真夏の怪(6/6)
今回のテーマでは、この夏に起きた不思議な事件、奇々怪々な事象、施策などさまざま取り上げてきました。
まだまだ疑問を感じることは山のようにありますが、すっかり秋も深まって参りましたので、そろそろ終わりにしたいと思います。
しかしなんと言っても、山積する不思議の中で最も不可解なのは、こういった政治や社会に怒ることもしないサイレントマジョリティーの存在です。
勝っても負けてもだれも幸せにしない。果てしなく続く競争社会の中で、心休まるときもなく、余裕のある生き方もできないまま、「でも、それは仕方のないこと」とあきらめ、結果的にさらなる競争社会ーー「自己決定と自己責任」ーーへと突き進むことを許している大多数の存在です。
何でも民営化されるのはよいこと?
たとえば昨今、「事業仕分け第三弾」が行われましたが、多くの人々が「ムダを無くして欲しい」と、この仕分けを喜んでいます。しかし、事業仕分をごくごく単純に言ってしまえば「従来、国で行ってきたことを民間企業ができるよう」仕向けているだけです。
民間企業が執り行うということは、「その事業が企業利益の対象となり、お金を払えるひとでなければよいサービスを受けられなくなる」ということです。
何でもかんでも民営化されることが本当に国民に利益をもたらすものなのか。それは保育事業の民営化や、郵便事業の民営化の現在を見れば、もう答えは明らかなはずです。
確かに、天下りなど甘い汁を吸い続けてきた官庁関係者の存在は許せるものではありません。私たちが収めた税金が、国民のためにならない使い方をされてきた事実も見過ごしてはいけません。
でも、こうした「官の問題」を無くそうというのなら、そのお金の使い道を明らかにしたり、天下りができないような法律つくったりして、監視の目を光らせ、きちんと不正を糺していけばいいだけです。
何もその事業を民間に開放する必要などありません。
ちゃんと怒ろう!
繰り返しになりますが、「民営化する」ということは「買う側の経済力によって受けられるサービスが違ってくる」ということ。そして、それを「あなたが選んだのだから」(自己決定)として、個人の責任に押しつけられるということです。
今までは、国民の権利として、社会保障として、だれもが均一に受けられていたサービスが、消費の対象となるのです。
当たり前の話ですが、お金持ちは金に飽かせていくらでもよいサービスを買うことができるようになり、貧しければ「安かろう、悪かろう」のサービスしか受けられなくなります。いえ、下手をしたらサービスを買うことさえもできなくなる人が大勢でるでしょう。
私たちが望んでいるのは、「お金がなければ満足に福祉も教育も受けられない」社会なのでしょうか? それとも「財政のムダを無くして、その分、豊かな福祉や教育を受けられる」社会なのでしょうか。
おそらく、多くの人が選ぶのは後者でしょう。甘言や表面上の華やかさ、「今までよりは良くなりそう」なイメージなどに惑わされず、「その裏に何が隠されているのか」を見極め、理不尽なものごとに対してきちんと怒っていくことが必要です。