一月末、愛知県犬山市に行ってきました。犬山市立楽田小学校の公開授業を参観させていただいたのです。

犬山市は以前にもこのブログで紹介した「子どもの権利条約が生きた町」です。

この2月には、今年度に引き続き来年度の「全国学力テスト」(全国学力・学習状況調査)への不参加も決めました。同市の市長をはじめ、市民の間には「犬山だけが参加しないのはいかがなものか」との声もありますが、このテストの問題性を重視し、不参加としたのです。

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image080205.jpg ところで、愛馬と乗馬クラブの犬は大の仲良しでした。
たとえば寒い冬の夜、愛馬は自分の夜食である干草を、暖を取るために犬小屋に貸してあげていました。そして犬は、朝、愛馬がお腹を空かした時間になるとちゃんと干草を返してくれていました。

過去何度か、愛馬が倒れたときも、真っ先に気づいて大騒ぎするのはその犬で、状態の悪いときは、乗馬クラブのスタッフと一緒に、寝ずに看病してくれました。スタッフたちは、犬の様子から愛馬の病状が深刻なものかどうか判断していたほどです。

最期の日も、犬は、愛馬が倒れた際にすりむいた傷をきれいになめてくれました。そしてもう動かなくなった愛馬の馬着をひっぱり、耳元で吠え、どうにか起こそうと必死になっていました。

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image080213.jpg 私がセラピーに興味を持ち、心理を学び、子どもや家族問題にかかわるようになったのも愛馬のことがきっかけでした。

故障した愛馬の預け先を探す中で、ハンディキャップを負った子どもを対象にしたホースセラピーを知ったのです。
・・・とは言え、最初は「もっと日本にホースセラピーが定着すれば、行き場のない馬たちの受け入れ先が増えるのでは?」と思っただけ。

でも、馬と接することで変わっていく子どもたち、何より子どもたちが秘めたパワーに驚かされ、その可能性に惹きつけられました。そして、あらゆる人間が生来持って生まれてくるこうしたさまざまな能力の“芽”をつみ取ってしまうものは何なのかと考えるようになり、自分の子ども時代についても考える機会を得ました。

心理学を学ぶことを勧めてくれたのも、ホースセラピーを通して知ったある研究者の方でした。
それから大学院に入り、心理を学ぶまでには、さらに5年もの月日がかかりましたが、私の中で、心理学への興味が沸き、さらには「子どもと家族の問題に取り組む」という、今後、自分がかかわるべき方向性を見つけることができました。

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今までに何度か、このブログを読んでくださった方はもうお気づきかもしれません。
馬の世界は、今の日本社会にとてもよく似ていませんか?

効率と競争によって、選別し、経済的な利益を生まない者は「役立たず」として淘汰する。そして、それを「本人の問題」としてあきらめさせ、肩身の狭い人生を余儀なくさせていく・・・。

前回のブログ(「子どもの『うつ』と『あきらめ』」)でも書いた、中学3年生と小学6年生を対象に行われた全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)も、選別のための装置に過ぎません。

「自由」「規制緩和」「改革」などの響きの良い言葉でごまかしながら、不安定雇用、福祉の縮小、経済格差などの現実がつくられ、社会の価値に合わない者、競争の土俵に乗れない者は、はじかれるというシステムが出来上がっています。
こうした社会は、私たちから人間関係を奪い、情緒を剥奪し、子育てや教育をうまくできないようにし、子を支配し、依存せざるを得ない親を増やし、孤独で寂しい人々を生んでいます。

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image080121.jpg 私が馬の一生を知ったきっかけは、愛馬が足腰を痛めたためでした。もう15年ほど前になります。それまで全国大会で入賞を果たしていた馬だったため、乗馬クラブからこう勧められたのです。

「競技を続けたいなら、馬を買い換えた方がいい。今、手放せば、高く売れる」

そう言われて頭に浮かんだのは、以前に持っていた馬のことでした。
その数年前、私は馬を買い換えていました。当時の私は、馬の人生がどんなものかなどまったく知りませんでした。自分が手放した後も、ずっとだれかの自馬(オーナーのいる馬)としてかわいがられて生きていくと思っていました。だから、いつでも会いに行けると信じていたのです。

ところが、1年とたたないうちに、その馬の行方は分からなくなってしまいました。だれに聞いても、いったいどこへ売られていったのか教えてくれません。
それが馬をあつかう世界のルールであり、おかげで馬とかかわった人が「きっとどこかで元気に生きているはずだ」と、はかない夢を見続けることができるのだと分かったのは、後になってからでした。

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こんな個人的な話題をあえて書かせていただこうと思った理由は、ふたつあります。
ひとつは、私自身が抱える大きな喪失感を乗り越えるために、語らせていただく必要をとても感じているということ。

そしてもうひとつは、もし、愛馬がいなければカウンセラーという仕事に就くことはなく、当然、このブログも存在しなかっただろうと、その死を通して気づかされたからです。

早いもので、このブログを始めてからもう一年以上がたちました。多くの方々に支えられ、続けてくることができました。改めてお礼申し上げます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

格差社会から貧困社会へ

旧年中は、もう少し明るい話題を提供したいと思いつつ、なかなかそうもいきませんでした。

とにかく一昨年末の教育基本法「改正」以来、どんどん子どもの暮らす世界は窮屈になっていきました。保育や福祉の分野にもでも「自由化」という耳障りのいい言葉で、競争原理が入り込み、とても安心して子育てできない環境が広がっています(よっぽどお金があれば別ですが・・・)。

「格差社会」が問題視されたのも今は昔。すでに日本の社会問題は「貧困」です。

日本は、OECD(経済協力開発機構)諸国の中で、平均所得に満たない人の比率(相対的貧困率)がアメリカに次いで2位。国民健康保険の保険料が払えず、医療にかかれないまま死亡する例も出始めています(『東京新聞』1月4日付)。
また、OECDの資料から割り出した子どもの貧困率は他の加盟諸国が減少傾向なのに反して増加傾向を示しています(『保育白書』2007年版)。

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このメールからは、罪悪感や劣等感、自己肯定感の低さ、そしてあきらめなどが見て取れます。
「ほうっておいてくれ」と、助けを求めることもできないくらい絶望し、すべてを「自分のせい」と引き受けてしまっています。

棚上げにされた現実

でも、本当にそうでしょうか?

都市部の教師たちに聞くと「成績がよかったのは塾に通い、テスト慣れした富裕層の子ども」だと言います。

今回の全国学力テスト順位を見ても、生活が厳しく就学援助を受けている世帯が多い沖縄県や北海道、大阪府が下位に来ています。

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つい最近も「世の中、しょせんこんなものーー」と、あきらめてしまっている子どもたちの存在を痛感することがありました。

この4月に43年ぶりに行われた全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)の成績が、各学校へ返された後のことです。

今回のテスト結果の感想を当事者である中学3年生と小学6年生に尋ねると、ほとんどの子どもが「べつに」と答えます。

テスト結果が平均点以上だったのは、もともと成績が良く進学志向が強い子どもたちです。そうした子どもたちは結果を楽しみにしていたものの、「この時期に返されても、今さら志望校を決める材料にはならないから、意味が無い」と言います。

対して、平均点以下の子どもたちは「最初から真剣に受けてない」と話します。
でもその真意は?

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一時的な気分の落ち込みは、だれにでもあります。
失恋したり、がんばった仕事が評価されなかったり、信じていて友達に裏切られたり・・・などなど、ストレスを受ければ気持ちが沈むのは、当たり前。
辛い出来事に出遭って、きちんと落ち込めるのは、心が健康に働いている証拠です。

では、どういう状態になるとうつということになるのでしょう?
一般には、落ち込んだ状態が長く続いて、いつでも空虚感があったり、何かに興味を持ったりすることが出来なくなったりして、睡眠障害や食欲の減退、集中力や記憶力の低下などが見られ、日常生活に支障をきたすようになるとうつと診断されます。