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子どもたちは、いつでも周囲から浮かぬよう、けっして嫌われぬよう、その場、その場で“求められるキャラ”を演じることで、かろうじて友達関係を維持しています。本音も、本当の自分も出せないから、いつでも孤独で寂しいのです。

そんな子どもにとってネットは、つかのまの出会いや人とのつながり、暇つぶしの機会を与えてくる魔法のツール。それが今や片手に収まるサイズになったのですから、手放せなくなるのは当然です。

空っぽの中身を埋めるために

子どもたちの多くが、自分の「本当の気持ち」にはふたをし、見せかけの明るさや、派手やかな服装ではしゃいでいます。
空っぽの中身を埋め合わせるため、自分を飾らないわけにはいかないのです。

いきいきとした感情を感じられないから、危険な遊びやドラッグ、お酒にも手を出しがちです。
それらは、幻想にすぎませんが、“一瞬の高揚”をもたらしてくれるからです。

人生のすべてを搾取

今、子どもたちは、人間関係も、自分らしい感情さえも搾取されて生きています。これでは、自我など育ちようがありませんし、アイデンティティだって確立できません。いつまでたっても、おとなになって生きていくための足下はぐらついたままです。

それでは、他人のことも考えながら、自分らしく自分の人生を主体的に生きることなどできようはずがありません。
ただだれかに従って生きるだけの従属的な人間になったり、怖くて社会に出ることができない、いわゆる引きこもりだとかニートと呼ばれる若者が増えるのも当然です。

こうして私たちの社会は、子どもの人生のすべてを搾取しているのです。

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今、自分の思いや願いなどをぶつけてくる10代はめったにいません。とくに、怒りを表出する子が減ったように思えます。

当然、腹を立てるべき状況におかれても、「だって、仕方ないじゃん」という雰囲気です。
いえ、いじめ防止対策推進法は子どもを救う?(3)(4)」でも書いたように、腹を立てるべき状況に自分が置かれていることさえ、気づかない場合もあるのでしょう。

「怒り」は大切な感情

「怒り」は大切な感情です。自尊心が傷ついたときにわきおこり、自分が脅かされていることを教えてくれます。この「怒り」があるからこそ、人は自分を守り、危険に満ちた世の中を安全に生きのびることができるのです。

そんな身を守る機能を持つ「怒り」の源泉をたどると、乳幼児の「他者を求める叫び」に行きつきます。

数多い哺乳類の中でも、とりわけ未熟なまま産まれてくる人は、たえず自分を気にかけ、守ってくれる養育者(多くの場合は母親)がいなければ生きていくことができません。だから養育者から離された乳幼児は、泣き叫んで養育者を呼びます。ひとり置かれることは飢えて死ぬことを意味しますから、必死に自らのニーズを伝え、それを満たしてくれるよう訴えます。

泣き叫ぶ乳幼児の心には、恐怖と悲しみを伴う「なぜ自分をほうっておくんだ!」という「怒り」があり、自分の身を脅かす感情を「解消して欲しい」と養育者に求めているのです。

「怒り」は他者との関係維持を求める欲求

IFFの斎藤学顧問は、乳幼児の「怒り」について次のように書いています。

「それは『母親環境』の供給維持という欲求が阻害されたことへの抗議を意味し、それが再び供与される期待という意味を持つ。つまり『怒り』は自己保全を求める欲求の表現ということになる。(略)少なくとも原初段階の『怒り』は、それ自体『他者との関係の維持を求める欲求』とみなされよう。最近の神経心理学的発達研究では乳幼児期(2歳以下)の身体的トラウマやネグレクトが右脳前頭前野皮質の発達を妨げ、それによるストレス抑制反応を鈍化させ、後年のストレス感受性昂進につながることが指摘されている(S.chore.A.N.)が、こうした危機状況下にある乳幼児が示すことのできる最も適切な表現こそ『怒り』なのである」(『アディクションと家族』21(4号)、365ページ「『怒り』と『憎しみ』について」)(続く…

8月はじめ、全国の児童相談所が2013年度に対応した児童虐待の件数は7万件を突破したというニュースがありました。(速報値)これで、23年連続で過去最多を更新したことになります。

衝撃的な二つの事件

昨年から今年にかけては、虐待された子どもの白骨化した遺体が見つかるという衝撃的な事件もあり、日本社会に大きな衝撃を与えました。

ひとつは2013年4月に、神奈川県横浜市の雑木林から女の子(当時6歳)の遺体が発見され、「虐待死させたうえ死体を埋めた」として母親と同居していた男性が逮捕された事件。
もうひとつは、2014年5月、神奈川県厚木市のアパートで、男の子(当時5歳)が白骨化した遺体で見つかり、「十分な食事を与えず男児を衰弱死させた」と父親が逮捕される事件です。

女の子については、遺体発見の前年に横浜市中央児童相談所が「虐待の疑いがある」との通告を受けていました。また、男の子は乳幼児検診を受けておらず、3歳時には自宅近くを裸足でうろついているところを厚木児童相談所に一時保護されていました。

そして、どちらの子どもも小学校に通っていませんでした。

厚生労働省が実態把握へ

虐待防止に向け、厚生労働省は2014年5月1日現在で学校に通っていなかったり、乳幼児検診を受けていなかったりする子どもの実態把握に乗り出し、全国の市区町村に保護者や子どもと連絡がとれない18歳未満の子どもの数を報告するよう求めました。

さらに、『朝日新聞』の独自調査によると、少なくとも30都道府県で1588人の子どもの所在が不明だといいます(『朝日新聞』2014年7月29日)。また、厚生労働省は10年度から12年度の3年間で親が子どもを置き去りにしたケースが667件あったとも発表しました。

虐待は本当に増えた?

本当に虐待が増えているのでしょうか? 「注目されるようになったから、対応件数が増えただけ」という見方をする人もいます。また、「以前は『しつけ』と思われて、見過ごされていたものまでが虐待とみなされるようになったから」という意見も聞きます。(続く…

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虐待は増えているのか、そうでないのか。実際はどうなのでしょう。
興味深い話があります。

虐待を受けたために、養育者との間に健全な絆(愛着関係)を築けなかった子どもや、親を失って施設などで暮らす子どもたちの調査・研究から知られるようになった愛着障害という診断名があります。

子どもは、養育者との間に愛着関係を結ぶことで、養育者を安全基地とし、探索行動をし、認知を広げ、人との良い関係も築けるようになります。ごく簡単に言うと、愛着障害とは、それがそれがうまくできない、障害された状態を指します。

不安定型愛着は三分の一にのぼる

ところが、実の親に育てられた場合も、かなり高い率で愛着の問題が認められることがわかってきました。

『シック・マザー 心を病んだ母親とその子どもたち』(岡田尊司著・筑摩選書)によると、なんと安定型の愛着を示すのは三分の二に過ぎず、残りの三分の一の子どもが不安定型の愛着を示すというのです(48ページ)。

さらに同書では、先天的に不安定型愛着になりやすい気質の子どもが存在するのではないかという仮説のもとに一卵性双生児と二卵性双生児で、二人ともが不安定型愛着である割合を比べた調査も紹介し、「不安定型愛着には、もともと子どもが持っているものよりも、環境要因の関与が大きい」という結論も載せています。

つまり、先天的なものではなく、養育者の不適切なかかわりが大きく影響しているということです。

こうした調査研究や、私自身が臨床や取材の場でお会いする子どもたちを見ていると、「虐待や不適切な養育によって、きちんとした愛着関係を結べない子どもがたくさんいる」ということ。そして、そうした子どもたちは「少なくとも減ってはいない」という印象を受けざるをえません。

ストレス社会は虐待を増加させる

それも仕方がありません。ストレスの多い社会になれば、虐待の危険性が上がることは、今までの虐待に関する心理学的な調査・研究でも指摘されています。
だれもが否が応でも競争のレールに乗せられ、常にその能力に応じて評価、序列化される社会で、福祉は後退し、自分で自分の身を守らねばならない状況がどんどんひどくなっています。

経済的には豊かであっても、生き残りをかけて常に走り続けなければならない世の中で、親のストレスはどれほど大きいかは想像に難くないでしょう。

こうした子どもにとって危機的な状況があるなか、重要な役割を果たすのが、児童相談所です。

児童相談所は、子どもの命と成長・発達を守る最後の砦とも呼ぶべき場所です。しかし、前回のブログに紹介した事件のように、どうもうまく機能できていない現実があります。

その大きな原因の一つは、人手不足です。(続く…

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今から数年前に、社会的養護の現実を取材したことがあります。
そのとき分かったのは、ひとりの児童相談所職員(児相)が抱えるケースの多さです。100件を超えていることもざらで、多いと130ものケースを担当していました。

そのほとんどは、危険な虐待が疑われるケースです。法律上は、18歳未満の子どもに関するあらゆる相談に応じるのが児相の役目ですが、実際には、「生きるか、死ぬか」のようなケースが優先され、それ以外のケースは後回し、もしくは手つかずの状態になってしまいます。

「だからしょうがない」とは言いませんが、その大変さは察してあまりあるものがあります。

職員の専門性や力量の問題

ひとり一人の児相職員の専門性や力量の問題もあります。

自治体によっては、大学等で社会福祉や心理などを学んだ専門知識を持った者を職員として採用しているところもありますが、まったくはたけ違いの部署から児相へと、平気で異動させる自治体もあります。

たとえば、つい先日まで水道だの土木だの戸籍だのを扱っていた職員が、急に児相へと配置され、まったく知らない子どもの福祉に携わるのです。うまく対応できるはずがありません。

通り一遍の研修をわずかにやっただけで、いったいどれだけの専門性が身につくというのでしょうか。

頭で理解するだけではダメ

でも、大学等で福祉や心理を学んでいれば「力量のある専門家」というわけではありません。

おとなから見れば問題行動としか取れないある子どもの言動でも、実際には子どもがうまく言語化できないニーズの訴えであることがよくあります。
こうしたニーズをうまくくみ取るためには、職員の側に「この子はいったい、この問題行動を通して何を伝えたいのだろう」と考え、寄り添おうとする姿勢が必要です。

ところが「問題行動は押さえ込むべき」とか「子どもはおとなの指導に従うべき」などと考えてしまう職員も少なくはないようです。(続く…

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だから子どもの気持ちは無視し、事実関係もろくに確かめず、親から引き離すなんていう悲劇も生まれます。

次のパラグラフ以下でご紹介するのは子どもの権利条約に基づく国連NGO・DCI日本発行の『子どもの権利モニター』(120号)に寄せられた、ある高校生の女の子のお話です。

女の子は、とある理由から「虐待を受けた」と友達に嘘をつきました。年ごとの女の子なら、親に反抗したかったり、友達をびっくりさせるような冗談を言ってみたりするものです。

ところがその嘘が一人歩きし、児相によって一時保護され、いくら「嘘だった」と言っても認めてもらえず、大事な高校受験期を母親から引き離されて過ごし、中学校の卒業式にも出られなくなってしまいました。

刑務所のような一時保護所

一時保護の説明も一切ありませんでした。
「お母さんは?」と尋ねても児相の人は、何も答えず、服のサイズを聞かれました。「家に帰りたい」と言うと、「ここに来たらしばらくは帰れない」との言葉が返っきました。

私は、泣き叫びました。心の中は、怒りや悲しみでぐちゃぐちゃでした。「虐待されたと言ったのは嘘です!」とも言いましたが、流されてしまいました。
児相の人は「そんなに泣きたいなら、ここで泣いてろ!」と、だれもいない部屋に私を押し込みました。その日から、6ヶ月におよぶ一時保護所での強制生活が始まりました。

子どもたちはみんな、刑務所にいる囚人のような扱いでした。
日誌を書き終わると、一切の私語は禁止。食事中や歯みがき中などの私語も禁じられていました。
いちばん怖かったのは「お一人様」という罰です。ルールを破ると、話したり遊んだりすることを禁止され、自由時間を一人で過ごす「お一人様」を命じられました。その罰を受けている子に話しかけると、その子も「お一人様」の罰を受けることになるため、「お一人様」の子が、周囲に話しかけると「話しかけないで!」と冷たくされます。
「お一人様」は、短くて3日、長いときには一月も続きます。私はいつも「お一人様」におびえていました。

初日から寝る前に飲まされていた薬も嫌でした。翌日、必ず気持ち悪くなるからです。でも、「飲みたくない」と言っも、「決まりだから飲んで。止めるには、保健師さんに聞かないといけないけど、今はいないから」と、強制的に飲まされました。(続く…

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ここまで読まれた方の中には、「児童相談所(児相)がまさかそんなことをするの?!」と、にわかには信じられない方も多いのではないでしょうか。

実は私もそうでした。

私が知っている限り、児童相談所や子ども家庭支援センターなど、虐待問題に関わる職員は、どちらかというと「積極的に親子を引き離すようなことはしない」という印象をもっていました。
カウンセラーの立場で「しばらくの間、分離した方がよい」とか「祖父母等、親権者以外の養育者が育てる方がよい」などと進言しても、聞き入れてもらえることはめったにありません。

その背景にはもちろん、今回のブログ冒頭で書いたような児相の人手不足という問題もありますし、事実誤認だった場合の責任を考えると、なかなか強硬な態度に出られないということもあるでしょう。

親子分離をタブー視していたり、「できる限り行政の手は借りず、自己責任で解決して欲しい」というような雰囲気も感じられました。

そんな「親子分離に消極的」という今までの児相の問題を覆すように、女の子の話は次のように続きます。

嘘ばかりの児相

お母さんへの手紙も、児相の人が言う通りに書くよう、言われました。たとえば、私はそんなことを思ってもいなかったのに「ママがアパートを借りてくれたら、家に帰れるのに」と書かされました。私が自宅に戻った後、この件をお母さんが質したところ、「そんなことは言ってないのに、自分で考えて書いたみたいですね」と児相側は言ったそうです。

ずっと「お母さんに電話しても通じないし、通じてもお母さんは混乱していて話しが進まない」と言われていたことも嘘でした。お母さんは何度も児相に電話をし、一生懸命に話し合おうとしてくれていました。それなのに、児相側は「今はそういう段階ではない」と、突っぱね、お母さんが「どうしたら帰してもらえますか?」と尋ねても、「そちらでお考えください」と言うだけだったそうです。私に「お母さんは何もしてくれない」と思わせ、お母さんを嫌いになるよう情報操作をしていたとしか思えません。

私はずっと家に帰りたかった。施設になんか行きたくないし、ましてや刑務所のような一時保護所になど、二度と行きたくありません。私は大好きなお母さんと一緒に暮らしたいんです。(続く…

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大前提として、虐待のケースが後を絶たないことは否定しません。たくさんのケースを抱えて走り回る児相職員の方がいるのも知っています。繰り返しになりますが、何よりもこの国の福祉行政の貧しさが大問題だということも分かっています。

しかしそれでも、先のブログで紹介した女子高校生の声などを聴くと、「職員の対応も見直すべき点があったのではないか」と思うことがあります。

拘置所で母親が語ったこと

たとえば今年の夏、2013年4月に横浜市の雑木林で白骨遺体となって見つかった女の子の母親が拘置所で記者に語った話の記事(『朝日新聞』2014年7月29日)を読みました。
記事では、児童相談所の職員ふたりが訪問したときの様子や母親の心境をこう記していました。

「『最初から疑ってきた』。母子の服装や室内を見てメモを取る職員に被告(母親)は反発を覚えたという。
さらに態度を硬化させたのが、自身の生い立ちに質問が集中したことだった。『虐待を受けたことがないか、やたらと聞かれた』。虐待を受けた人は我が子を虐待することがあるーー後にそう聞いたが、触れられたくない過去を初対面で聞かれて不信感を持った。『でたらめばかり答えた』」

女の子が亡くなったのは、この9日後でした。

虐待親に寄り添う視点が必要

そもそも初動が遅すぎた、という問題があるでしょう。すでに訪問したときは、緊急避難としての危機介入をすべきときに来ていたという見方もできます。

そうしたタイミングを見逃さず、適切に対応するには、経験や勘、何より、「まず虐待せざるを得ない親の側に寄り添ってものごとを見る」視点が欠かせません。
この母親の証言を読む限り、そうした視点を職員は持っていなかったのではないかと思えてしまいます。(続く…

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ただ一方的に情報を取ろうとすれば、人は身を守ろうと構えます。疑ってかかられているならなおのこと。理解してくれない相手に真実を話す気になどなりません。最初から疑ってかかる相手に対して「本心を語れ」という方がどだい無理なのです。

本心を語って欲しいのなら、追い詰められている当事者の痛みを理解し、それを分かち合おうとする姿勢が必要です。
それが信頼関係を生み、当事者がひとりで抱え込んでいる困難をだれかに預けることができるようになります。虐待ケースであれば、結果的に子どもの命を救うことにつながるのです。

もし、そうした時間をかける余裕が無いほど危機的であると判断するならば、緊急に一時保護すべきです。子どもの命と人生を守る児相には、そうした状況判断ができる力量ある専門家が配置されなければならないのではないでしょうか。

「問題ある親」が問題? 

児童相談所関係者や行政の方に、虐待親との対応について尋ねたことがあります。

たとえばある方は「厳しい状況で職員はよくやっている」と言い、また別の方たちは個々の職員の力量差を認めつつも、「話し合いが成立しない親もいる」とか「親の側にも問題がある」などと話していました。

確かにそうでしょう。

そもそも何も問題を抱えていない親であるなら、子どもを虐待することなどあり得ません。
話し合うことが難しい親がいることも、知っています。その親自身が、あまりに過酷な環境で生きてきた(生きている)ため、子どもの立場に立てなかったり、発達の途上にある子どもという存在の特徴が理解できなかったりすることはめずらしくありません。

責任は職員の側にある

でも、だからといって「きちんと話し合えないのは親のせい」と、言い切ってしまっていいのでしょうか。

少なくとも対峙する職員側はプロとして子どもの福祉のために、親と向き合っているはずです。
話合いが成立しない親や、やりとりが難しい親が相手だとしても、きちんと話合いを行う責任は、職員の側にあるはずです。

子どもの成長・発達のための国際的な約束である子どもの権利条約は前文で「家族が、社会の基礎的な集団として、並びに家族のすべての構成員とくに子どもの成長および福祉のための自然な環境として、社会においてその責任を十分に引き受けることができるよう必要な保護および援助を与えられるべき」と、しっかりと謳っています。(続く…

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ところが実際には、前にご紹介した高校生の女の子のようなことが起きています。

そしてそれは、びっくりするほどのレアケースでも無いようです。ここ1年あまりの間に子どもの権利のための国連NGO・DCI日本のオンブズマンには、「児相が子どもを連れて行ってしまい、会わせてもらえない」という相談が6件ほど寄せられています。

相談者のひとりであるある母親は、神奈川県内の児相により、2010年に4歳(当時)だった長女と引き離されました。

元夫からのDVが原因で抑うつ的になっていたため精神薬を多用し、その影響で死にたい気持ちが増すなどの症状があったことを受け、精神科医が「子どもの世話ができる状態ではない」と判断したことが、引き離された理由でした。

面会わずか1度

その後、この母親は自力で減薬して症状を乗り越えましたが、児相は「母子家庭で経済的に不安定」「長女の具合が悪い」と面会すらこばみました。そして母親が子どもを引き取るために就職し、再婚すると、「養父は虐待するもの」「偽装結婚」などと言い出したというのです。
分離された後、面会できたのは分離から1年半後のわずか1回、それも5分程度でした。

幼くして引き離された長女は、母親と認識できず、面会中の表情は硬く、一言も声を発しない緘黙状態だったと言います。一緒に暮らしていたときは、年相応の発達を遂げ、おむつも外れていたのに、小学校3年生の今も外出時にはおむつが必要で、「感情の起伏が激しいのは発達障害」と、投薬治療も勧められたそうです。

安全基地の喪失は負の影響を及ぼす

子どもの権利条約の理念に立てば、たとえ虐待する親だったとしても、そこから子どもを引き離せばよいということにはなりません。

もちろん、一時的には引き離さねばならない危機的なケースがあるのは承知しています。しかし、たとえそうしたケースであっても、その親子、とくに子どもにとって最も理想的な再統合というかたちをさぐり、それに向けての援助が不可欠なはずです。

親という安全基地を持てないまま成長すれば、その負の影響が子どもの人生や人格に大きな影を落とします。ときに発達障害とも思える症状を呈することがあるという事実は、子ども福祉や心理の世界で働いていれば、今や常識です。

児相が本当にすべきこと

児相がすべきことは、ただ親から子どもを取り上げるのではなく、まず虐待の事実を証拠によって認定し、子どもの安全を確保したうえで、親がきちんと子どもを育てられるよう、個々の事情やニーズに応じた細やかな対話と支援を行うことです。

その努力をせず、権限を振りかざして親子を断絶し、保身に走って過ちを隠蔽するようなことは、子どもの福祉を最優先すべき児相が、その役割を放棄したと言わざるを得ません。