようになります。(続く…

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以前、このブログでご紹介した「周囲の人からのサポート感が高い子どもほど、危機回避能力が高い」との調査結果も思い出してください(大阪教育大学学校危機メンタルサポートセンターの藤田大輔教授が05年に実施した「健康と安全に関する意識調査」)。

思い起こせば、この調査の存在を知り、調査結果についての取材をしたのは寝屋川事件がきっかけでした。

・・・と言ってももちろん、今回の事件ではありません。

2005年2月に大阪府寝屋川市で起きた小学校教職員3人がその学校に恨みを抱いた卒業生に殺傷された事件のことです。

「卒業生の犯行」に騒然

「卒業生による犯行」に社会、とくに学校現場は騒然としました。

事件後、文部科学省は「安全・安心な学校づくりのためのプロジェクトチーム」を設置し、全国の教育委員会は緊急の校長会を開くなどして危機管理マニュアルの見直しや安全管理の強化を各学校へ指示しました。

笑い話のようですが、教育関係者を対象にして相手の動きを封じ込める武具であり捕具である“刺又(さすまた)”を使った侵入者の捕り物訓練などが真剣に行われるようになったことをよく覚えています。

学校現場では来訪者への応対方法を再検討したり、防犯ベルの設置や登下校時以外の校門の施錠を義務付けたり、地域の応援を仰いでのパトロールなどが強化されました。

それまでは開けっ放しが原則で、だれもが出入り自由なのがあたりまえだった地域の小中学校。そこが門を固く閉ざし、入る人を制限し、高い塀に囲まれた閉鎖的な空間に変わる一因ともなった事件でした。(続く…

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あれから10年が経ちました。

今や、固く門戸を閉ざした地域の学校、警察官による安全パトロールや、登下校時に保護者や地域ボランティアが付きそう光景が当たり前になりました。

おそらく若い世代には、開かれた学校の姿やパトロールや付き添いがまったくない子どもの登下校風景など、想像もつかないことでしょう。

おとなの知らないところで・・・

私の子ども時代のようにどこかで道草をくったり、おとなの目を逃れて子どもだけの時間を満喫する子どもは格段に減りました。

そうしておとなが囲い込んできた子どもたちが、今度はおとなが寝静まった真夜中に集い、おとなの知らないネットの世界でつながり始めたのです。

高い壁を築いても無駄

子どもを閉じ込め、どんなに壁や塀を高くしても、門戸を固く閉ざしても、絶対に子どもを守りきることはできません。危険を極力除去し、子どもを危険に近づけないよう指導・管理しても無駄です。

子どもを本当の意味で守りたいのであれば、「子どもが帰りたい」と思える安全な居場所をきちんとつくってあげること。そして「自分は大切だ」と思えるような関係性を身近なおとながちゃんと築いてあげること以外にないのです。

こうした居場所や、おとなとの関係を持つことができたなら、子どもは自然と危険を回避する能力を身に付けることができます。
自分で対処できないこと、危険なことに出会えば、安全な場所へと駆け込んで、信頼できるおとなに守ってもらおうとすることでしょう。

パレウィルソン

 新年初のブログが、すでに1月末日・・・。新しくできた家族の世話のほか、子どもの権利条約関連の講座などが続き、出張などもあってなかなか更新できないままでした。

 子どもの権利条約は、2019年11月で誕生30周年を迎えました。

 さらには2019年2月には国連「子どもの権利委員会」(以下、国連)による第4・5回日本政府審査があり、翌3月には第4・5回国連『総括所見』(第3回までは日本政府が『最終所見』と訳していたものです)が出ています。

 そんなホットな話題が多い子どもの権利条約なのですが、ちまたへの浸透度は誕生時よりも逆に薄れているような気がします。
 ここのところ、講座等を企画してくださった方々に尋ねても、「そんなにタイムリーだったんですね。たまたま今回、企画しただけなんです」とのお返事でした。


悪化する子ども状況

 子どもの権利条約への関心が薄れるのと比例するように、日本の子ども状況は悪化の一途をたどっています。

 もっと言えば、日本社会から「子ども」という存在ーーおとなの力を借りながら、甘えたり、間違えたりという経験を重ねて成長発達していく“おとなへの発展途上の存在”ーーが消し去られてしまったように感じています。

子どもが消えた

勉強中高校生

 思い返せば、私がある週刊誌で『子どもはもういない』という連載をしていたのは2007年から2010年くらいの間でした。

 連載第1回目のテーマは「競わされる子どもたち」。2007年に、43年ぶりに復活した「全国学力・学習状況調査」(全国学力テスト)の問題を取り上げました。
 その後、数年間は、競争の激化が子どもにもたらす悪影響を心配する声も聞かれましたが今ではもう、そんな声もほとんど聞こえません。

 まるで「ずっと前から変わらずやっていました」という雰囲気で、当然のように毎年行われています。

子どもたちの競争
 日本の教育の在り方が、「子どもの成長発達に甚大な被害をもたらしている競争主義的すぎる教育制度を改めよ」との勧告は、全国学力テスト以前にも国連からずっと出ていました。たとえば次のようなものです。

「成長発達の主要な三つの場である家庭、学校、施設のすべてで競争(管理)と暴力、プライバシーの侵害にさらされ、意見表明を奪われ、その結果、発達が歪められている(Developmental Disorder)」(1998年:第1回『最終所見』)

「教育制度の過度に競争的な性格が子どもの肉体的および精神的健康に否定的な影響を及ぼし、子どもが最大限可能なまでに発達することを妨げている」(2004年:第2回『最終所見』)

学校環境から子どもを解放せよ

 ところが今回の勧告はトーンが違います。

「子どもの成長発達に悪い影響を与えいている教育制度を見直せ」というのではなく、「ストレスの多い学校環境(過度に競争的なシステムを含む)から子どもを解放するための措置を強化せよ」(第4・5回『総括所見』パラグラフ39(b))と言っています。

 つまり、国連から見て日本の教育制度・教育環境は、もはや子どもにとって害悪でしかないと判断し、「そんな場所から子どもを救い出せ!」と言い切ったわけです。これだけでもすごい内容ではありませんか。

初めて光が当てられた領域も

勉強する子ども

 さらに今回は、これまで光が当てられることのなかった領域にも目が向けられています。主なものをいくつか挙げれば、次のようなものでしょう。( )の数字は、すべて第4・5回『総括所見』パラグラフの番号を指します。

(1)共同親権(共同養育)を実現するために民法等親子関係の法令を改正せよ(27)
 
(2)児童相談所の一時保護の慣行を廃止せよ(28、29)

(3)あらゆる場面において、いかに小さな体罰も全面的に禁止せよ(24、25)

(4)子どもの第一次的な生育の場である家庭の崩壊を防げ(27、38)

(5)施設での子どもの成長発達の質を確保するために最低基準を設け、十分な予算配置   をせよ(40)

国連

 こうした今までにない、びっくりするほど手厳しい国連からの最新「勧告」からわかること。それは、日本が1994年に子どもの権利条約を批准して以降、日本の子ども状況は悪化の一途をたどってきたということです。

 度重なる国連からの「勧告」を無視し、戦争や飢餓という“古典的”な子どもの権利侵害とはまったく異なる、“経済的に豊かな国だからこそ”の子どもの権利侵害が、ずっと続いてきたということです。

子どもの権利条約からかけ離れた日本社会

 90年代以降、日本政府は、「経済的・軍事的な国際競争に打ち勝つ」として、格差社会を一顧だにせず、社会一丸となって、その戦力たる人材育成に力を注いできました。

「小さなうちから競争に慣れ、勝ち上がる力を付けさせよ」「競争と評価を恐れず、早期に自立できる人間たれ」と、子どもたちのお尻をたたいてきました。
 弱音を吐いたり、不適応を起こしたり、面倒ごとを起こすと「発達障害」だの「人格障害」だのというレッテルを貼り、社会のメインから排除してきました。

 どれもこれも、「幸福、愛情及び理解ある雰囲気のなかで子どもは成長発達すべきである」とする「子どもの権利条約」前文とはかけ離れたことばかりです。

子どもらしく生きられない

国連

 かくして子どもは、子どもらしく甘えたり、間違えたり、おとなの力を頼ったりしながら、のんびりと成長・発達する機会を失いました。
 子どもとして過ごす時間を奪われ、思いや願いを自由に出して、おとなに受け止めてもらうことで達成できるはずの、調和の取れた人格(「子どもの権利条約」前文)へと成長発達することもできなくなりました。

 競争と自己決定・自己責任が当たり前になった社会で生きるおとなたちは、子どもと向き合う精神的・経済的・物理的な余裕を失い、「いち早く競争のなかに投げ込み、過酷な世界を生き延びる力を付けさせるよう鍛えることこそが愛情」と考え、子どもを追い込み続けてきました。

姿を消した子ども

 それでもおとなに頼らねば生き延びられない子どもは、おとなの望みを推測し、その意向をくみ取り、期待に応えようと満身創痍でがんばって来ました。おとなに多くを期待せず、おとなが自分を理解してくれるとは考えもせず、「役立つ人間でなければ価値が無いのだ」と思い込まされて。

 こうして日本社会から子どもという存在が消えたのです。子どもたちは、経済発展のために破壊された人間関係のがれきのしたに埋もれ、見えなくなってしまったのです。

 こんなふうに、がれきの下に埋もれ、消されてしまった日本の子どもたち。そんな子どもたちを蘇らせ、「きちんと成長発達できるように」と、今回、国連は画期的な勧告を日本政府に突きつけました。

 勧告(パラグラフ20a)は、次のように言います。

「子どもが、社会の競争的性質によって子ども期および発達を害されることなく子ども時代を享受できることを確保するための措置をとること」


成長発達権を真っ正面から取り上げた

 実は国連が、子どもの成長発達権を真っ正面から取り上げるのは、今回が初めてです。

 競争的な社会のなかで、子どもという存在が消えてしまうという緊急事態を受け、子どもがおとなとは異なる存在であることを認め、その子どもである時代の特徴が成長発達期であることを承認したのです。

 さらには、この成長発達権を子ども自らが実現するための力として12条意見表明権を認めました(パラグラフ22)。

 つまり、意見表明権を使って、子どもが、自分の思いや願いをありのままに出し、それを身近なおとなに受け止めてもらうことで、自らの成長発達の基盤となる安全基地をつくることこそが、子どもの権利条約の本質であると述べたのです。

 そして、これら成長発達権、意見表明権を保障し、実現するために、包括的な政策(パラグラフ8)、立法(パラグラフ7)、予算(パラグラフ10)による、子どもの解放を迫りました。
 詳しい解説を知りたい方は、ぜひCRC日本ブックレットNO.10『「子どもの権利」に関する第4・5 国連の勧告 全文と解説』をごらんください。

子どもの権利とは「愛されながら大きくなること」

 子どもの権利条約は、その前文で「人格の完全なかつ調和のとれた発達のため、家庭環境の下で、幸福、愛情および理解ある雰囲気のなかで成長すべき」と宣言しています。

 こうした安全基地となるおとなとの関係性が、子どもの自己肯定感・基本的信頼感・共感能力をつくり出し、調和の取れた人格へと成長発達できるからです。

 子どもの権利とは、「愛されながら大きくなること!」。そんな関係性を保障するために、何ができるのか。どんな社会をつくっていくべきなのか。子どもを成長発達できなくしている社会の競争的性質をどうやって改めていくのか。

 今回の勧告は、私たち日本のおとなに問うています。

体罰

約4割のおとなが「しつけのため」として子どもに体罰を行うことを容認していることが、公益社団法人のセーブ・ザ・チルドレン・ジャパンの調査(全国の20歳以上、2万人が回答)でわかりました。
 
その内訳は、「積極的にすべきだ」が0.9%、「必要に応じて」が7.8%、「他に手段がないと思った時」が32.6%で、合計41.3%になります。

前回調査(2017年)から2割減ったものの、けして少ない数字ではありません。

調査から見えてきたことは

そのほか、調査から見えてきたことは以下のようなことでした。

・女性よりも男性の方が容認する割合が高い
・40代~50代の子育て世代(子どもの年齢が高い層)の容認する割合が高い
・「こぶしで殴る」「ものを使ってたたく」「加減せずに頭をたたく」などは、9割以上の人が「決してすべきではない」と回答したが、「頬を平手でたたく」だと79.2%、「お尻をたたく(48.7%)」「手の甲をたたく(51.9%)」は半数近くが容認。

気になる子どもアンケートの結果

また、今回はじめて行った子どもへのアンケート調査の結果を見ると、こんな気になる結果も明らかになりました。

・体罰等を容認する子どもが一定数いて、年齢が上がるにつれて容認度が高まる
・「怒鳴りつける」「だめな子だと言う」「にらみつける」といった子どもの心を傷つける行為をされた子どもは、38.7%。
・体罰等を受けた経験が「ない」と答えた子どもの方が、「自分の意見を身近なおとなに聴いてもらっていると思う」と回答する割合が高かった。

長じて体罰をするおとなに

体罰

体罰を受けていない子どものほうが、「身近なおとなに意見を聴いてもらっている」と回答しているのは、自分が大切にされているという感覚を持てるからでしょう。
逆に言えば、体罰を受けた子どもは自分を肯定的にとらえる機会を持ちにくいということです。

また、年齢が上がるにつれて、体罰を容認する子どもが増えるということは、その子もまた「体罰するおとな」になる可能性が高くなるということにほかなりません。

親に「愛されたい」と願う子どもは、親から大切にしてもらえず、何ら教育的効果の無い体罰を受けなければいけなかったという悲しみや怒りをきちんと感じることができません。

多くの場合は、「自分のせい」と考え、「親が自分を殴るのは自分が悪い子だからだ」「親は自分のために、ここまでして正しいことを教えてくれているんだ」などと、自分を納得させようと努力し、「体罰は良いこと」と信じこもうとします。

心のダメージを追う子ども

もうひとつ付け加えるなら、身体的なダメージよりも、心のダメージの方が、より深刻な影響を及ぼすことはもはや常識なのに、怒鳴りつけられたり、ダメな子だと言われたりした子どもが4割近くに上るというのも、びっくりするような数字です。