2020年のオリンピック・パラリンビックでは、大会が募集する「大会ボランティア」に、東京都や埼玉県、横浜師などの関連自治体が募集する「都市ボランティア」まで含めると、募集人数は12万人を超え、国内史上最大規模だそうです(『東京新聞』2018年9月22日)。

 大会ボランティアの条件は、「1日8時間、10日以上の活動」ですから、仕事をしている人には、かなり難しい条件です。しかも本番の前には、研修やら講習への参加も義務づけられていますから、よほどの熱意と職場環境に恵まれなければ厳しいと言えるでしょう。

 実際、全国に先駆けて今年3月から募集を開始した静岡県は、5月末の締め切り時点で必要人数の700人に達せず、募集期間を延長したということです(同紙)。

期待される学生ボランティア

東京オリンピック そこで期待されるのが、大学生などの学生ボランティアですが、果たしてどの程度の応募が見込めるのか。前回までのブログ(「猶予期間(モラトリアム)のない子どもたち」)でも書いたように、今の大学生は、時間的にも金銭的にも、本当に余裕がありません。

「滞在費はすべて自己負担」という条件では、やりたいと思っても、できない人も多いのではないでしょうか。

 前回のブログでご紹介した、文部科学省とスポーツ庁が一緒になって全国の大学と高等専門学校に出した通知は、こうした事情を見越してのことなのかもしれません。

本当にボランティア?

 こうやって省庁が、授業や行事予定をオリンピック・パラリンビックの開催の支障にならないようにするよう通知をしたり、「オリンピック・パラリンビックのボランティアをすれば授業に出た場合と同等に見なすように」と通知の中で述べ、それによって学生ボランティアが増えたとしたら、それは本当にボランティアと呼べるものなのでしょうか。

 通知によって、学生が指導教官などに「大学の主旨に賛同してボランティアを務めるように」と言われることは考えられないでしょうか。
 本当はやりたくないのに、さまざまなしがらみの中で応募せざるを得ない状況になってしまうことだって、あり得そうです。

 私が子ども関連の取材をよくしていた頃、「奉仕活動をすると内申点が稼げるから」とか「ボランティア活動があるから参加しなくちゃいけなくて忙しい」という話を耳にしたことがあります。

 思えば、その世代がすでに大学生や大学院生になっているはずです。

 今さら言うことではありませんが、ボランティアは「自発的」で、本人の「自由意志」であることが重要なはずです。

「だれかに言われたから」 
「やらないと不利益を被りそうだから」
 ・・・そんな思いで臨むのであれば、それはすでにvoluntary(ボランタリー)ではありません。

あまのじゃくが顔を出す

 そもそも「Jリーグができたとたんにサッカー観戦に行かなくなった」り、「大好きだった小劇団がメジャーになってしまったら熱が冷めてしまう」ような、あまのじゃくの私には、「そんなに多くの人がボランティアを希望するほど、オリンピック・パラリンピック開催を待ち望んでいるの?」という疑問があります。

 テレビなどを見ていると、「目の前でオリンピック・パラリンピックを見られるなんて!」「2020年が待ち遠しい!」などと言う人がよく登場します。でも、残念ながら私の周囲にはそういう人は見かけません。

福島の知人のメール

 どちらかというとオリンピック・パラリンピックの開催によって、交通渋滞が起きたり、仕事に支障が出ることを心配していたり、「その予算で別なことをしたほうがいい」と考えている人の方が多数派です。

 東京でのオリンピック・パラリンピック開催決定のニュースが駆け巡るなか、福島県内の浜通りに住む知人が送ってきた次のメールも、印象深く私の記憶に残っています。

「オリンピックに向けた復興に沸く日本のなかで、このまま福島は取り残され、忘れられていくのだろう」

「復興五輪」の理念を掲げて

 今回の東京オリンピック・パラリンピックは「復興五輪」の理念を掲げ、「東京に誘致を」のかけ声ではじまりました。

 そのため、聖火リレーは福島県がスタート地点となり、大会組織員会と東京都が9月4日に開いた海外メディア向けのレセプションでは、宮城の牛タンや福島の野菜など、東日本大震災の被災3県の食材を使った料理が振る舞われたそうです(復興五輪を海外メディアに発信 レセプションで被災地食材の料理(産経新聞))。

 それらが「悪いこと」だとは言いません。だけど聖火リレーを走らせれば、その土地の食材を使って安全性をアピールすれば、それで「復興五輪」の理念をまっとうしたことになるのでしょうか。

 こうした取り組みをすれば、前回ご紹介した知人のように「自分たちは忘れ去れていくのだ」と思っていた被災地・被災者の方々も、「そうではなくかった」と、思えるのでしょうか。

 ・・・どうも怪しい気がします。
私には、被災地や被災者を置き去りにして、東京周辺だけがはしゃいでいるような気がしてしまいます。もっと言えば震災をオリンピック・パラリンピック誘致に利用し、東京周辺だけが発展し、一部の人たちだけが大きな利益を手にしようとしているような、そんな嫌な感じがぬぐい去れません。

被災地の本音

 その問いに答えてくれる記事(「復興五輪」という言葉に、拭いきれない違和感が湧いてくる)を見つけました。ジャーナリストの森田浩之さんが書いたものです。森田さんは河北新報(本社・仙台)が被災地の42市町村長を対象に行ったアンケートの結果をもとに、次のように書いています。

「この調査によれば『オリンピックは復興に役立つか』との問いに、54%が『何とも言えない』を選択した。『復興五輪の理念は明確だと思うか』という問いには、71%が『何とも言えない』と答えた。『何とも言えない』は強い『NO』ではないものの、実名入りで報じられる記事のアンケートで7割に達したことには、首長たちの強い不満と戸惑いの表れと言えるだろう。
 自由記述欄への回答も手厳しい。
〈(復興五輪という)位置付けは素晴らしいが、具体化の取り組みが見えない〉──阿部秀保・東松島市長(当時)
〈東京で開催するのは大歓迎だが、復興五輪だという意識は全くない〉──戸羽太・陸前高田市長
〈五輪は被災地だけで行われるものではない〉──戸田公明・大船渡市長
 控えめに解釈しても、被災地の首長たちは復興五輪という言葉をまともに受け取っていない。東京オリンピックが開かれることで自分たちの自治体にプラスの要因があるなどとは、ほとんど信じていないように思える」

なぜ東京が被災地の「代表」?

 残念ながら、もとになった河北新報のアンケートはすでに見れなくなっていますが、森田さんのおかげで“当事者”の本音が垣間見えます。

 同記事にある「そもそもなぜ東京が、多くの犠牲があった被災地を『代表』できるのか」という森田さんの疑問には、とても同感できます。

テレビゲーム

 国立成育医療研究センターが行っている「コロナ×こどもアンケート」の第3回目の結果報告書が発表されました。
 全国の子ども2,111名、保護者8,565名、計10,676名から回答があった第3回目の報告の主な内容は以下のようなものです。

①(勉強以外で)テレビやスマホ、ゲームなどを見る時間が1日2時間以上のこどもは42%で、2020年1月と比べて41%が増えた。
②直近一週間で学校に行きたくないことが「ときどき」あったのは19%、「たいてい」が5%、「いつも」が7%。
③「家族が、コロナに関連して家での生活を変える理由をわかりやすく教えてくれるか」への回答は、「全くない」が10%、「少しだけ」が12%。
④「教師がコロナによる生活の変化に関連した考えを(あなたが)話せるように、質問したり確かめたりしてくれるか」への回答は、「全くない」が10%、「少しだけ」が12%。
⑤何らかのストレス反応がみられたこどもは、全体の73%。


増えた不登校

 日本教職員組合の調査(8月末から9月中旬、全国の小中高校や特別支援学校計1152校から回答を得た)でも、22.7%が不登校や保健室登校などの子どもが「増えた」と回答したそう。

 自由記述では「生活リズムが乱れているのか、遅刻も増えている」「体調不良を訴える子どもが増えた」との声が寄せられたと言います(『東京新聞』20年10月23日)。

一斉休校の代償
 
休校

 当たり前だった日常が様変わりしたのですから、子どもたちがストレスを抱えないはずはありません。

 なかでもはやり、何ら根拠のないまま断行された一斉休校の影響は大きかったのではないでしょうか。

東京新聞 TOKYO Web』(20年11月1日)は、「子どもの感染場所は家庭が約8割で、学校や保育園・幼稚園は約1割だった」という、日本小児科学会の調査を報じました。「今春の小中学校の休校時期だけでなく、学校が再開していた8月以降も同じ傾向で、休校の効果には限界がある」(同記事)そうです。

 同記事では、休校明けに子どもたちの体力が落ちたとして、体育の授業で走るとすぐに疲れてしまう子ども、自身の50メートル走のタイムの遅さに驚く子ども、授業中の集中力低下、休校期間中にゲーム漬けになったり、登校しぶりや親子げんかの増加についての指摘がありました。

 調査を担当した聖マリアンナ医科大の勝田友博講師が「小児は新型コロナに感染しにくいという報告がある。一斉休校はデメリットも多く、今後は慎重に判断するべきだ」との見解を語っていました。

在宅イライラ

 一斉休校の遅れを取り戻すため、夏休みが短縮された一方、文化祭や体育祭などのイベントはほぼ中止、もしくは省略化されまた。
 毎日にメリハリは無く、楽しみもない。それなのに、「勉強だけはしろ」と言われるのですから、子どもたちが息切れを起こしても不思議はありません。

 親が家にいる時間が増えたことも、良かったのか悪かったのか。「家族団らんが増えた」という声も聞きましたが、そんないい家族ばかりではないでしょう。

 仕事を失って経済的に困窮したり、テレワークで「家が職場」になったため、家族にもその環境に適応するよう強いたり、顔を合わせる時間が増えた分だけ夫婦間、家族間の諍いが増えた家族も少なくはなさそうです。


大学生も大変

遠隔授業

 パソコンとにらめっこの生活が続く、大学生も大変です。

 家に閉じこもってアルバイトにもほとんど行けず、課題をこなす毎日は苦痛以外の何ものでもないでしょう。

 ある大学1年生は、「毎週、何十本もの課題をこなし、レポートに追われる日々。これがあんなにも憧れ、待ち望んでいた大学生活なのかと思うとやりきれない」と話していました。
 
 また別の大学生は「ずーっと家にいてパソコンに向かっているだけだから運動不足でおなかも空かない。1日中ブルーライトを浴びているから夜も眠れない」との嘆きも聞きました。

 極めて不健康な状態です。

子どもは環境に適応しようとする

 しかしそんな大変な状況下でも、子どもはどうにか頑張っておとなに合わせ、環境に適応しようとします。今年の夏頃、友人が「電車の中で見た」と話してくれた印象的なエピソードがあります。

「若い夫婦が小学校低学年くらいの長女とベビーカーに乗った乳児を連れていたが、乳児が泣いたとたん、長女が『泣くならマスクしなよ!』と乳児に注意していた」というのです。

「泣く」という行為は、乳児にとって今できる唯一の意思表明の方法です。
 今できるせいいっぱいのやり方で、「今、自分は何らかの危機的状況を感じている」「不安を取り除いてほしい」と訴えているのです。

 そうした訴えに対し、「まず、規範を守れ! そうしなければ助けてやらない」と、平気で言えてしまう子ども。他者の痛みに共感するのではなく、痛みを出すことにさえ条件を付けようとする子ども。

 ・・・そうした子どもが、いつしか珍しくなくなってしまうのではないかと戦慄を覚えました。

コロナのなかだからこそ

 子どもは密着した関係のなかでしか健康には育ちません。

 他者と距離を取り、顔を隠し、接触を避ける生活が、なるべく触れ合わない、「新しい日常」が、子どもから奪うものはおとなが思っている以上に大きいのではないでしょうか。

 子どもはいい意味でも、悪い意味でも柔軟です。そのことをわたしたちおとながしっかりと自覚し、「コロナのなかで、いかに濃密な関係を築いていくのか」を真剣に考えなければ取り返しがつかないことになりそうです。

能登半島地震で被災した方々に、心よりお悔やみ申し上げます。いまだインフラも復旧せず、悪天候のなか大変な生活を強いられていることに思いを馳せると心が苦しくなります。
被災地には私のクライアントさんもおられ、どうされていることか日々、案じております。

そんなある日、「褒められて育った子が災害ボランティアをすぐにやめる理由」 (『文春オンライン』 2024年1月17日) というタイトルのネットニュースが目に留まりました。

褒められて育った子は「打たれ強く、自身の感情や気持ちに正直」 であることが多いので、
ボランティアを始めても「『無理をしない』という選択肢を容易に選べるということなのか?」と、読んでみたところ、 ちょっと違うようでした。

数日で心折れて戻る学生

筆者は山本一郎氏。プロフィールを見ると作家で投資家。介護や子ども、投資に関して研究していて、甲信越にある大学や施設と関係が深いそうです。

その縁で、40名ほどの学生を能登半島地震の被災地へと送り出す機会があったとのこと。
記事によると、そんな学生さんのうち、数日で心が折れ、戻って来てしまう学生が複数いたというのです。

確かに、被災地の状況は過酷です。

場所によっては、インフラは破壊され、食料も水もトイレもない。燃料も底をつく中で悪天候に見舞われるということもあったでしょう。記事によると、当たり前ではありますが、被災された方々や現地に派遣された職員の方々は言葉少なで、いら立っていることもあったようです。

「底の薄いスニーカーで出向いて、釘を踏み抜いて帰ってきた」 というケースなども報告されていて、「役に立ちたい」という学生さんたちの思いと「甘くない現実」の大きなギャップを感じました。

同情と善意だけでは無理

山本氏は「学びとはそういうところにあるのだ」、「公務員を目指す子もいるので住民のために指名を果たす体験ができるのは大事なこと」と肯定的にとらえてもいます。が、他方、「日頃、人格円満で、褒められて育った自信満々の子たちが、現地入りして割と早期からストレスを溜めた現地の人たちとのコミュニケーションに行き詰まり、帰ってきてしまう現象が今回、特に多い」との懸念を示しています。

そして、「同情と善意だけでは、被災地の理不尽な環境を乗り越えられるだけの覚悟も準備もできていなかった」と述べています。

「同情と善意だけではどうにもならない」

当たり前です。
同情とは、「他者の痛みを『その人のもの』として外側から眺めて感じる辛さや悲しみ」などのこと。 誤解を恐れずに言うなら、「他人事」としてと眺めることです。

「他者の痛みを 『自分のこと』として感じて(もしくは感じようとして) 共にあろうとする」共感とは全く違います。

また、善意は、それを行う側の視点で「良いと思うこと」ですから、同情して(他人事として)いる限り、 相手の望みとズレてしまうことは、往々にして起こります。

「善意の押し付け」が、独りよがりで迷惑なものになりがちだということは、みなさんも経験があるのではないでしょうか。


善意の押し付けの根底にある承認欲求

一般に、善意の押し売りをする人は「だれかの役に立ちたい」という思いがあり、その根底には「認められたい」という承認欲求があります。そして、承認欲求の強さは、「認められなさ」の裏返しです。

これもまた、キツイ表現になってしまいますが、そうした人が満たしたいと思っているのは、困っている相手の欲求ではなく、自分自身の欲求です。

褒められ、承認された子の特徴

褒められ、承認されて育った子は、こうした承認欲求とは真逆のところにいます。「だれも認めてくれなくても、自分がいいと思うことをする」ことができます。

「そのままで認められる」経験は、共感の経験に通じますから、独りよがりにならず、他者の痛みに共感する力も育っています。
自分を犠牲にするのではなく、自分のできる範囲で、自分を大切にしながら、他者に救いの手を差し伸べることができます。

愛され、認められた体験は、IQのように数値で測ることができない非認知能力 (人間力、心の力などと呼ばれるもの)を高めるので、コミュニケーション力や頑張る力も伸びていきます。

それからもう一つ、褒められ、愛された経験は重要な能力を育てます。

最近、保育や教育、さらには人材育成などの分野でも注目されているレジリエンス(resilience)を高めるのです。

レジリエンスとは、「回復力」「弾性(しなやかさ)」を意味する英単語です。
心理学的には、「心の(精神的)回復力」とか「過酷な環境にも対応する力」などと考えられています。

つまり、逆境やトラブル、ストレスフルな状況に置かれても、「心折れずにいられる力」ということになるでしょうか。
そうした心の持ち主をレジリエント(resilient)な人と呼びます。


愛された経験はレジリエンスも高める

このレジリエンスを高めるためにも、愛された経験や認められた経験などが必要であることがさまざまな研究から分かってきました。

ご興味のある方は、『人間の発達とアタッチメント:逆境的環境における出生から成人までの30年にわたるミネソタ長期研究』(誠信書房)を読んでいただけたら、と思います。

また、同書は、「きちんと愛されなかった」経験(安定型のアタッチメント形成ができなかった経験)が、最近話題の複雑性PTSDを初めとするアメリカ精神医学会の診断基準(DSM-5)につながる症状をもたらしたり、ADHDと診断される人々(つまり、本来は発達障害ではない人々)の増加に一役買っている可能性も指摘しています。

エビデンスを踏まえて

こうした研究が示すエビデンスを踏まえながら、「心が折れやすい」とされる日本の若者や、右肩上がりに増える発達障害とされる子どもの状況(小中学生の8.8%に発達障害の可能性 文科省調査)を見てみると、その背景にあるのが、「若者自身の問題」であったり、「発達障害への認知の広がり」だけなのか。疑問を感じずにはいられません。

振り出しに戻って、もう一度、問うてみたいと思います。

「日本の若者が本当に褒められて育っているのか?」

私の回答は、「否」です。

2024年2月、福岡県みやま市でうずらの卵をのどに詰まらせ小1男児が死亡するという痛ましい事件がありました。
このニュースがネットで拡散すると、「かわいそう」といったコメントが相次ぎました。

ところが翌日、文部科学省が注意喚起を通知し、大分県佐伯市ほかの自治体が、「当面、給食にうずらの卵を使わない」とする通知を出したあたりから、様子は変わっていきす。

「危険要素を排除すればいいのか」「そのうち食べられる物がなくなる」など意見が増えていったのです。


増える過保護・過干渉

私も、「うずらの卵排除」には違和感をもったひとりでした。

今回の一件に限らず、昨今の子どもをめぐる状況(と言いますか、子どもの周囲にいるおとなの状況)を見ていると、どうも「過保護・過干渉すぎる」と感じることが増えている気がしています。

「子どもが危ない目に遭わないように」
「子どもが困らないように」

・・・なんでもかんでも先回り。「子どもの障害物になりそうなものはとことん排除しなければ!」。それこそが、子どもを守ることで、愛することなどだと信じて疑わないおとなが多くなっているように思うのです。

カーリングペアレント

以前、このブログでは「カーリングペアレント」について書きました。子どもの障害物になりそうなものを先回りして取り除こうとする親(おとな)のことです。そうしたおとなの関わりが子どもに与える影響について、以前のブログでは、次のように書いています。

「『先回りして障害物を取り除こうとする』ことで、『子どもの欲求をつぶしてしまって』、結果的に『子どもへの応答性を忘れて親の思い通りに子育てしようとする』から、問題なのです」

今、改めて、当時のブログを読んでみると、ほかにもいろいろと問題がありそうです。

何もかもおとなが手を出していれば、子どもは、間違ったり、工夫したりしながら、自分の力で達成するという機会を持てません。それでは自己効力感や自信も育ちません。

一定度の刺激(危険なものを含む)を受けることも、実はとても重要なのです。そうした刺激によって、身を守る術や対処方法を知っていくというだけでなく、「安全」な関係や環境、領域などが分かるようになります。
先回りして危険を除去し、守られているばかりでは、「いざ」というときに自分を守ることもできなくなります。

安全基地とは

もちろん、子どもが自らの力を伸ばすには、安心や安全を与えてくれる「安全基地」(慰め、守ってくれるおとな)は不可欠です。しかしそれは、「あらゆる困難の防波堤になってくれるおとな」のことではありません。

安全基地の役割は、子どもが求めているとき(必要なときに)にはきちんと助け、それ以外のときには「どーんと構えて待つ」こと。子どもが冒険したり、傷ついたりして帰ってきたときに、そこでエネルギーを充填できるような場所になることです。

だから間違っても、「子どもが心配」と、くっついて動き回ったりしてはいけません。先回りしてシールドになったり、おろおろとしているのもダメです。
「うずらの卵排除」に象徴される、「あらゆる危険因子を子どもから遠ざけよう」というおとなは、逆に子どもの成長発達を妨げる有害なおとなになってしまいます。
それなのに、なんでもかんでも排除しようという様子に、違和感を感じたのだと思います。

だれも責任を取らない国

それからもう一つ。
「子どもを守る」という、だれもが反論しづらい正論を隠れ蓑に、「面倒ごとは御免被る」という態度が透けて見えたからでしょうか。
子どもは冒険をするものです。・・・というより、冒険することで成長していきます。でも、冒険には危険がつきものです。細心の注意を払っても事故を100%防ぐことはできません。事故が起これば、その責任はおとなが引き受けねばなりません。

そんな手間や労力、責任を引き受けたくないなら、「危険なものはすべて排除」が一番楽です。
小さなうずらの卵が、不正や汚職、裏金にどっぷり浸かった政治家たちが跋扈する「だれも責任を取らないこの国の姿をありありと浮かび上がらせた気がします。