なにしろ長年、日本社会は“力による子ども支配”を「指導」や「しつけ」という名で許容、いや、積極的に肯定してきました。
そうして、「教師の言うことをよく聞く」「親の望むことをしてくれる」「おとな(社会)にとって育てやすい、社会にとって役立つ子」をつくってきました。
子どもを鋳型にはめるようなやり方は、ひとりひとりの子どもが本来持っている個性や能力が、その子らしい花となって開く機会を潰します。息苦しさに喘ぐ子どもの叫びを封印し、だれも分かってくれない寂しさに泣く子どもの声を奪います。
それでもがんばって反抗しようとする子どもは「非行少年」と呼ばれ、どうにかして「自分は辛いよ」とメッセージを発し続けた子どもは「発達障害」の枠組みにくくられ、無視されていきます。