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何しろ検証委員会は、せっかく集めた証言までも「プライバシー保護」を盾に、どんな立場の、どんな人物が証言したものかをぼやかしてしまいました。

そして、相反する証言をただ並べ立て、羅列しました。
「山への避難を訴えたり、泣き出したり、嘔吐する子どもがいた」と書いたと思えば、その一方で「遊び始めたり、ゲームや漫画など日常的な会話をしていた」と記すなどして、検証という行為を放棄しました。

こうして検証委員会は、何一つ新しい事実を提示できなかっただけでなく、遺族の方々が事故直後から集め続け、積み上げてきていた事実を曖昧にしてしまいました。

そうして「津波予想浸水域に入っていなかったから危機意識が薄かった」「裏山は危険で登れないと思っていた」など、「子どもたちが命を落としたのは仕方なかった」と言わんばかりの最終報告をまとめたのです。

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検証の方法も、とうてい理解できるものではありませんでした。

わかりやすい例を挙げましょう。たとえば、検証内容の振り分け方です。
検証委員会には六名の委員のほか、四人の調査委員がいます。その中には、弁護士や学者などさまざまな専門家が入っているのですが、当日の津波について検証したのは、津波工学の権威とされる委員ではなく、心理学者である調査委員でした。

それだけでもびっくりですが、さらに続きがあります。

この調査委員は、7月に出された中間とりまとめ(検証の中間報告)のとき、「学校への津波到達時刻は3時32分」と、それまでの通説だった「3時37分よりも早い」との見解を示し、みんなを驚かせました。
そして、遺族やマスコミ関係者らから、科学的根拠を示すよう求められ、疑問を投げかけられると、あっさりと新見解を引っ込めたのです。

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大川小事故検証委員会は、石巻市の依頼を受けた第三者機関として2013年1月に活動を開始しました。

委員会発足当初、付いた予算は当初2,000万円。しかし、2014年8 月の補正予算で審議のないまま3,700万円上乗せされ、合計5700万円ものお金が投じられました。

そんな委員会には遺族の思いや願いに誠実に応える義務がありました。

なぜなら、本来、最も真実を明らかにする義務があるはずの石巻市教育委員会は、

①遺族説明会を開かない
②だれよりも真実を知っているはずであるただひとり生き残った教師を「病気休職中」として表に出さない
③最初の段階で聴取した子どもの証言を改ざん・隠蔽し、重要な証拠となるはずの聞き取り時メモを廃棄する

など、不誠実な対応を重ねてきたからです。

以前、『搾取される子どもたち(7)』などでもご紹介した大川小事件。子どもを失った遺族54家族中19家族が石巻市と宮城県を相手に訴訟の決意を固めました。
仙台地方裁判所で、5月19日に初公判が行われる予定です。
時候ぎりぎりでの苦渋の判断でした。

どうして遺族は、訴訟に踏み切ったのでしょうか? 最後の引き金を引いたのは2014年2月に大川小学校事故検証委員会がまとめた最終報告をまとめたです。

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こうした心理の世界では常識となっている研究報告と、「さとり世代」の若者たちや、最近の子どもたちの様子を重ね合わせてたみたとき、若者・子どもたちの諦観とも言えるさとりの状態は、「関係性を求めても、それを得ることができなかった経験の産物」であるように思えてなりません。

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「怒り」を安心して表現できる環境が保障され、関係性の維持を求める欲求に応じてくれる養育者に出会うことができれば、乳幼児の「怒り」(泣き叫び)は、少しずつ洗練されていきます。

その子の発達度合いに応じて、ただ泣き叫ぶのではなく、身振りや手振り、言葉や意見など、もっと有効な方法で自分のニーズを表すようになっていき、やがて意見表明や自己主張と呼ばれるものへと変わっていきます。

一方、不運にも安全な環境や求めに応じてくれる養育者に恵まれなかった場合、子どもは「怒り」という、他者に助けを求めるサインを適切に表すことができなくなってしまいます。「求めても他者は応じてくれない」と学習し、他者の助け、他者との関係を求めることをやめてしまうのです。

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今、自分の思いや願いなどをぶつけてくる10代はめったにいません。とくに、怒りを表出する子が減ったように思えます。

当然、腹を立てるべき状況におかれても、「だって、仕方ないじゃん」という雰囲気です。
いえ、いじめ防止対策推進法は子どもを救う?(3)(4)」でも書いたように、腹を立てるべき状況に自分が置かれていることさえ、気づかない場合もあるのでしょう。

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私が実際に会った子どもたちも同じでした。

たとえば、私が編集・執筆に関わった児童養護施設で暮らす子どもたちの声を集めた『子どもが語る施設の暮らし』(明石書店)という本の取材で出会った子どもたちもそうです。

90年代はじめくらいまでに出会った子たちは、施設での生活に不満を述べ、自らをこんな境遇に置いたおとなへの憤りを語ってくれました。その激しい怒りの矛先は、ときにインタビュアーである私に向けられ、私の中にも強いネガティブな感情を呼び起こすほどでした。

ところが、90年代後半、とくに2000年に入ると事情が変わってきます。同じように児童養護施設で暮らすこどもたちに話を聞いたにもかかわらず、子どもたちは、言葉少なに「べつに不満はない」と言い、「だって、仕方ないじゃん」と、冷めた目で私を見つめていました。

何を聞いても「べつに」「フツー」「流すだけ」と答えられてしまうので、インタビュアーとして、「たとえばこういうことに不満はないの?」「こんなおとなのことをどう思う?」と、焦りながら質問をした思い出があります。

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でも、この『モノクローム』の世界観は、ここ10年くらいの間、私が10代から20代に対して感じていた“変化”と一致していました。

「怒り」から「あきらめ」へ

私が子どもや家族をめぐる問題とかかわり始めたのは1990年代半ば。その頃の子どもたちは、おとなや社会に対して、もっともっと、ずっとずっと辛辣でした。

本音と建て前を使い分ける親に嫌悪感を持ち、きちんと向き合おうとしない教師に腹を立て、社会の理不尽さに憤っていました。

言ってしまえば、あの伝説のシンガーソングライター、尾崎豊が歌ったおとなや社会への「怒り」に共感できるような感覚を持っていました。

ところが、2000年代に入ってからは違います。
おとなへの、社会への「怒り」は急速にしぼみ、代わりに子どもたちから感じるようになったのは「あきらめ」でした。

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確かに、怒りや悲しみなどの強い感情は私たちを圧倒し、打ちのめします。けして幸福感を与えてくれる感情ではないので、その感情を持ち続けるのはとても大変なことです。

そのうえ、このブログの「感情を失った時代(7)」などで書いたように、あるシチュエーションの中で当然、抱くであろう「リアルな感情」の存在が許されない現実もあります。

私たちの社会は、べつに特定の宗教に入信などしていなくても、現実社会に適応するべくーーとくに90年代に入ってからーー極力、心を動かさないよう、「感情的になることはよくないことだ」と、子どもたちに教えてきました。