地域の再生と地域猫(7/8)
今、私たちの社会は「何でも自分で出来る人間」=「自立的な存在」をもてはやします。
だれかに食べさせてもらったり、甘えたり、頼ったりすることは「子どもっぽいこと」とされ、たったひとりで生きられる人間になることが「いいこと」とされます。
自分でお金を稼ぐことが出来ず、身の回りのことができず、人の手を借りなければやっていけない人間を「ダメな(甘えた)人間」と呼びます。子どもに対しては指導、しつけ、教育をして、一刻も早く「おとなにしてあげる」ことが愛情だと考えられています。
とくに新自由主義と呼ばれる、自己決定と自己責任を個人に押しつける考えが席巻する今日において、この考え方は顕著です。
そこでは“世話される弱い存在”は、あってはならないもの。もしくは価値のないものであって、ただのお邪魔虫(やっかい者)に過ぎません。
こうした社会の考えを内面化し、相談に来られるクライアントさんの中にも「自分は自立できていないダメな人間だ」という罪悪感でいっぱいの方も多くおられます。
===
人間はひとりぼっちでは生きていけない
しかし、その考えは間違っています。人間は本来、だれにも頼らず、ひとりぼっちでなど生きてはいけないのです。
人間は、関係性の中で生きる存在です。特定のだれかとの愛着関係を持ち、そのままで受け入れてもらえる関係の中で安心し、支え、支えられる(ケアし、ケアされる)ことによって、孤独という根源的な不安を克服します。
特定のだれかとの間で、そうした関係性を得られなかったときには、その寂しさを満たすための代用品を探します。
代用品は、アルコール、ギャンブル、ショッピング、仕事、子どものお受験など、実にさまざまです。
実生活や生身の人間との関係性に悪影響を及ぼすほどにまで、代用品の乱用がはじまると、「依存症」と呼ばれ、治療対象とされますが、多くの場合、当人はなかなかその問題性に気づきません。
社会全体がマネー経済依存症
とくに、社会全体がその代用品を「価値があるもの」と考えている場合は深刻です。
個人的な意見を言わせてもらえば、だれとも親密な関係を持たず、ひとりぼっちで生きられる人間を理想とし、巨額の利益を求めて投機を続け、株価の動向に一喜一憂する日本社会には、すでに「マネー経済依存症」になっている状態だと思います。
しかし、多数の人が財産を殖やすための投資に夢中になり、「だれにも頼らずに生きていける経済力を持つべき」と思い込んでいるため、これだけ既存の経済システムのほころびが見えてきても、抜本的に見直そうという雰囲気にはなりません。
「酒を飲んでハメを外すのは当たり前」という文化では、アルコール依存症が見えにくくなり、賭け事が「男の甲斐性」と言われる思われる家庭ではギャンブルが問題視されにくくなるのと同じです。(続く…)