このシリーズの最初の記事へ

だから、「ブラックバイトと思っていない学生が少なくない。まず、認識をさせないと、相談に乗れないし、抗議もできない」と大内裕和中京大学教授(『東京新聞』2013年9月5日)が指摘するような問題も起こります。

『搾取される子どもたち(2)』でご紹介した「バイト中の事故で店長がポケットマネーから3000円をくれた」と話してくれた学生も、「自分がかってに事故に遭ったのに、3000円くれた店長はいい人だと思う」と語り、私をビックリさせました。

本来であれば、バイト中の事故の保障がまったくされないことはもちろん、店長がポケットマネーから口止め料とも言える見舞金を払うことも大問題のはずです。

それでも本人が「おかしい」と思わなければ、問題視されることはありません。

このシリーズの最初の記事へ

『東京新聞』(2013年9月5日)には、こうしたブラック企業を増長させてしまう要因ともなっている、学生側のマインドについても次のような指摘がありました。

「簡単に辞めるようでは社会人として成功できないと考える学生も目立つ。激化する就職戦線に備え、バイトの職場をインターン先や修行の場と考えている」(甲南大学の阿部真大准教授・労働社会学)。
「企業の人事担当者の目を引く内容にするには他の人と違う経験がある方がいい。理不尽な苦労も面接用の応募資料に書き込める物語になると考え、我慢をする学生もいる」(日本大学の安藤至大准教授・労働経済学)。

確かに最近の高校生や大学生と話していると、「困難から逃げるのは良くないこと」「いったん何かをはじめたら途中で止めるのは負け犬」などの考えが極端に強いように感じます。

このシリーズの最初の記事へ

せっかく就職できても、賃金未払いや過度のノルマ、長時間のサービス残業を課しておいて社員を使い捨てにするブラック企業の餌食にされることもあります。

いまやこのブラック企業の問題が、昨今はアルバイトにまで広がっています。

前回も書いたように、解雇しにくい正社員の採用を控える企業では、アルバイトなどの非正規労働者が大幅に増え、店長や現場責任者など職場で中核的な役割を担う役職まで、アルバイトが担うようになったためです。

「子どもの搾取」と言うと、ふつうは発展途上国に多い子どもに労働や売春を強いたり、子どもを人身売買の対象にするなどの行為を思い浮かべます。

しかし、最近の日本国内での統計や調査結果、新聞記事などを見ていると、「この国は、子どもの人生を搾取して、グローバル競争時代を生き残ろうとしている」と思いたくなってしまうことが多々あります。

このシリーズの最初の記事へ

子どもが、真に自分を大切にし、自分らしく生きながら、他人のためにもエネルギーを注ぐことができるような人間へと成長・発達するためには、身近なおとなに無条件で愛される必要があります。

たとえ市場価値に合わない“ダメな子”でも、「そのままでいいんだ」と抱えられ、受け入れてもらう必要があります。

なぜなら、そうしたおとなとの関わりを持てなければ、「自分はそのままで価値がある」という自己肯定感や「世の中は自分を受け入れてくれている」という基本的信頼感、「自分の痛みに共感してもらった」という共感能力は決して発達しないからです。

これらの感覚や能力は、道徳教育や法律をつくることで、外から埋め込めるものでは決してありません。

このシリーズの最初の記事へ

これでは、子どもたちがお互いをランク付けし合うようになるのも当たり前です。

「だれかとつながる」のではなく、「だれかを蹴落とす」競争は、人と人とを分断します。子どもが生まれながらに持っているはずの、他者とつながるために必要な「他者の痛みを自分のものと感じる能力」(共感能力)を蝕みます。

だからたとえば、強い立場にいる子は「相手は傷つくかもしれない」と想像をめぐらせたり、自分の利益につながらないことは「なるべく止めよう」と思うようになってしまったりします。

一方、弱い立場にいる子は、下に見られ、理不尽な扱いをされても「それは自分が悪いんだ」と、自己責任の論理を受け入れ、不当なことでも甘んじて受けるようになります。
強者に刃向って序列から外されることは、その世界から抹殺されるよりは、よっぽどいいからです。

このシリーズの最初の記事へ

ではなぜ、こんなにも子どもたちがうまく成長発達できなくなってしまったのでしょうか。
相手を値踏みし合ったり、ランク付けし合ったり、貶め合ったり・・・そんな、人間として恥ずかしいことを日常的に平気で行うことがめずらしくなくなってしまったのでしょうか。

理由は簡単です。
競争によって成果を奪い合うことを是とする私たちの社会が、常に相手を値踏みし、人を序列・ランク付けし、さまざまな意味で、少しでも自分より下の人間を見つけては安心感を得る社会になってしまっているからです。

このシリーズの最初の記事へ

前回ご紹介した『教室内(スクール)カースト』(鈴木翔著・光文社新書)という本でも、教師がこうした上下関係をどのように理解しているのか、興味深い考察が記されています(第4章後半から第5章)。

端的に言うと、教師は「自己主張ができて『カリスマ』的な『強い』生徒は『上』で、『やる気がなく』『意思表示しない』『弱い』生徒は『下』であると考え、「教師はこうした生徒間の上下関係を利用して、教室内の秩序を維持しようとしている」(302ページ)そうです。

このシリーズの最初の記事へ

本当にスクールカーストなるものは存在するのでしょうか。

都内に住む高校一年生の女生徒に尋ねてみました。すると、驚く答えが返ってきました。

「うちの中学には『ハデーズ』と『ジミーズ』というグループがあった。きっちりした基準みたいなものはなかったけど、みんなだれがどのグループか認識していた。グループは固定されていて、入れ替わることはなかった」

彼女によると、「ハデーズ」は、明るくていい意味でも悪い意味でもみんなを引っ張って行く子たちのグループで、強い発言権を持っていたそうです。対する「ジミーズ」は地味な子たちのグループで、たとえばアニメ好きなどのオタクと呼ばれる子たちが入っていたとのこと。

「ハデーズ」はいつも偉そうな感じで、「ジミーズ」を“いじって”いて、見下しているようだったとのことです。
たとえばプリントを取りに行くとか、ちょっと面倒なことを「ジミーズ」にさせていて、「ジミーズ」は黙って従っていたとのこと。

いわゆる「アゴで使う」ような感じだったようなのですが、言葉としては「取って来て」と言うだけ。そのニュアンスを文字で表現するのはとても難しと思います。

このシリーズの最初の記事へ

前出の教師が、「それはいじめじゃないの?」とやられている側の子に尋ねたときも、「いじめなんて言われたらプライドが許さない」との答えが返ってきたとのこと。

やられている側の子も笑ってはしゃいでいるため、教員の方も「遊んでいるんだ」と思ってしまいがちです。“いじられキャラ”が、たとえいじめの延長線上にあるものであったとしても、周囲はおろか、本人でさえ気付かないのです。