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前回までに述べたような研究、実証、いえ、現実があるからこそ、科学的・歴史的・世界的に認められた子どものための国際条約である子どもの権利条約は、「子どもは、愛情と理解ある家庭環境の中で子どもが成長すべき」として、「子どもの成長および福祉のため、責任を十分に引き受けられるような保護と援助を家族に与えよ」と述べているのです(子どもの権利条約 前文)。

だからこそ国連子どもの権利委員会は、子どもの権利条約12条を「子どもがありのままの意見・欲求を身近なおとなに表明し、それに適切に応答してもらう権利」と解釈したのです(2005年11月「乳幼児期(出生から8歳まで)における子どもの権利」に関する一般見解)。

このシリーズの最初の記事へ ミラー氏によると、ショル家だけでなく自分の命を危険にさらしてまでユダヤ人を救おうとした人たちの生育環境に共通していたのは、「親だからと言って上から命令したり、暴力で子どもを支配するようなことがなかった」ということでした。

そうした人たちの両親は、子どもとよく話し、「なぜそう思うのか」と子どもに問い、子どもが悪いことをしたときには「なぜ悪いのか」をきちんと説明してくれるような人たちだったというのです。

平たく言えば、力で子どもの尊厳をつぶすことなく、子どもの発するメッセージにきちんと耳を傾けてくれるようなおとなとの関係性の中で育った人たちだったということでしょう。

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こうした「内なる暴力」に抗うには、どうしたらいいのでしょうか。「平和の国はどこにある?」(2)でも示したとおり、規範や価値観を教え込んで超自我を強めても、効果がないことは、過去の歴史が証明しています。

いや、現在進行形の各国の紛争・戦争をはじめ、ヘイトスピーチや、原発の再稼動や武器輸出の問題。パワハラ、体罰、いじめ、虐待・・・現代社会に噴出する、命や尊厳を脅かすさまざまな問題が、それを証明しています。

なんだか絶望的な気分になってきますが、打つ手はあります。

「内なる暴力」が私たちの心の中から生まれてくるのであれば、それが生まれないようにすればよいのです。不幸な子ども時代が、「内なる暴力」を生み、増幅させるのですから、多くの子どもが幸せな子ども時代を送れるような社会を築けばよいのです。

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では、人類史上、一度も存在したことのない平和の文化を築くには、どうしたらいいのでしょうか。それよりなにより、暴力というものはいったいどこから生まれてくるのでしょうか。

それは、わたしたちひとりひとりの心の中です。私たちはだれもが心に「内なる暴力」ーー子どもの頃から身に受けてきた自覚できていない暴力ーーを抱えているのです。

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そもそも平和とはどんな状態を指すのでしょう。
戦争がなくて、テロがなくて、食べ物が十分にあれば平和と言えるのでしょうか。

もしそうだとしたら、世界の国々と比較すれば戦後の日本はほかに類のない平和な国ということになります。
間接的にアメリカ軍を応援したり、自衛隊の増強を図ってきたり、集団的自衛権を行使できるよう憲法解釈を変更するなど、「本当に戦争を放棄した国なの?」と思う動きは多々あしますが、少なくとも具体的な戦闘状態というのはありませんでした。

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その後も、イスラエルとパレスチナの戦闘はどんどん激しさを増しています。
イスラエル軍の軍事作戦がはじまった7月8日以降、パレスチナ人の犠牲者は550人にも及び、21日には7人の子どもを含む9人が死亡。病院までもが砲撃の対象になっていると報道されています(『東京新聞』2014年7月22日)。

また、ロシアとウクライナの関係が悪化する中、今月17日には、乗客乗員295人を乗せてオランダからマレーシアに向かっていたマレーシア航空の旅客機がウクライナ東部で墜落するという事故が起きました。
墜落の原因は、親ロシア派による撃墜との見方が濃厚です。

二度にわたる世界大戦を教訓に、国際社会が「平和」「平和」と言い続けてきたはずなのに、現実はまったく違う方向に向かっているように見えてなりません。

安倍首相率いる政府は、7月1日、集団的自衛権の行使を容認するための憲法解釈変更を決定しました。

これは、戦後日本が守り続けてきた安全保障の道を大きく転換させるものです。ずっと「専守防衛」を言い続けてきた日本が、海外での自衛隊による武力行使にも道を開きます。

今まで日本は、たとえ集団的自衛権を持っていても、憲法上その行使は許されないという姿勢でした。

ところが今回の解釈変更によって、「わが国に対する急迫不正の侵害の発生」としてきた自衛権の発動は、「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」に変わり、国民の権利が「根底から覆される明白な危険がある場合」は自衛権を発動できると改めました。

でも、いったいだれが、何を持って「根底から覆される」と判断するのでしょうか。「我が国と密接な関係」とはどんな関係を意味するのでしょうか。とても曖昧です。

「日本人は平和ぼけしている」「自分の国は自分の力で守るべきだ」と主張する声がある一方で、こうした安倍首相率いる日本政府の動きを「戦争への道を開くもの」「平和憲法に背くもの」と批判する声も強まっています。

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「なぜ、山側(学校を出て左側)に逃げたのか」という謎は深まるばかりですが、その疑問はちょっと置いておきましょう。

せっかく山側へと逃げたのですから、そのまま三角地帯とは逆方向の、あの子どもたちが日常的に遊んでいた裏山を目指せば、もっと多くの命が助かったことでしょう。

なぜそうしなかったのでしょうか。これもまた大きな疑問です。

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もっとも津波や地震に詳しい教師の意見が通らなかったことも不思議ですが、「避難先に、なぜ新北上大橋たもとの堤防上にある三角地帯(学校から約250メートル離れたところにある)を選んだのか」も大きな謎です。

確かに、海抜1~2メートルの大川小から見れば、三角地帯は数メートル高い場所にあります。私が実際にこの場所に行ったときにも「校舎より高い」との印象は覚えました。

でも、3月11日のあの日、15時時32分にラジオが伝えた予想津波高は10メートル。しかも、津波が来る川は、すぐ目の前です。これでは、「あえて津波に向かっていく」ようなものです。

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教師には、子どもの命と安全を守る義務があります。教師ではない、多くのおとなであれば見過ごしてしまうような危険であったとしても、それを予見し、回避することが求めらます。

そのような専門家であるからこそ、親は安心して子どもを学校に預け、教師を信頼することができるのです。