「がんばらなくてもいい!」・・・そんな新しい社会へ(3/8)

2019年5月29日

確かに、元気な子どもの存在は私たちおとなにパワーを与えてくれます。子どもの笑顔は気持ち和ませてくれますし、楽しそうに遊ぶ姿は未来を感じさせてくれます。震災で、原発事故で、失いがちな希望という“ろうそく”に火を点してくれます。
だからついつい子どもに向かって「がんばろうね!」と声をかけてしまいたくなります。

でも、ちょっと待ってください。
子どもは「おとなのために」存在しているわけではありません。子どもはおとなを元気にするためにいるわけではありません。


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子どもにしょんぼりしたおとなを慰めたり、前を向けないおとなを勇気づけるなどという“仕事”をさせてはいけないのです。

おとなに心配をかけないよう振る舞ったり、おとなの面倒をみたり、気分を軽くしたり、おとな同士のいざこざの緩衝材になったりすることーー子どもが「子どもとして生きられない環境」で育つことーーが、その子がおとなになってからも、なかなか下ろすことのできない十字架を背負わせてしまうことは、アルコール依存をはじめとするさまざまな依存症やDVなどの家庭で育った子どもの研究ですでに明らかになっていることです。

順番から言えば、まずはおとなの側が、子どもが日々を安心して生きられるよう、楽しくて楽しくてしょうがない気持ちでいられるよう、自らの可能性を最大限まで伸ばせるよう、子どもの成長や発達に必要な環境を提供しなければならないはずです。

エネルギーあふれる子どもの姿は、そうした努力をしたおとながもらえる“ご褒美”であって、けっして「がんばれ!」という安易な声かけの結果であってはならないのです。

子どもはもう十分がんばっている

東京都内で子育て支援に関わる女性は、阪神淡路大震災を経験したという保育士から聞いた話として、こんなエピソードを教えてくれました。

「地震のあと、やっと登園してきた子に『頑張ろうね』と保育士が声をかけたら、子どもは固まってしまった。その様子を見ていた別のおとなが『もう十分がんばった。もうがんばらなくていいよ。もう大丈夫だよ』と、抱きしめたら子どもは大泣きをはじめたそうです」

子どももおとなも、安心できる場が無ければ、辛さや悲しみを表現できません。巨大な震災と原発事故は、子どもにとてつもない無力感も与えています。
生き残った者が感じずにいられない「自分だけが助かってしまった」との自責の念や「自分が悪い子だから、こんなひどいことが起きた」という罪悪感に悩む子も少なくないでしょう。

そんな不安と恐怖に耐え、子どもたちはもう十分に、十二分に、がんばっているのです。それなのに「がんばれ」と声をかけられれば「まだがんばりが足りないんだ」と、子どもは自分の気持ちにふたをするしかなくなってしまいます。

辛さや悲しみを表現できないのは危険

被災地の子どもの笑顔や親を亡くした子どもが黙々と避難所の手伝いをする姿などを感動的に取り上げるメディアも多々あります。こうした話を美談として語りたがるおとなも大勢います。
少しでも早く涙をぬぐい、もしくは涙を隠して、前を向いて進むことはいいことだと信じて疑わない人たちもたくさんいます。

でも、実は辛さや悲しみを十分に表現できないということは、とても危険なことなのです。(続く…

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Posted by 木附千晶