万が一、少年事件の容疑者が自分と同じ側にいる“普通の人”なんていうことになったら一大事です。
特殊な病気や障害のせいにできないのですから、理にかなった原因があると考えなければいけなくなります。「問題行動」という言語化できなかった子どものメッセージをきちんとくみ取る必要に迫られます。
これは思いの外、大変です。
当の子ども自身、自分の行動の裏にある真意に気づいていないことが多々あります。
万が一、少年事件の容疑者が自分と同じ側にいる“普通の人”なんていうことになったら一大事です。
特殊な病気や障害のせいにできないのですから、理にかなった原因があると考えなければいけなくなります。「問題行動」という言語化できなかった子どものメッセージをきちんとくみ取る必要に迫られます。
これは思いの外、大変です。
当の子ども自身、自分の行動の裏にある真意に気づいていないことが多々あります。
前回の「絶望と自殺」では、「孤独と絶望の中で生きている子どもたちの痛みに向き合える社会に変わっていかない限り、第二、第三の秋葉原事件が起こる」と記しました。
まるでそれを裏付けるように、ここのところ10代半ばの子どもたちによる事件が相次いでいます。
7月16日には山口県の中学二年生が「親に恥をかかせたい」との理由で起こしたバスジャック事件があり、19日には埼玉県に住む中学三年生が父親を刺して死亡させる事件がありました。また29日には、中学校教師が卒業生に刺されて重傷を負うという事件も起きました。
秋葉原事件の容疑者の養育環境はどうだったでしょう。
報道から推測する限り、彼の家庭は今の社会に適応し、そこで成功できるような「良い子」を求めるものだったように見えます。
おそらく、彼は小さな頃から自らの欲求(「他者との関係を求める叫び」)を無視されたまま、社会の価値観を体現した親の要求に応じるようしつけられ、その期待に応えるべく努力してきた人間だったのでしょう。
傷ついたときにほっとできたり、つらい目にあったときに逃げ込んだりできるような安全な居場所。「自分は自分のままで価値がある」と思え、助けを求めることができるような他者との関係を彼は持っていたのでしょうか。
たぶん彼にとって他者とは、絶えず要求を突きつけてくるもの。その要求に応えられなくなれば簡単に切りすてるもの。自らを搾取し、孤独へと追い込むもの・・・そんな対象でしかなかったのではないでしょうか。
ところで、ここのところ「死刑になりたい」ーーそんな動機で、見知らぬ他人を殺める事件が相次いでいます。いわば「他者の力を借りた自殺」です。
自殺願望を持つ人の増加は統計からも明らかに読み取れます。
内閣府が5月に発表した「自殺対策に関する意識調査」では、20歳以上の男女の約20%が「本気で自殺を考えたことがある」と答えています。最も多かったのは30代(27.8%)と20代(24.6%)でした。
また、警察庁の統計(06年)では自殺者は3万2155人。9年連続で3万人を超えています。
「自分に価値がある」と思うことができなかった宅間死刑囚の子ども時代は、かなり過酷なものだったようです。
宅間死刑囚とその兄は、父親から棒でたたきのめされる毎日の中で育ちました。母親には父親の暴力を止める力はなく、血まみれの母親の姿を見ながら大きくなったようです(「加害者に潜む家族内部の暴力」 『世界』2003年3月号)。
兄は、事件の2年前に自殺しています。宅間死刑囚も、犯行の直前にネクタイで首をつったそうです。父親に「しんどい、メシが食えない」と言ったら「首でもくくれ」と言われたためでした。
しかし、結局、宅間死刑囚は自らネクタイをほどき、自殺を断念します。
秋葉原の事件が起きた6月8日は、7年前に大阪教育大学附属池田小事件に乱入した男に、小学生8人が無差別に殺されるという事件が起きた日でした。
それが単なる偶然だったのかどうか。今の時点では分かりませんが、秋葉原事件の容疑者の書き込みには、
「犯罪者予備軍って、日本にはたくさん居る気がする」(06/05 11:51)
「ちょっとしたきっかけで犯罪者になったり、犯罪を思いとどまったりやっぱり人って大事だと思う」(06/05 12:02)
「人と関わりすぎると怨恨で殺すし、孤独だと無差別に殺すし難しいね」 (06/05 12:04)
「誰でもよかった」 なんかわかる気がする (06/05 12:05 )
などと書かれています。
少なくとも容疑者が、無差別殺人を行う人間に共感を寄せていたことは事実でしょう。自分が殺人者になってしまうのではないかという恐れを抱きながら、ぎりぎりのところで踏みとどまっていたことも分かります。
気になるのは「やっぱり人って大事だと思う」という一文です。
言葉が足りないので、真意のほどが定かではありませんが、自分が殺人者になってしまうことを止めてくれるような人、自分のことを「特別」だと思い、気にかけてくれるような人を求めていたように思います。
ギリシャ神話に登場する人物にシーシュポスという人がいます。
彼は、その犯した罪により神々から、「巨大な岩を山のふもとから頂上まで転がして運ぶ」という罰を与えられます。
彼が苦労して運び上げた巨石は、あと少しで山頂に届くというところで底まで転がり落ちてしまいます。そのため、彼は再びこの巨石を一から運び上げる作業をしなければなりません。
永遠に繰り返される作業。先の見えない、終わりのない孤独な労働。・・・それが、シーシュポスに与えられた罰でした。
このことから「シシュポスの岩」は「(果てしない)徒労」を意味します。
DV防止法に反対する人々と同じです。
「子どもや女性は、力ある存在(家庭であれば父親)に“従う”もの。間違っても自分の思いや願いなどを訴えるべきではない!」
ということなのでしょう。
そうした考えの人々にとって、大切なのは“家族という器”であって、その中身ではないのです。どんなにおかしな、ひとり一人を幸せにしない家族であっても、その器を守ることに意味があると思っているのでしょう。
政府報告書の中身も大問題です。
たとえば、この間の子どもに関するもっとも重要な変化であった教育基本法の「改正」については「今まで同様、個人の尊厳を中心にしている」と簡単に記しただけ。報告書を提出にした国に対して、国連が改善点や努力点を示す勧告(日本には過去2回の勧告が出されています)については「前回の報告書を参照せよ」との回答が4割を占めています。
すでに提出した報告書に対する勧告への回答が「かつて提出した報告書を見よ」なのですから、本当にびっくりです。
NGOの代表は「これでは『条約実施の意思はない。現状を追随していく』と宣言しているようなもの」とあきれ顔でした。
また、女子差別撤廃条約など、ほかの人権条約の国連への提出も軒並み遅れています。そしてその内容も「女性の雇用環境は改善されてきている」など、現実否定もはなはだしいものです。
なぜ、こんなことになっているのでしょうか?