安易な「がんばれ」の声かけは、被災者をよけいに苦しめます。

「早く元気になりたい」
「応援してくれる人に報いたい」
「いつまでも落ち込む姿を見せたくない」

多くの被災者の方はそう思っているはずです。そんな方に「がんばれ!」と呼びかければ、たとえどんなに辛い心境にあっても「がんばる!」と応えようとしてしまいます。

大変そうにしているおとなの前では、子どもが自分の大変さを絶対に出せないのと同じです。

いちばん心配なのは子どもたち

「がんばれ!」の影響がいちばん心配なのは、子どもたちです。

先ほども述べたように、子どもはおとなよりもずっと敏感に周囲の期待や希望を読み取り、それに添えるよう振る舞います。
おとなに愛され、世話をされなければ生きていけない「子ども」という存在が取らざるを得ない、当然の防衛策です。

そんな子どもという存在を考えたとき、被災地で展開されている「とにかく早く、通常通りの学校運営をしなければ」という動きが、とても気になります。

たとえば、土壌の放射能汚染が心配される中、福島県では多く学校がほぼ予定通りに入学式や始業式を行い、暫定的に上げられた国の安全基準を満たしているから「安全なんだ」という姿勢を崩さない自治体も少なくありません。

宮城県は例年通り4月1日付けで教職員の人事異動を発表し、原則、4月半ばまでには被害を受けた公立小中学校の再開を行うという考えを示しました。宮城県では300人近い子どもが死亡し、未だ行方不明の子も多くいます。亡くなった教師も、行方不明の教師もいます。助かった子どもや教師の中にも、家族や大事な人を失ったり、行方不明のままになっていたりする人もいます。

それなのに、通常通りの人事異動。そして教師の手が足りなければ「ひとりの教職員に前任校と新任校を兼務させる」という宮城県教育委員会の方針は、乱暴に思えます。

しかし、教育関係者ではない多くおとなたちにも「他の地域の子どもと学力差がつかないように」と、その姿勢を後押しする雰囲気が感じられます。

こうした状況について、宮城県に住むある高校生は、こんなふうに話していました。

「あまりにも子どもの目線がなくて悲しくなった。
小中学校の多くはいまだに避難所になっているし、親が行方不明の子もいる。

いつになったら普通の生活に戻れるのか目処も立たない中で、担任の先生まで異動してしまったら子どもはいったいだれに気持ちを受け止めてもらえるのか。
『スクールカウンセラーが心のケアにあたる』と言うけど、私なら初対面のカウンセラーよりも、よく知っている先生に話を聞いてもらいたい。

もし自分が小学生だったら、終業式も、離任式もないまま、先生といきなり会えなくなったら、すごく悲しいと思う」

「日常に戻る」ことは大切だけど

「日常に戻る」ことは、確かに大切なことです。
授業や部活を楽しみにしている子どもは多いでしょうし、大好きな先生と話ができたり、友達と思いっきり遊ぶことができる環境は子どもに力を与えてくれるでしょう。
何事もなかったときのように、学校に通い、学び、家でくつろぐ・・・そんな毎日を熱望している子どもはいっぱいいると思います。

しかしそれには、まずインフラをある程度整え、子どもが気持ちを整理できるような環境を(人間関係)を用意しなければなりません。

たとえば、ふかふかのお布団に眠ったり、プライバシーが保護された空間で暮らせたり、できたての食べ物を食べられたり、落ち着いて勉強できる場所が確保できたりて、「ここは安全なんだ」と感じられるような信頼できるおとなが身近にいて、はじめて可能になることではないでしょうか。

少なくともこうした基盤がまったくないうちから、被災していない地域の時間や都合に合わせて「日常生活に戻る」ように子どもたちを「がんばらせる」ことが、「日常に戻る」ことではないはずです。(続く…

確かに、元気な子どもの存在は私たちおとなにパワーを与えてくれます。子どもの笑顔は気持ち和ませてくれますし、楽しそうに遊ぶ姿は未来を感じさせてくれます。震災で、原発事故で、失いがちな希望という“ろうそく”に火を点してくれます。
だからついつい子どもに向かって「がんばろうね!」と声をかけてしまいたくなります。

でも、ちょっと待ってください。
子どもは「おとなのために」存在しているわけではありません。子どもはおとなを元気にするためにいるわけではありません。


===
子どもにしょんぼりしたおとなを慰めたり、前を向けないおとなを勇気づけるなどという“仕事”をさせてはいけないのです。

おとなに心配をかけないよう振る舞ったり、おとなの面倒をみたり、気分を軽くしたり、おとな同士のいざこざの緩衝材になったりすることーー子どもが「子どもとして生きられない環境」で育つことーーが、その子がおとなになってからも、なかなか下ろすことのできない十字架を背負わせてしまうことは、アルコール依存をはじめとするさまざまな依存症やDVなどの家庭で育った子どもの研究ですでに明らかになっていることです。

順番から言えば、まずはおとなの側が、子どもが日々を安心して生きられるよう、楽しくて楽しくてしょうがない気持ちでいられるよう、自らの可能性を最大限まで伸ばせるよう、子どもの成長や発達に必要な環境を提供しなければならないはずです。

エネルギーあふれる子どもの姿は、そうした努力をしたおとながもらえる“ご褒美”であって、けっして「がんばれ!」という安易な声かけの結果であってはならないのです。

子どもはもう十分がんばっている

東京都内で子育て支援に関わる女性は、阪神淡路大震災を経験したという保育士から聞いた話として、こんなエピソードを教えてくれました。

「地震のあと、やっと登園してきた子に『頑張ろうね』と保育士が声をかけたら、子どもは固まってしまった。その様子を見ていた別のおとなが『もう十分がんばった。もうがんばらなくていいよ。もう大丈夫だよ』と、抱きしめたら子どもは大泣きをはじめたそうです」

子どももおとなも、安心できる場が無ければ、辛さや悲しみを表現できません。巨大な震災と原発事故は、子どもにとてつもない無力感も与えています。
生き残った者が感じずにいられない「自分だけが助かってしまった」との自責の念や「自分が悪い子だから、こんなひどいことが起きた」という罪悪感に悩む子も少なくないでしょう。

そんな不安と恐怖に耐え、子どもたちはもう十分に、十二分に、がんばっているのです。それなのに「がんばれ」と声をかけられれば「まだがんばりが足りないんだ」と、子どもは自分の気持ちにふたをするしかなくなってしまいます。

辛さや悲しみを表現できないのは危険

被災地の子どもの笑顔や親を亡くした子どもが黙々と避難所の手伝いをする姿などを感動的に取り上げるメディアも多々あります。こうした話を美談として語りたがるおとなも大勢います。
少しでも早く涙をぬぐい、もしくは涙を隠して、前を向いて進むことはいいことだと信じて疑わない人たちもたくさんいます。

でも、実は辛さや悲しみを十分に表現できないということは、とても危険なことなのです。(続く…

戦争で親を亡くした子どもの研究から、「愛着(アタッチメント)」という「特定の養育者との情緒的な結びつき」の大切さを述べた児童精神科医にジョン・ボウルビィという人がいます。

ボウルビィは愛着対象(養育者/多くの場合は親)を失った子どもは、
(1)抗議(親が戻って来ることを期待して泣き叫んだりする)
(2)絶望(親が戻ってこない現実を認め、激しい絶望と失意を感じる)
(3)情緒的な離脱(親に代わる者の発見と結合)
という三段階を経て回復すると述べました。これを「悲哀の過程」といいます。

喪失体験に共通する理論

現在、この「悲哀の過程」についての理論は、近親者を失うという体験だけでなく、死に直面した人間の心理、身体機能の喪失、環境の変化に伴う反応などなど、さまざまな喪失体験に共通するものと理解されています。

さらに、大切な対象の喪失にともなってこのような段階的な過程を必要とするのは子どもだけではなく、私たちおとなにも同様だということも、分かっています。

永遠に一緒にいられるはずだと思っていた大好きな人を失う失恋体験を想像していただければ、その気持ちの変化は容易に想像できることでしょう。

封印したはずの感情が噴出することも

大事なものを亡くした人が当然たどる心理過程を考えたとき、今、日本中にあふれる「がんばれ!」の声が、周囲の期待を感じ取り、それに沿うよう振る舞おうとする子どもに向かって発せられたとき、いかに有害かが分かるでしょう。

かけがえのない“だれか”を失い、家や土地を失い、生活を失い、地震や津波、原発事故という恐怖に震える子どもたちに向かって「いつまでもクヨクヨせず、早く前を向け!」というメッセージがいかに残酷なものになるのかは、想像に難くありません。

おとなが善意で発するプラスの声かけは、子どもが「今、感じるべき感情」にふたをし、抗議や絶望の過程をきちんと味わう時間を奪いかねません。それでは辛い出来事をいつまでも過去のものにできず、将来、ふとした拍子に、思いもよらぬかたちで封印したはずの感情が噴出してしまうことにもなります。

「心のケア」の中身について考えたい

今、これまで以上に「心のケア」の大切さが叫ばれています。

これだけの大災害に見舞われたのですから、それは当然のことです。
でも、その中身についてはもう一度、立ち止まって考えてみる必要があると強く思います。

少なくとも、本当の「心のケア」とは、喪失体験をした当事者の思いや時間を無視して「がんばれ」と励ますことではないはずです。
さらに踏み込んで言えば、むやみやたらとセラピーをやったり、なんでもかんでも「心のケアとして解決する」というような種類のものでもないはずです。

つい最近、日本心理臨床学会がまとめた「『心のケア』による二次被害防止ガイドライン」でも、「安心感のない場で行うアートセラピーによって、けって子どもの心の傷が深くなる可能性もある」と指摘されています(『朝日新聞』2011年6月10日)。(続く…

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今回の震災以後に限ったことではありませんが、「心のケア」が、まるで「すべての問題を解決できる魔法の手段」であるかのように喧伝されることに、とても違和感を覚えています。

かつて「スクールカウンセラーの配置」が決まったときにも、

「なぜ毎日多くの時間子どもと接する教員を増やすのではなく、月に数回、限られた時間内でしか子どもに関われないカウンセラーを派遣するのか?」

と疑問に思いました。

このブログの2回目で紹介した高校生が言うとおり、ごく普通に考えれば、ほとんどの子どもは「初対面のカウンセラーよりも、よく知っている先生に話を聞いてもらいたい」と思うはずだからです。

減っている正規の教員

実は今、正規の教員は減っています。

たとえば「子どもが笑う大阪」を掲げて当選した橋下徹氏が知事を務める大阪府では、昨年度の小中学校正規教員採用数1215人に対し、非正規教員は2003人です。

2002年度から非正規教員を細切れに任用してきた広島県では、2専門教科の教員を確保できなかったり、105日間にわたって年度途中での代替者が見つからない事態に陥ったことがありました。

教育の低予算化のあおりを受け、もともとは正規教員が病欠したときの穴埋めなどに任用されてきた非正規教員が、ていのいい「コマ」に使われています。
そう、一般企業同様、公教育においても「使い捨て」で「安上がり」の非正規が増えているのです。

生計を立てるのも大変な非正規教員

余談になりますが、非正規教員ともなると生活は大変です。
生計を立てるために複数の学校や塾をかけもちしたり、アルバイトをすることを強いられます。
時給制で、授業時間以外の教材準備、テストの作成・採点などは無給。
採用期間は学校側の都合で左右され、夏休みなどには収入がゼロになるのですから当然です。
中には生活保護を受給している非正規教員もいると聞きました。

それでなくとも正規教員も、人事考課や数値目標で縛られ、他の教員と競争させられ、事務仕事を激増させられていますから、「子どものことなどかまっていられない」状況。
当然、子どもの気持ちを受け止めたり、うまく言葉にできない思いを聴き取ったりする余裕などありません。

教員が子どもの話も聴けない環境をつくっておきながら、「『心のケア』はスクールカウンセラーに」と言うのですから、それが本当に子どものためを考えての施策なのかどうか疑わずにはいられません。

せめて「すべての学校にスクールカウンセラーを常駐させる」とでも言うのであれば、「特別なニーズを必要とする保護者と子どもへの対応」と思うこともできますが、ほど遠い現状があることはみなさんご存じのことでしょう。

これと同じことが、震災後は「『心のケア』の名目で行われているのではないか?」と思ってしまうのは、私の考えすぎなのでしょうか。(続く…

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たとえば、「毎晩、津波にのみ込まれる夢を見て眠れない」とか「亡くなった母親のことが頭から離れず、涙が止まらない」というのであれば、それは「心の問題」と考えていいかもしれません。

しかし「いつ自宅に戻るか分からない、先の見えない生活が不安で眠れない」とか「放射能を逃れ、仕事のある夫を福島に残して母親と子どもだけで避難した。以来、気分が塞ぎがち」などというケースはどうでしょうか?

これも同じように「心の問題」と考え、カウンセリングを受けたり、投薬治療をすれば済む話なのでしょうか?

ちょっとした疑問

そんなことを考えていたら、ふと、以前にもブログで紹介した作家・雨宮処凜さんの『排除の空気に唾を吐け』(講談社現代新書)のあるページに書いてあったことが浮かびました。

同書(38・39ページ)には、「すべての人が生きづらい時代」として、16分にひとりが自殺していて自殺の原因で最も多いのは『健康問題』で三分の1以上をしめ、その半数近くが「うつ病」であること。全自殺者の58%が無職で20代・30代の死因の1位は自殺であることなどが記されています。

そんなことが書かれた同ページで、雨宮さんは次のような疑問を投げかけています。

「働いても働いても食べていけないワーキングプアで生活が苦しく、それでうつ病になった場合などはどこに分類されるのだろう? また、先に書いた多重債務の女性(借金の返済が明日に迫っていることが引き金になって突然暴れ、救急病棟に運び込まれた/37ページ)がもし自殺してしまったら、それは借金が原因? それとも借金が原因でなった精神障害?」
※( )内は加筆しました。

「心のケア」が不要になることも

今、目の前にいるその方の状態だけを見れば、確かに「うつ病」であったり、「精神障害」であったりするかもしれません。

でも、そもそもの原因は、その人のまったく個人的な「心の問題」と言ってしまっていいのでしょうか。逆に言えば、その人を「心の問題」として治療できれば、根本的に問題を解決したことになるのでしょうか。

私にはとても疑問です。

何しろ、今日、冒頭で示したような「心の問題」として考えられるケースであっても、不安定な生活、孤立した環境などが改善されれば、症状が劇的に改善することもあります。

「現実の問題」が解決したことによって、「心の問題」など無くなってしまうことだってあり得ます。(続く…

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被災した方々の「現実の問題」の解決には、莫大なお金がかかります。

行方の分からなくなっている肉親を探したり、可能な限り今までと同じ生活を保てるようにしたり、無くした仕事や家、残ったローンの心配をしないようにしたり、将来につながる見通しのある生活を保障したりしなければならないのですから、当然です。

しかも一人ひとりまったく違うニーズを把握してからでないとなかなか前には進めません。
立ち直りまでの生活に膨大な時間がかかる方もおられるでしょう。
何重もの、金銭的、人的支えが必要な場合もあると思います。

安上がりな「心のケア」

数々の手間がかかり、時間がかかり、費用のかかる「現実の問題」に取り組むことに比べ、「心の専門家」を派遣して行う「心のケア」は、安上がりで、とても手っ取り早いことでしょう。
しかも一見すると、ちゃんと被災者一人ひとりと向き合っているようにも見えますから、多くの人が納得する行為でもあります。

こうしたやり方は、たとえば競争・格差社会をつくっておきながら「自殺者が増えたから『心のケア』をする」と言うこと。
そんな社会で子育てがうまくできない親を増やし、圧倒的に人手が足りない乳児院や児童養護施設の職員の配置状況はそのままにして、「入所する子どもが増え、大変なケースが増えたから」と心理職を置くこと。
前に述べたように正規教員を減らしてスクールカウンセラーを導入したりすること。

・・・そうした手法と、とても似ています。
本質的な部分には手をつけないでおきながら、あたかも「当事者のことを考えている」ような雰囲気がするところも同じです。

本質を見極めることが大切

社会全体の動き、ものごとの本質を見つめることは大切です。それをしておかないと、私たちカウンセラーは知らず知らずのうちに「現実の問題」を封じ込め、安上がりな「心のケア」に手を貸す要員になってしまうことにもなり得ます。

何しろカウンセラーはついつい「苦しんでいる人にどうか少しでも楽になってほしい」と、何かしら働きかけたくなります。自分が学んできた心理学や療法、臨床経験が「人の役に立つものであって欲しい」と切に願っています。それはもう、身につけた習性と言ってしまってもよいかもしれません。

しかし、もしそれがまったくの善意だとしても、結果として「現実の問題」を「心の問題」にすり替えてしまうおそれがあるのだとしたら、それは罪深いことです。

そんなことにならないようにするためには、日本社会の現状をしっかりと見つめた上で、多くの犠牲を出した、いえ、今も出し続けている東日本大震災と向き合い、カウンセラーにできること、やるべきことをきちんと整理し、被災者の方々を苦しめている根本的な原因を取り除くことのできる「心のケア」に取り組まなければならないのではないでしょうか。

それはときに、「カウンセラーだからこそ」の苦言であったりするかもしれません。(続く…

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考えてみれば、私たちカウンセラーは、たとえ震災がなくても、原発事故がなくても、「非常事態」の中でどうにかこうにか生きている人たちと常にお会いしています。

とくに子どもにいたっては、毎日が「緊急事態」という中で、がんばって、がんばって、かろうじて生き延びているケースが少なくありません。

戦争や災害はなくても

安定や秩序からほど遠い暴力にあふれた家庭、期待に応えられないともらえない条件付きの愛、「あなたのため」という理不尽な要求で子どもを追い込む親、情緒的な関わりがまったく無い家族、少しでも早く「自立しろ」と尻を叩くおとな・・・。

戦後、日本がひた走ってきた経済性と合理性を追求する社会・・・だれもが競争に駆り立てられ、幼い頃から「負け組」と「勝ち組」に選別され、どんな不条理も「自己責任」として個人に背負わされる社会・・・で生じた、子どもが「子どもらしく、おとなに頼り、愛されながら生きられない現実」をあげればキリがありません。

たとえ戦争や災害はなくても、子どもが安心して、「自分は愛されている」と思って、ありのままの自分を受け入れてもらって、明日につながる今を確信して、ぬくぬくと暮らせる環境は、今の日本にはほとんどありません。

もう、がんばらなくてもいい!

今、日本で暮らすだれもが、先の見えない不安や孤独に脅かされて生きています。
その結果として、うつや不安障害、人格障害などと診断されるような状況にあります。

そんなたくさんの方の苦しみを日々、共有させていただいているカウンセラーだからこそ言えること。

それは「今こそ、演技をして元気を装ったり、強迫的にがんばったり、何かの役に立つ人間であろうと努力しなければ生きられない社会は変えていくべきだ!」ということです。

大惨事をもたらした経済最優先の社会、心や体がぼろぼろになるほどがんばり抜かないと生きていけない社会に“復興”するのではなく、すべての命ある存在が大切にされる社会、だれもが日常的に安心して思いや願いを出し、何もできない、ふがいない存在であっても「そんなあなたが大好きだよ!」と、受け止め合うことができる「“新しい”社会をつくっていこう!」と呼びかけることです。

未曾有の震災と原発事故を体験した今だからこそ、声を大にして言いたいと思います。

「がんばらないと生きていけない社会はもういらない!」と!!

禅の言葉に「啐啄同時」(そったくどうじ)というものがあるそうです。

卵の中のひな鳥が殻を破って外へ出ようとするとき、殻を内側からコツコツとつつくことを「啐」といい、それに呼応して親鳥が外から殻をコツコツとつつくことを「啄」といいます。

実はこの「啄」のタイミングは非常に微妙で、早くても、遅くても、ひなどりの命を危うくします。
だから、ひな鳥の「外に出たい」という願いが、ちゃんと親鳥に通じ、ひとつの生命が誕生する「機を得て両者相応じる得難い好機」のことを「啐啄同時」と呼ぶのだとか。

私がこの「啐啄」という言葉を知ったのは、愛媛県にある地酒屋さんがつくった「啐啄」という日本酒をいただいたことがきっかけでした。

どんな意味が想像も付かないネーミングだったので調べてみたところ、冒頭に書いたひな鳥と親鳥の話と分かったのです。

「啐啄」の実現は難しい

なぜ、年の瀬も押し迫った時期に、わざわざこんな話を書いたのかと言うと、この「啐啄」という言葉ほど、見事に子どもの成長・発達をうながすおとなの関わりを端的に現している言葉はないと思うからです。

そして、今年一年を振り返ったときに、今の日本社会では、やろうと思ってもなかなかできない、ほんとうに難しい子どもとの関わり方であるとも思ったからです。

「啐啄」を実現するためには、親(おとな)の側が辛抱強くなければなりません。「いまか」「いまか」と待ち続ける忍耐力だけでなく、わずかな音にも耳を澄ませ、かすかな振動にも応えられるよう、常に子どもに注意を向けていなければなりません。
あくまでも、中心は子どもです。親の都合で、親のタイミングや希望に合わせてのかかわりは御法度です。

「啐啄」に通じる考え

考えてみれば、「啐啄」に通じる考えは、ほかにもいろいろあります。

たとえば夏目漱石は『夢十夜』「第六夜」で鎌倉時代の有名な仏師・運慶を登場させ、次のように語らせています。

「眉や鼻をノミでつくるんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋うまっているのを、ノミと槌の力で掘り出すまでだ」

つまり、「仏師の意図するように仏像をつくりあげていくのではなく、木の中に埋まっている『外に出たい』という意を汲んで、その通り掘り出していくのだ」ということでしょう。(続く…

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こうした「声なきもの」、「うまく言葉を発することができないもの」の声に耳を澄ませ、相手の思いを形にすることで、見事なものをつくりあげるという思想や行いは、たくさんあります。

自然を征服するのではなく、自然と共に歩み、自然の知恵を活かし、自然をうまく利用することで、豊かさを享受してきた日本には数多く残されています。

穴太衆の教え

これは最近、『歴史秘話ヒストリア』(NHK)という番組で放送していたことの受け売りなのですが、「頑丈な石垣をつくる極意」というのは、「石をけっして削ることなく、自然のままの形でくみ上げること」なんだそうです。

番組では、そうした自然の石を積み上げて行く技術を持つ穴太衆(あのうしゅう)という技術集団に伝わる「穴太衆の教え」を、こう紹介していました。

「石の声を聞き、石の行きたい所へ持って行け」

石の声を聞き分ける職人が積み上げた石垣は実験の結果、コンクリートブロックよりもはるかに強い強度を持ち、新名神高速道路(滋賀県)の一部にも採用されているとか。

規格化された石の脆弱さ

その後、江戸時代になると、石を切ったり、削ったり技術が進み、四角く加工した石を積む技術が発達すると、規格化された石が使われるようになったそうです。

ところが、規格化された石は、扱いやすく簡単に高く積み上げることができる代わりに、時間がたつと「孕みだし」という、石が外側にふくらむ現象が起きてしまうため、定期的な修復作業が必要になるとのこと。

その原因の一つと言われているのは、隙間無く石が積まれてしまっているため、内部に雨水がたまってしまうことだそうです。
一方、自然の石を積み上げた、隙間だらけの安土城の石垣は、430年たった今も孕みだしは起きていません。(続く…

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なんだか、人間と同じではありませんか?

おとなや社会の都合に合わせて、“よい子”をつくる子育ては、一見、手っ取り早く、合理的で、理想の子どもができあがりそうな感じがします。

私たちおとなは、「いまの社会の規格に合わない部分は削り落とし、そぎ落としてしまえば、ちゃんと社会に適応したおとなになれるはず」・・・そんなふうに思いがちです。

でも、目の前に広がる子どもたちの現実を見ていると、どうも、そううまくはいかなさそうです。

今年も、いじめやスクールカースト、ネット依存などさまざまな子どもたちの問題をこのブログでは、書いてきました。

つい最近も、隙間やあそびの部分が無く、規格に合わせることだけをさせられた結果、社会に出て行こうことができないニートと呼ばれる若者が23年には60万人に達したという厚生労働省の発表もありました(若者雇用関連データ)。

なかなかできない時代だからこそ

特定秘密保護法も可決され、日本はどんどん窮屈な、あそびのない、子育てに向かない社会になっていきそうです。

そんな中で、せめて、身近にいる子どもとの関係は、まずは子どもができる方法で発する声を聞き、それに応える「啐啄」のようでありたいと思います。

心に誓っていなければ、なかなかできそうにない時代だからこそ、あえて1年の締めくくりに、その言葉をもう一度、思い出しておきたいと思いました。

みなさん、どうぞよい新年をお迎えください。

どうか来年は、お互いに自由に思いを出し合い、それを受け止められるような関係が、もっと楽にできる世の中になればと願っています。