以前、『搾取される子どもたち(7)』などでもご紹介した大川小事件。子どもを失った遺族54家族中19家族が石巻市と宮城県を相手に訴訟の決意を固めました。
仙台地方裁判所で、5月19日に初公判が行われる予定です。
時候ぎりぎりでの苦渋の判断でした。

どうして遺族は、訴訟に踏み切ったのでしょうか? 最後の引き金を引いたのは2014年2月に大川小学校事故検証委員会がまとめた最終報告をまとめたです。

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こうした心理の世界では常識となっている研究報告と、「さとり世代」の若者たちや、最近の子どもたちの様子を重ね合わせてたみたとき、若者・子どもたちの諦観とも言えるさとりの状態は、「関係性を求めても、それを得ることができなかった経験の産物」であるように思えてなりません。

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「怒り」を安心して表現できる環境が保障され、関係性の維持を求める欲求に応じてくれる養育者に出会うことができれば、乳幼児の「怒り」(泣き叫び)は、少しずつ洗練されていきます。

その子の発達度合いに応じて、ただ泣き叫ぶのではなく、身振りや手振り、言葉や意見など、もっと有効な方法で自分のニーズを表すようになっていき、やがて意見表明や自己主張と呼ばれるものへと変わっていきます。

一方、不運にも安全な環境や求めに応じてくれる養育者に恵まれなかった場合、子どもは「怒り」という、他者に助けを求めるサインを適切に表すことができなくなってしまいます。「求めても他者は応じてくれない」と学習し、他者の助け、他者との関係を求めることをやめてしまうのです。

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今、自分の思いや願いなどをぶつけてくる10代はめったにいません。とくに、怒りを表出する子が減ったように思えます。

当然、腹を立てるべき状況におかれても、「だって、仕方ないじゃん」という雰囲気です。
いえ、いじめ防止対策推進法は子どもを救う?(3)(4)」でも書いたように、腹を立てるべき状況に自分が置かれていることさえ、気づかない場合もあるのでしょう。

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私が実際に会った子どもたちも同じでした。

たとえば、私が編集・執筆に関わった児童養護施設で暮らす子どもたちの声を集めた『子どもが語る施設の暮らし』(明石書店)という本の取材で出会った子どもたちもそうです。

90年代はじめくらいまでに出会った子たちは、施設での生活に不満を述べ、自らをこんな境遇に置いたおとなへの憤りを語ってくれました。その激しい怒りの矛先は、ときにインタビュアーである私に向けられ、私の中にも強いネガティブな感情を呼び起こすほどでした。

ところが、90年代後半、とくに2000年に入ると事情が変わってきます。同じように児童養護施設で暮らすこどもたちに話を聞いたにもかかわらず、子どもたちは、言葉少なに「べつに不満はない」と言い、「だって、仕方ないじゃん」と、冷めた目で私を見つめていました。

何を聞いても「べつに」「フツー」「流すだけ」と答えられてしまうので、インタビュアーとして、「たとえばこういうことに不満はないの?」「こんなおとなのことをどう思う?」と、焦りながら質問をした思い出があります。

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でも、この『モノクローム』の世界観は、ここ10年くらいの間、私が10代から20代に対して感じていた“変化”と一致していました。

「怒り」から「あきらめ」へ

私が子どもや家族をめぐる問題とかかわり始めたのは1990年代半ば。その頃の子どもたちは、おとなや社会に対して、もっともっと、ずっとずっと辛辣でした。

本音と建て前を使い分ける親に嫌悪感を持ち、きちんと向き合おうとしない教師に腹を立て、社会の理不尽さに憤っていました。

言ってしまえば、あの伝説のシンガーソングライター、尾崎豊が歌ったおとなや社会への「怒り」に共感できるような感覚を持っていました。

ところが、2000年代に入ってからは違います。
おとなへの、社会への「怒り」は急速にしぼみ、代わりに子どもたちから感じるようになったのは「あきらめ」でした。

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確かに、怒りや悲しみなどの強い感情は私たちを圧倒し、打ちのめします。けして幸福感を与えてくれる感情ではないので、その感情を持ち続けるのはとても大変なことです。

そのうえ、このブログの「感情を失った時代(7)」などで書いたように、あるシチュエーションの中で当然、抱くであろう「リアルな感情」の存在が許されない現実もあります。

私たちの社会は、べつに特定の宗教に入信などしていなくても、現実社会に適応するべくーーとくに90年代に入ってからーー極力、心を動かさないよう、「感情的になることはよくないことだ」と、子どもたちに教えてきました。

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「オウム真理教」と聞くと、それだけで、なにやら得たいの知れない、恐ろしいイメージを持つ方もいらっしゃることと思います。

その信者の方々に対しても、「あんな凶悪事件を起こすような教えを信じていた凶悪な人間」「マインドコントロールされ、自分の頭でものを考えられない人間」「親子の絆など、人と人とのつながりを否定する冷酷な人間」・・・そんな印象を持っている方も、けっこう多いのではないでしょうか。

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世の流れに棹さしがちな私などは、そもそも『知恵蔵2013』の解説が指摘するように「高度成長期後のモノが十分に行き渡っていた時代に生まれ、物心ついたときにはバブルが崩壊し、不況しか知らない。一方で、情報通信技術の進歩と共に、当たり前のようにインターネットに触れてきた」時代を「成熟した時代」と呼ぶことにもひっかかってしまいます。

ちょっと脱線になりますが、現在を「成熟時代」と呼び、日本など先進諸国を「成熟社会」と呼ぶ人がいますが、いったい何をもって「成熟している」と考えるのでしょうか。

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このユニセフ調査をはじめ、『絶望の国の幸福な若者たち』(古市憲寿著・講談社)という本など、「実は日本の子ども・若者の幸福度はけっこう高いのではないか」と思うような調査や主張をたびたび目にします。

実際には、昨年末のブログ「搾取される子どもたち」で書いたような状況があるのに、日本の子どもや若者は、本当に「自分たちは幸福だ」と思っているのでしょうか。

それとも、生き延びるために、格差や矛盾がいっぱいの世の中を否認しているのでしょうか。それともまったく、不満や不平、辛さを感じないということなのでしょうか。