戦争がなくても平和じゃない(10/11)
もちろん、津波や地震の被害は虐待(不適切な養育)とは違います。
しかし、それによって子どもが「安全な場を失ってしまう」ということは同じと言えるのではないでしょうか。
おとなを頼らなければ生きていけない子どもには、安心して自分の思いや願いを表現し、そのすべてを抱えてもらえる安全基地(受容的・応答的な関係)が必要です。
しかし、虐待も震災も、その土台を根幹から揺るがします。
生々しい恐怖体験にさいなまれながら、生活の再建に汲々とするおとなを前にした子どもは、すべての欲求を引っ込めるしかなくなってしまいます。
自らの体験と重ねて語る少女
ちょっと立場は違いますが、過労死で父親を亡くしたある少女は、震災によって親を失った子どもたちとかつての自分を重ね、こんなふうに述べています。
今のこの状態が、私が10年前に父を亡くした時と重なってしょうがない。
私の父は突然死だった。ある日突然私の日常からいなくなった。そして私が周囲から、かけられた言葉も「頑張って」「しっかりして」「大丈夫だよ」これが大多数だった。
この言葉達に悪気がないと知ったのは随分と歳を重ねた後だった。
当時私は「頑張れるはずがない」「しっかりなんてできない」「大丈夫なわけない」と思った。
そしてこの様な言葉をかけてくるおとなたちをずいぶんと恨んだ。
感じざるを得ないのだ。あの被災地の子ども達の、おとなに向けた「心配しないで」と言っているかのようなあの笑顔、苦しみや悲しみを感じることすら困難な、何かに憑かれた様なあの目。
それは10年前、私がおとな達に向けた顔と大して変わりはないのだろう。そして私は怒りを感じずにいられない。今、目の前にいる子ども達の姿が真実だと思って疑わないおとなたちを。
決して子ども達は嘘をついているのではない。が、だれが目の前で悲嘆にくれているおとな達を前に悲しんでいられようか。
誰が目の前で絶望に打ちひしがれているおとな達を前に自分自身の不安を口に出せようか。だから子ども達は笑う。しゃべる。そして一人になった時そのショックに襲われる。
(子どもの権利のための国際NGO・DCI日本機関誌『子どもの権利モニター』108号より)(続く…)