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次のMさんは、機械的に暗記し、記憶するだけの授業、与えられたものをこなすことがすべての受験勉強のなかで「ひとつひとつ考えていたら置いていかれる。見放される。疑問をもつことは許されなかった」(Mさん)中学時代についてこう話しました。

「高校に入ることがすべて、先生の評価がすべて、それ以外のものに価値がない。そんな世界に子どもたちは閉じ込められている。その狭い狭い世界の中で、子どもたちは常に誰かと競争し、誰かを蹴落とし見下すことでしか、自分の価値を見出せなくなってしまった。その世界に適応できなかった子どもは簡単に排除され、一度排除されたら元には戻れないと言われてしまう。だから私は考えることをやめた。そうしないとおとなにも先生にも認めてもらえないと思ったから。『自分を消さなきゃ、自分を殺しながらじゃなきゃ、きっと楽には生きていけないんだろう』と思ったから」

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そして、そんな世界をつくり、子どもたちをそのなかに無理やりはめ込もうとするのはいったいだれなの? なぜ、おとなたちは何も言わずにそれを見ているだけなの? と、おとなにこう呼びかけました。
「お願いだから子どもから逃げないで、置いていかないで、子どもと真剣に向き合ってよ。私たち“子ども”は、ここにいるのだから」と。

それぞれの個人的な体験に基づくプレゼンテーションを受け、最後は山下さんがまとめました。3年にも及ぶ「届ける会」の活動を通して確信した「日本社会における子どもの問題」を次のように語ったのです。

日本は経済的に「豊か」と言われています。しかし、ご飯があるのに食べられない拒食症や、体を自ら傷つけるリストカット、胃潰瘍に過呼吸、うつ病など、さまざまな子どもらしからぬ症状に悩まされている子どもが私の周りにもたくさんいます。そうした症状に表れないまでも、自分の声を押し殺して苦しんでいる子どもは数え切れません。

「子どものくせに生意気な」と言うおとなたち。「ぼくらはガマンしてるのに…あなたはワガママだ」と言う他の子どもたち。声をあげれば周りから白い目で見られ、誰にも理解されず、「やっぱり私が変なのかな」と自分を否定しはじめ、自分を殺し、はたまた思考を停止させ、おとな社会に自分を合わせていく子ども。そしてついにはつぶれていく子ども。現在の日本の子どもは、自分の考えを素直に表明し、多様な関係の中で成長発達していくという「子ども期」が奪われてしまっています。

日本の子どもを取り巻く困難な状況は、おとなの子どもに対する意識を変えずして改善されることはありえません。声を奪われ、居場所を奪われた子どもがおとなになり、「私も子どもの時はガマンしたのよ」と次世代の子どもの「子ども期」を奪う。こうした悲しき連鎖を断ち切ることが、日本を子どもが安心して生きることのできる国にする一番の方法であると私たちは考えます。
おとなも子どもいっしょになって子どもの権利条約が実現される世界をつくっていきましょう。なぜならそれは、子どももおとなも、安心して生きることのできる世界だからです。(続く…

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こうした8人の意見は国連「子どもの権利委員会」が審査を終えて日本政府に改善点などを勧告した最終所見にすべて盛り込まれました。

プレゼンテーションを終えて、いえ、プレゼンテーションの間にも、涙で声を詰まらせながら子どもを励まし、暖かく見つめ、抱きしめてくれた委員の方々は、「あなたたちの貴重な意見をけして無駄にはしない」という約束をきちんと守ってくました。

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翌日のパーティでは委員長が、「あなたがたはまだ山の半分しか登っていません。皆さんが国連の勧告を利用して、皆さんの生活の場で子どもの権利により関心を持つ社会、子どもの権利をしっかりと守る社会を作っていって初めて山の頂上に行き着くのです」と激励してくださったほどです。

このようなすばらしい結果を残した子どもたちの影には、子どもたちをしっかり抱えてくれたおとなの存在がありました。保護者、支援者、「届ける会」のおとな組織(「第2回子どもの権利条約 市民・NGO報告書をつくる会」)の事務局の人たち。
そして何より、メンバーが安心して本音でおしゃべりできる場をつくり、子どもが持ってくる日々の小さな、けれども大切な話に耳を傾け、子どもたちがやる気になるまで辛抱強く待ち、励まし続けたおとな・・・Kさんの存在無くしては、「届ける会」の成長はなかったことでしょう。
安心できるおとなとの関係性のなかで子どもは成長発達していくということ。そしてそれこそが子どもの権利条約の最も大切な考え方であるということ。「届ける会」の子どもたちは、そのことを確信させてくれました。

今「届ける会」は新たなメンバーを募り、「子どもの声を国連に届ける会06」として再スタートを切りました。仲間が集まらなかったり、やり方や考え方に違いがあってもめてみたり・・・どうなることやらまだ分かりませんが、興味のある方はぜひ一度アクセスしてみてください。

image070417.jpg 先日、愛知県犬山市に行ってきました。名古屋から急行で30分程度のところにある人口7万5千人ほどのベッドタウンで、国宝の犬山城と8メートルもの巨大な出しが繰り出す犬山祭で有名な町です。

最近、この祭よりも犬山を全国的に有名にした出来事がありました。全国の自治体のなかで犬山だけが、今月24日に行われる文部科学省(文科省)の「全国学力・学習状況調査」(全国学力テスト)への不参加を明らかにしたのです。


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犬山は、1997年から独自の教育改革を行ってきた自治体です。その成果と自信が、今回の不参加の礎となりました。
そのユニークな取り組みは、たびたびメディアでも取り上げられていました。でも、いまひとつ実感がありませんでした。

ところが今回、自分の目で見て、耳で聞いてびっくりしました。「子どもの権利条約に基づいた学校づくりが行われれば、犬山みたいになる」という、子どもがキラキラ輝く教育が行われていたのです。(続く…

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子どもの権利条約は、「一人ひとりが自分らしく自律的に生き、そして他人のこともきちんと考えられるような道徳性を備えた人間になる」ことを目的につくられた条約です。
その目的を達成するため、教育目標(29条)は「人間の尊厳を持った一人ひとりの子どもが、その持てる能力を最大限に発揮できるよう援助すること」。

この理念は、ブログでも書いたように人格の完成を目指していた「前」教育基本法にも通じるものです(教育基本法「改正」で子どもが育つか)。

でも、「具体的にはどんなことをすればいいのかよく分からない」そんな声が聞こえそうです。
そうしたときに「実際に理念を生かしてみたらこうなるよ」と教えてくれるのが、愛知県犬山市の教育です。

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徹底的に競争を排除し、教育委員会が教師を支えることで、教師がゆとりを持って一人ひとりの子どもに向き合うことを可能にし、子ども同士がお互いを受け入れ、思いやる人間性を育て、結果的に全体の学力が底上げを達成したのです。

ちょっと話はそれますが、今、全国的に広がる教育改革の主流は、「子どもや教師、学校同士を競わせることで学力アップや経費削減を狙う」という競争原理に基づくもの。
イギリスのサッチャー政権時代に実施され、すでにイギリスでは「失敗だった」として見直しが始まっている教育改革です。

1980年代後半から改革を行なってきたイギリスでは、学校間・地域間格差が広がり、教師や子どもの心身症などが増えるだけで、全体の学力アップにもつながらないことが分かってきたのです。

こうしたタイプの改革の道具に使われるのが(1)習熟度別授業、(2)学校選択制(学校の統廃合)、(3)一斉学力テストなどです。

本日4月24日に全国の自治体で実施される「全国学力・学習状況調査」(全国学力テスト)も、もちろんイギリスタイプに属するもの。
全国学力テストの実施によって、今まで東京など一部の地域で進められてきた教育改革は確実に全国へと広がっていくはずです。

全国学力テストの問題性を指摘することは後に譲るとして、まずはこのテストへの不参加を貫いた犬山の教育改革をご紹介したいと思います。(続く…

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犬山で、まったくオリジナルの教育改革が始まったのは1997年。牽引役となったのは、その年に教育長に就任した瀬見井久さんでした。
「犬山の子は犬山で育てる」を合い言葉に、すべての子どもの人格形成と学力保障を実現するための改革を進めて来たのです。

瀬見井さんが目指した改革は極めてシンプル。

「私が子どもであったとして、また教師であったとして、『通いたい学校』を追い求めることで、学校を教師自らの手で内側から変えてゆく自己改革」(『全国学力テスト、参加しません。犬山市教育委員会の選択』/明石書店刊・19ページ)です。

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だから何より重んじたのは学校と教師の自立性。教育委員会は「徹底的に学校と教師をサポートする立場」に徹して来ました。教師が「教える喜び」を実感できなければ子どもが「学ぶ喜び」を感じることはできないと考えたのです。

「学ぶ喜び」が実感できる学校づくり

子どもたちが「学ぶ喜び」を実感するめには、競争を煽るような授業・学校はマイナスです。その理由を犬山市教育委員会の方がこんなふうに説明してくれました。

「教育は人と人との関わり。学ぶ喜びを感じるためには、まず人と生きる喜びがなければなりません。それには、『だれかが教えてくれた』とか『一緒に何かをやり遂げた』などの体験が必要です。そしてその積み重ねが人格形成や学力保障に繋がります。競争という外からの刺激や教え込みによっては絶対にできないことです」

そこで始まったのが、学校を協同・共生の場と位置づけて、子どもが豊かな人間関係の中で、「自ら学ぶ力」を育てる取り組みです。

その核となっているのは少人数による「学び合い」の授業。競争主義的な教育改革を行っている自治体で広く採用されている「習熟度別」の少人数授業ではないところがポイントです。

犬山では、給食民営化で確保した約1億5千万円の市費で講師を雇用。段階的に人数を増やし(今年度は六七人)、講師を各学校の事情や要望に応じて加配しました。その結果、現在、市内14の小中学校のほとんどで約30人の少人数学級を実現し、4〜5人のグループ(班)学習も増えました。
もちろん、学級編成の仕方やどんな学習でどんなふうにグループ学習を使うかなどの判断は、すべて現場に委ねられています。(続く…

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image070511.jpg 例えば犬山で合った中学三年生の知子さん(仮名)のクラスでは、班を決めるのは子どもたち自身。出来る子だけ・出来ない子だけで固まらないよう話し合うので、かなり時間をかけて悩みながら決めるそうです。

計算は早いけど、漢字は苦手な子もいます。勉強はイマイチだけれど、みんなの意見をまとめるのが上手な子もいます。お互いのことをよく知らなければ、班決めはできません。
「小学校の頃からみんなバンバン発言することに慣れているから」(知子さん)、議論が白熱することもしばしばだそう。

知子さんは、班学習の効用をこんなふうに話します。

「苦手だった子でも同じ班になると自分との共通点が見えて仲良くなれたりする。クラスで浮いていた子も、班で助け合ってやっていくうちにいつの間にか他の子に合わせられるようになって浮かなくなる」

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知子さんのクラスで班学習がよく行われるのは数学の授業。みんなで問題を解き、出来たら班長が先生に見せます。正解だったら、「あってたよ〜」と言って、分からない子に教えます。

「友達に教えると自分も勉強になるし、教えてもらうときは先生に言われるよりも素直に聞ける。何よりみんなで分かった方が楽しい。分からなくて取り残される子がいるのは可愛そう」(知子さん)

学校は楽しい

クラス全体で行う一斉授業のときも、頭から先生が教えることはまずありません。先生が出したテーマについて、みんな次々と意見を出していきます。
コの字型に机を並べた教室の真ん中に立った先生の役割は、たくさん出てくる意見を整理し、「どうしてそう思うの?」「他の意見は?」など、議論を深めるきっかけをつくるくらいです。

「意見がまとまりかけると、先生がそれをひっくりかえすような言葉をポンって出して、『う〜ん』ってまたみんなで考える。小学校の頃から『間違っちゃいけない』って雰囲気がない中で自由に発言してきたから、本当にたくさん意見が出る」(知子さん)

小学校時代、知子さんのクラスではみんな「自主勉ノート」をつくっていました。読んで字の如く「自主的に勉強してつくったノート」です。
子どもたちは、「明日はきっとこんなテーマで授業をするはず」と予測をたて、本やインターネットなどで調べて「自主勉ノート」にまとめて来ます。いわば、自主的な予習をしてくるのです。そして翌日はそのノートをもとに我先にと競って発言したのだそうです。

「強制されると嫌になるけど自分からする勉強は楽しい。部活は面白いし、友達はいるし、先生は話を聞いてくれる。学校に行くと落ち着く。たぶん『学校が楽しい』と思っている子はいっぱいいる」(知子さん)(続く…

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中学生の子どもを持ち、小学校で本の読み聞かせボランティアをしている母親は、改革が始まってからの子どもたちの変化をこんなふうに語ります。

「学校を休む子が本当に減りました。うちの子なんて夏休みになると『あ〜あ、学校がないからつまらない』と言ったりするんです。読み聞かせをしていても、年々、子どもたちの集中力が上がっているように思います。こちらがびっくりするような鋭い質問をする子も増えました」

「まだちょっと難しいかな?」と思う本を取り上げても、子どもたちは食い入るようなまなざしで真剣に聞き、読み聞かせが終わった後は、盛んに質問するそうです。

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「学び合い」の職員室

基準よりも多くの講師が加配されて行われる少人数の「学び合い」の授業は、子どもたちだけでなく教師にもさまざまな変化をもたらしました。

まず、一人ひとりの子どもに向けられる“おとなの目”が増えたことで、子どもとの会話が増えました。そして、複数のクラスに補助役が入ることによって、学年全体で授業の進め方や子どもの反応などを共有し、話し合う必要が生じました。
会議などのかしこまった席を設けるまでもなく、「こんなやり方をしたら子どもたちがみんな分かったよ」「今日○○ちゃんが元気無かったね」など、教師の間で日常的なやりとりが行われるようになり、職員室が「『学び合い』の職員室」へと変化していきました。

やがて教師の間に、私的なことも自由に話したり、相談し合ったりできる関係が出来てきて、自然と「みんなで一緒にやって行こう」「ゆったり子どもと向き合っていこう」という雰囲気が生まれました。

「教師が教える喜びを感じられるようになれば、子どもも学ぶ喜びを感じられるようになっていくのだということを実感しています」(犬山市の小学校教諭)

教師同士が助け合う

職員室での日々の会話から犬山オリジナルの副教本(小学校の国語・算数・理科)がつくられ、各学校では現場の実態に合った評価カードや教材づくりなども始まりました。教師同士が気軽にお互いの授業を見学し合っては、いい点を共有したり、改善点をアドバイスしあったりするなど、助け合う風土も生まれました。

それは、競争的な教育「改革」を行なっている東京都某区で行なわれていた「教師バトル」(どちらの教師の授業が優れているのかを競い合う)とは180度違うものです。

そんな犬山に教員評価制度はありません。その理由を犬山市教育委員会の方はこう説明します。

「評価が処遇に結びつけられると、本来、子どもに向かうべき教師の視線が管理職に向いてしまう。それは子どもにとってマイナスです」(続く…

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数字でも、10年かけた改革の成果が現れてきています。
学級崩壊や不登校は減少傾向。市が小中学校教師全員に行なった調査では、小学校で80.5%、中学校で60.7%の教師が「学習に対する興味や関心のある子が増えた」と答え、不登校の割合は全国の小学生が0.36%に対し、犬山は0.12%と三分の一の低さです。

さらに少人数の「学び合い」は、最近話題になっている小一問題(新1年生が「先生の話を聞けない」、「落ち着いて席に座っていられない」などで授業が成り立たない問題)への効果も期待できそうです。
昨年、初めて試験的に小学校1年生に少人数授業を導入した小学校の教師は言います。

「『先生といっぱい話せる』『先生が自分を見ていてくれる』と、思いの外、子どもたちが落ち着いたんです」

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学力もアップ

集中力や授業態度が落ち着き、自分から学ぶようになれば、当然、学力もアップします。

全国の多くの小中学校で実施している全国標準学力検査の結果を五段階評価で表したところ、全国に比べ犬山では1と2が少なく3と4が多いとの結果が出ました。
そう、出来る子と出来ない子の差が開き、学力の二極化が進んでいると言われる昨今、犬山では全体の学力のボトムアップが起こっているのです。

「勉強面では『〇〇ちゃんに教えてもらったからきっとできる』という自信が、勉強が不得意な子も積極的に取り組む姿勢につながりました。生活面では、たとえば暴力を振るった子がいたときに他の子が『そういうことはいけないよ』と注意し、注意された子が『そうだね』と受け入れられる素地をつくりました。そんな子どもたちを見ていて『勉強しなさい』『仲良くしなさい』と教え込む今までの指導がいかに無駄なことだったのかよく分かりました」(小学校の教師)

出来る子も出来ない子も対等になることができる「学び合い」は、子どもたちの生活のあらゆる場面に大きなプラスの影響を与えています。

犬山の教育を知るには

子ども一人ひとりが主役になれる、一人ひとりが学ぶ喜びを実感できる犬山の教育。それを支えているのは、「子どもと教師の豊かな人間関係」です。犬山には、「おとなとの安心、安全、そして自由な関係性が、その子どもが持つ個性や能力を最大限に引き出す」という子どもの権利条約の精神が生きています。

そんな犬山の教育実践を詳しく知りたい方は『全国学力テスト、参加しません。犬山市教育委員会の選択』(明石書店)を手に取ることをお勧めします。

また、事前の問い合わせや申し込みはは必要ですが、犬山市教育委員会では見学等の受け入れも積極的に行なっています。興味のある方はぜひ一度、足を運んでいただければと思っています。

「子どもに権利なんか与えたらワガママになるだけ」
「子どもはおとなに従っていればいいんだ」
「何もできない半人前の分際で生意気を言うな!」

最近、そんな声があちこちから聞こえます。子どもの権利条約など風前の灯火です。

私は、この世でもっとも罪深いことのひとつに「親が子どもの人生を自分のもののように支配すること」が挙げられると思っていますが、そうした考えを後押しする社会文化的な構造が、日本を席巻しているように思えてなりません。

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日本政府が政府報告書を提出

ちょっとかたい話になりますが、4月22日に政府(外務省)が日本の子ども状況に関する第三回目の政府報告書を2年遅れで国連「子どもの権利委員会」に提出しました。

提出期限から大幅に遅れたことはさておき、今までの経過の中に「子どもはおとなの付属物」のように考える人々の姿がちらつくのです。

今回の政府報告書提出について大きな特徴は、ともに子どもの権利条約を広める活動をしてきた「第三回 子どもの権利条約 市民・NGO報告書をつくる会」ほかの(NGO)にいっさいの情報提供がなく、話し合う余地もなかったということです。

第二回目の政府報告書審査に基づき、国連から、日本政府への意見や勧告が出された2004年以来、NGO側は第三回目の政府報告書の提出スケジュールや、報告書に盛り込む内容についての意見交換会を持ちたいとたびたび申し入れしてきました。

しかし、4月の半ばになっても外務省は「提出時期は未定」を繰り返すばかり。あろうことか、5月に入ってから提出に関する懇談会をNGO側と持つ約束をしていました。振り返ってみれば、このときすでに報告書はできあがっていたのです。

ブログを読んでいる方には、「それってそんなに大騒ぎすることなの?」と不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれませんので、少し説明をしたいと思います。

政府の責務

日本のように「子どもの権利条約を守る」ことを決めた国の政府は、科学的、歴史的、世界的事実に基づき、子どもの成長発達を促すために定められた子どもの権利条約を生かし、それぞれの国の子ども状況を良くしていく努力をしなければなりません。
その一環として政府は5年ごとに、子どもの権利条約から見てどんな施策や政策がなされたか、もしくはなされなかったのか。また、子どもや子どもをめぐる環境がどんなふうになっており、どのような改善策を取ったのかなどを国連に報告する義務を負っています。

そして、できるだけ正確な状況を報告するため、条約は政府に対し、市民やNGOと協力することを求めています。福祉や保育、教育や親の動労環境など、それぞれの分野に詳しいNGOメンバーの意見は、政府には分からない事実を含んでいるからです。

過去二回の政府報告書提出に際しては、事前に、その内容に何をどう盛り込むかについて政府とNGOは話し合いを持ってきました。その結果が政府報告書にどの程度、反映されたかどうかは別にして、少なくとも政府側に「一般の人たちの意見も聞こう」という姿勢はありました。

政府とNGOの関係の質が低下

ところが三回目になる今回は、そうした話し合いの機会は用意されませんでした。さらに、前回までのように提出時期の見通しについての情報提供もまったくありませんでした。

1994年に日本が子どもの権利条約を批准してから、少しずつですが政府とNGOの関係は良くなっていました。年に数回の懇談会を持ち、NGOは率直な意見や疑問をぶつけるということもできるようになっていました。
ところが、ここ数年、政府とNGOとの関係の質は、明らかに低下しています。(続く…

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政府報告書の中身も大問題です。

たとえば、この間の子どもに関するもっとも重要な変化であった教育基本法の「改正」については「今まで同様、個人の尊厳を中心にしている」と簡単に記しただけ。報告書を提出にした国に対して、国連が改善点や努力点を示す勧告(日本には過去2回の勧告が出されています)については「前回の報告書を参照せよ」との回答が4割を占めています。

すでに提出した報告書に対する勧告への回答が「かつて提出した報告書を見よ」なのですから、本当にびっくりです。
NGOの代表は「これでは『条約実施の意思はない。現状を追随していく』と宣言しているようなもの」とあきれ顔でした。

また、女子差別撤廃条約など、ほかの人権条約の国連への提出も軒並み遅れています。そしてその内容も「女性の雇用環境は改善されてきている」など、現実否定もはなはだしいものです。

なぜ、こんなことになっているのでしょうか?

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条約反対派の意見も尊重

寝耳に水の報告書提出を受け、NGOの代表たちが外務省を訪れ、ことの経緯を質したところ、担当課長は明確な回答を避けながら、以下のような言葉を繰り返したそうです。

「いろいろNGOと平等に付き合わざるを得ないことも考慮して欲しい。海外ではNGOの立場が一致しているが、日本ではそうはなっていない。条約に反対するNGOとも平等に付き合う必要がある」

条約は、憲法に準ずる法律です。批准したからには、守る義務があります。人権条約の窓口機関である外務省にも、当然、「条約に賛成するNGOと協力してその実現に取り組む」責務があります。

ところが、担当課長の弁明、そして政府報告書提出の経緯を見るとそうはなっていません。

政治的な力の影響?

背景には、政治的な力が働いているように感じます。

ここ数年、「子どもの思いや願いなど無視してもいいんだ」と言わんばかりの道徳や規範を子どもに植え付ける法律や仕組みが整備されています。子どもの苦しさの象徴である不登校や暴力、自傷行為などは力で押さえつけようという人々が、大きな力を持ってきています。

こうした人々の中には、「子どもの権利条約を撤廃せよ」「報告書を提出するな」などと、公然と発言する人々もいます。
そして、「子どもに権利など与えたら、しつけができなくなってワガママになり、家族が崩壊する」との考え方がまかり通っています。(続く…