啐啄ーー1年の結びに代えてーー(1/3)
禅の言葉に「啐啄同時」(そったくどうじ)というものがあるそうです。
卵の中のひな鳥が殻を破って外へ出ようとするとき、殻を内側からコツコツとつつくことを「啐」といい、それに呼応して親鳥が外から殻をコツコツとつつくことを「啄」といいます。
実はこの「啄」のタイミングは非常に微妙で、早くても、遅くても、ひなどりの命を危うくします。
だから、ひな鳥の「外に出たい」という願いが、ちゃんと親鳥に通じ、ひとつの生命が誕生する「機を得て両者相応じる得難い好機」のことを「啐啄同時」と呼ぶのだとか。
私がこの「啐啄」という言葉を知ったのは、愛媛県にある地酒屋さんがつくった「啐啄」という日本酒をいただいたことがきっかけでした。
どんな意味が想像も付かないネーミングだったので調べてみたところ、冒頭に書いたひな鳥と親鳥の話と分かったのです。
「啐啄」の実現は難しい
なぜ、年の瀬も押し迫った時期に、わざわざこんな話を書いたのかと言うと、この「啐啄」という言葉ほど、見事に子どもの成長・発達をうながすおとなの関わりを端的に現している言葉はないと思うからです。
そして、今年一年を振り返ったときに、今の日本社会では、やろうと思ってもなかなかできない、ほんとうに難しい子どもとの関わり方であるとも思ったからです。
「啐啄」を実現するためには、親(おとな)の側が辛抱強くなければなりません。「いまか」「いまか」と待ち続ける忍耐力だけでなく、わずかな音にも耳を澄ませ、かすかな振動にも応えられるよう、常に子どもに注意を向けていなければなりません。
あくまでも、中心は子どもです。親の都合で、親のタイミングや希望に合わせてのかかわりは御法度です。
「啐啄」に通じる考え
考えてみれば、「啐啄」に通じる考えは、ほかにもいろいろあります。
たとえば夏目漱石は『夢十夜』「第六夜」で鎌倉時代の有名な仏師・運慶を登場させ、次のように語らせています。
「眉や鼻をノミでつくるんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋うまっているのを、ノミと槌の力で掘り出すまでだ」
つまり、「仏師の意図するように仏像をつくりあげていくのではなく、木の中に埋まっている『外に出たい』という意を汲んで、その通り掘り出していくのだ」ということでしょう。(続く…)