戦争がなくても平和じゃない(3/11)
こうした報道を目にするたびに、精神的ストレスの高い社会で、養育能力を育めないままに親になってしまった悲劇を感じます。
おそらく愛情あふれる養育を受けられないままにおとなになった彼・彼女たちは、おとはとは違う子どもという無力な存在の特性や特徴に思いをめぐらすことができず、思い通りにならないその存在をストレスに感じ、かわいがり方も分からずに、「おとなの都合に合わせること」がしつけだと疑わないまま、その幼い命を奪ってしまったのでしょう。
おとなが子どもにすることはすべて愛情?
以前、このブログの「『家族』はこわい」の回でも書いたように、そもそも日本社会は「おとなが子どもにすることはすべて愛情である」という考えに毒されています。
その典型が、「『家族』はこわい(4)」で記した裁判長の意見です。
“恐ろしい父”に虐待され、“不幸な母”にネグレクトされた少年が父母を殺害した事件(2005年)の判決で、担当した栃木力裁判長は懲役14年を言い渡し、「それでもご両親なりに愛情を持って育てていたことを分かって欲しい」と語りかけました。
これが日本の“常識”を決める機関であり、正義の砦である司法のスタンダードな考え方なのです。
民法等を改正しても・・・
だから、止まらない虐待の増加に対応するとして、今年5月に行われた民法等改正でも親から子への懲戒権は削除されませんでした。
「しつけもできないという誤解が広がる」などと言うのが、削除に躊躇した人たちの意見です。
改正にともない、かろうじて「子どもの利益のために行使されるもの」との文言が盛り込まれたことを評価する人たちもいますが、「しつけのつもりだった」と虐待する親が少なくない事実を考えれば、この文言が虐待防止にどれほどの効力を発揮できるものなのかは、かなり疑問です。
国連からも追求された懲戒権
この懲戒権については、昨年5月に国連「子どもの権利委員会」(inスイス・ジュネーブ)で行われた子どもの権利条約に基づく第3回日本政府報告書審査では、委員の方から鋭い質問が浴びせられていました。
委員のひとりは「日本には子どもの虐待を容認する法律がある」と指摘したうえで、「しつけと指導と虐待はどう違うのか説明せよ」と、日本政府団に迫りました。
しかし、残念ながら日本政府団からは的確な返事はありませんでした。いえ、「いったいどこの省庁が応えるべきなのか」も分からず、無言になっていたというのが正確でしょう。
政府団の人たちは、お互いに顔を見合わせながらマイクを譲り合うような感じでした。
何しろ懲戒権との関連では法務省、指導との関連では文部科学省、虐待との関連では厚生労働省が管轄。
すべてを包括して「子どもへの対応の在り方」を考え、応えられる仕組みそのものが、日本にはないのです。(続く…)