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なにしろ長年、日本社会は“力による子ども支配”を「指導」や「しつけ」という名で許容、いや、積極的に肯定してきました。
そうして、「教師の言うことをよく聞く」「親の望むことをしてくれる」「おとな(社会)にとって育てやすい、社会にとって役立つ子」をつくってきました。

子どもを鋳型にはめるようなやり方は、ひとりひとりの子どもが本来持っている個性や能力が、その子らしい花となって開く機会を潰します。息苦しさに喘ぐ子どもの叫びを封印し、だれも分かってくれない寂しさに泣く子どもの声を奪います。

それでもがんばって反抗しようとする子どもは「非行少年」と呼ばれ、どうにかして「自分は辛いよ」とメッセージを発し続けた子どもは「発達障害」の枠組みにくくられ、無視されていきます。

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事実、虐待の相談数も、摘発数も増えています。

全国の警察が昨年1年間に摘発した児童虐待事件は前年比22.9%増の472件、被害にあった子どもは前年比19.6%増の476人で、いずれも統計のある1999年以降、最多でした(『日経新聞』2013年7月14日)。

摘発された加害者353人の64%は「実の親」(実父143人、実母83人)で、死亡したケースに限ると加害者28人のうち実母が21人にも上っています。

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今後も「労働の搾取」は、さらに進んでいくでしょう。

何しろ先日、安倍首相率いる現政府は、企業が従業員を解雇しやすい「特区」をつくる検討に入ったとの報道がありました(『朝日新聞』2013年9月20日)。

特区では、労働時間を規制せず、どれだけ休日に働いても、深夜まで残業しても賃金を派割らないことも認め、契約社員などが5年を超えて同じ職場で働いても無期契約で働くこともできなくし、ベンチャー企業や海外企業を呼び込むのだそうです。

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だから、「ブラックバイトと思っていない学生が少なくない。まず、認識をさせないと、相談に乗れないし、抗議もできない」と大内裕和中京大学教授(『東京新聞』2013年9月5日)が指摘するような問題も起こります。

『搾取される子どもたち(2)』でご紹介した「バイト中の事故で店長がポケットマネーから3000円をくれた」と話してくれた学生も、「自分がかってに事故に遭ったのに、3000円くれた店長はいい人だと思う」と語り、私をビックリさせました。

本来であれば、バイト中の事故の保障がまったくされないことはもちろん、店長がポケットマネーから口止め料とも言える見舞金を払うことも大問題のはずです。

それでも本人が「おかしい」と思わなければ、問題視されることはありません。

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『東京新聞』(2013年9月5日)には、こうしたブラック企業を増長させてしまう要因ともなっている、学生側のマインドについても次のような指摘がありました。

「簡単に辞めるようでは社会人として成功できないと考える学生も目立つ。激化する就職戦線に備え、バイトの職場をインターン先や修行の場と考えている」(甲南大学の阿部真大准教授・労働社会学)。
「企業の人事担当者の目を引く内容にするには他の人と違う経験がある方がいい。理不尽な苦労も面接用の応募資料に書き込める物語になると考え、我慢をする学生もいる」(日本大学の安藤至大准教授・労働経済学)。

確かに最近の高校生や大学生と話していると、「困難から逃げるのは良くないこと」「いったん何かをはじめたら途中で止めるのは負け犬」などの考えが極端に強いように感じます。

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せっかく就職できても、賃金未払いや過度のノルマ、長時間のサービス残業を課しておいて社員を使い捨てにするブラック企業の餌食にされることもあります。

いまやこのブラック企業の問題が、昨今はアルバイトにまで広がっています。

前回も書いたように、解雇しにくい正社員の採用を控える企業では、アルバイトなどの非正規労働者が大幅に増え、店長や現場責任者など職場で中核的な役割を担う役職まで、アルバイトが担うようになったためです。

「子どもの搾取」と言うと、ふつうは発展途上国に多い子どもに労働や売春を強いたり、子どもを人身売買の対象にするなどの行為を思い浮かべます。

しかし、最近の日本国内での統計や調査結果、新聞記事などを見ていると、「この国は、子どもの人生を搾取して、グローバル競争時代を生き残ろうとしている」と思いたくなってしまうことが多々あります。

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子どもが、真に自分を大切にし、自分らしく生きながら、他人のためにもエネルギーを注ぐことができるような人間へと成長・発達するためには、身近なおとなに無条件で愛される必要があります。

たとえ市場価値に合わない“ダメな子”でも、「そのままでいいんだ」と抱えられ、受け入れてもらう必要があります。

なぜなら、そうしたおとなとの関わりを持てなければ、「自分はそのままで価値がある」という自己肯定感や「世の中は自分を受け入れてくれている」という基本的信頼感、「自分の痛みに共感してもらった」という共感能力は決して発達しないからです。

これらの感覚や能力は、道徳教育や法律をつくることで、外から埋め込めるものでは決してありません。

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これでは、子どもたちがお互いをランク付けし合うようになるのも当たり前です。

「だれかとつながる」のではなく、「だれかを蹴落とす」競争は、人と人とを分断します。子どもが生まれながらに持っているはずの、他者とつながるために必要な「他者の痛みを自分のものと感じる能力」(共感能力)を蝕みます。

だからたとえば、強い立場にいる子は「相手は傷つくかもしれない」と想像をめぐらせたり、自分の利益につながらないことは「なるべく止めよう」と思うようになってしまったりします。

一方、弱い立場にいる子は、下に見られ、理不尽な扱いをされても「それは自分が悪いんだ」と、自己責任の論理を受け入れ、不当なことでも甘んじて受けるようになります。
強者に刃向って序列から外されることは、その世界から抹殺されるよりは、よっぽどいいからです。

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ではなぜ、こんなにも子どもたちがうまく成長発達できなくなってしまったのでしょうか。
相手を値踏みし合ったり、ランク付けし合ったり、貶め合ったり・・・そんな、人間として恥ずかしいことを日常的に平気で行うことがめずらしくなくなってしまったのでしょうか。

理由は簡単です。
競争によって成果を奪い合うことを是とする私たちの社会が、常に相手を値踏みし、人を序列・ランク付けし、さまざまな意味で、少しでも自分より下の人間を見つけては安心感を得る社会になってしまっているからです。