「がんばらなくてもいい!」・・・そんな新しい社会へ(1/8)

2019年5月29日

まったく私的な話からはじめて恐縮ですが、私が『いいかげんに生きよう新聞』なるものの存在を知ったのは、もう○十年も前のことです。
本屋でたまたま目に入った『生きるのが怖い少女たち 過食・拒食の病理をさぐる』(光文社刊/斎藤学著)という一冊の本を手に取ったときでした。

この本に出会うまで、「過食・拒食」という概念があるということなど、まったく知りませんでしたし、ましてや新聞の発行元であるNABA(日本アノレキシア・ブリミア・アソシエーション)や、著者である斎藤顧問のことも、何一つ知りませんでした。

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そんな無知な私でしたが、同書に転載されていた『いいかげんに生きよう新聞』への投稿ーー斎藤顧問は「時代の閉塞感、息苦しさへの悲鳴を奏でる『カナリアの歌』と呼んでいましたーーには心から共感できました。そして、「いいかげんに生きよう」という言葉に大きな衝撃を受けました。

そう、それまでの私は、「頑張ろう」「前へ進もう」「一番を目指そう」など、東日本大震災後、とみに巷にあふれるようになった“呪文”でもある「頑張る人間は素晴らしい!」という考えにガッチリとらわれた人間だったのです。

違和感のある「がんばれ」と「復興」

そんな○十年前の私なら別だったかもしれませんが、昨今の「がんばれの大合唱」。そして、「元通りの社会への一日も早い復興を!」のかけ声は、かなり耳障りに聞こえます。

未だに多数の行方不明者がおり、長引く避難生活をされている方や先の見えない毎日におびえる方々に向かって、「復興に向けてがんばれ!」と言える神経というのはいったいどういうものなのでしょうか。

かえがえのない大切な方を亡くしたり、愛する土地や仕事を手放さざるを得なかったり、先の見えない生活を突きつけられた方たちに向かって、どうして「いつまでも嘆いていないで前に進もう!」なんて軽々しく言えるのでしょうか。

福島第一原発から発せられる放射能の恐怖も収まらない中で、原発震災をもたらした社会の在り方が真摯に問われることもないまま、軽々しく「元通りの社会に“復興”しよう」と言われることにも大きな違和感を禁じ得ません。

「がんばっていないお前はダメ」のメッセージ

精神病理学者で関西学院大学教授の野田正彰さんは言います。

「(略)被災した人は歯を食いしばって頑張っている。必死になって耐えている。だれががんばっていないというのか。『がんばろう』は、苦しい人に対して『頑張れないお前はダメだ』というメッセージになる(略)」『サンデー毎日』(2011年4月17日号223ページ)

私もまったく同感です。

人は「大切なものを失った」という事実を受け入れるまで、長い時間がかかります。戸惑ったり、困惑したりしながら「辛い現実」を受け入れていきます。 そして、それができるようになるためには、とうてい前向きになどなれない絶望観までもを安心して表現できる環境が不可欠です。

傷ついた心が癒され、「前に進もう」「がんばって生きていこう」と思えるようになるためには、それなりの時間が必要で、落ち込んだりネガティブになったりする時間を共有してくれる“だれか”がいなければなりません。「『がんばれ』と言わたら『がんばれる』」というものではないのです。

本当の支援とは

政府が提案する高台への移住、エコタウン構想、被災地域からの避難なども、そのままでは受け入れがたい内容です。

もちろん、こうした案を積極的に受け入れ、まったく新しい第二の人生を歩み始めたいと考える人もいるでしょう。「二度と海は見たくない」という人もいるでしょう。

しかし中には、行方の分からない肉親の「せめて亡骸だけでも見つけてあげたい」と願っている人、「慣れ親しんだ土地を離れてどうやって暮らして行けばいいかも分からない」と思う人、「出来る限り今までと同じ生活をしたい」と考える人、「やっぱり海の側で暮らしたい」と望む人だっています。

そういう人たちに対しては、現時点では身の安全をはかりながら、将来に向けては極力、その意に添えるような、具体的な提案していくべきです。
被災された方々は、想像を絶する体験をされているのです。それならばなおのこと、ひとりひとりのニーズを汲み取り、できるかぎり、それに応えながら行うことこそが本当の支援ではないでしょうか。(続く…

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Posted by 木附千晶