さとり世代(6/10)
でも、この『モノクローム』の世界観は、ここ10年くらいの間、私が10代から20代に対して感じていた“変化”と一致していました。
「怒り」から「あきらめ」へ
私が子どもや家族をめぐる問題とかかわり始めたのは1990年代半ば。その頃の子どもたちは、おとなや社会に対して、もっともっと、ずっとずっと辛辣でした。
本音と建て前を使い分ける親に嫌悪感を持ち、きちんと向き合おうとしない教師に腹を立て、社会の理不尽さに憤っていました。
言ってしまえば、あの伝説のシンガーソングライター、尾崎豊が歌ったおとなや社会への「怒り」に共感できるような感覚を持っていました。
ところが、2000年代に入ってからは違います。
おとなへの、社会への「怒り」は急速にしぼみ、代わりに子どもたちから感じるようになったのは「あきらめ」でした。
尾崎豊と加藤ミリヤの違い
そんな子どもたちのマインドの変化は、尾崎豊が1985年に発表した『卒業』と、1988年生まれのシンガーソングライター・加藤ミリヤが20006年に発表した『ソツギョウ』の違いに端的に現れています。
たとえば尾崎は「行儀よくまじめなんて クソくらえと 思った 夜の校舎 窓ガラス壊してまわった 逆らい続け あがき続けた 早く自由になりたかった 信じられぬおとなとの争いの中で 許しあい いったい何 解りあえただろう」と歌いました。
これに対し加藤は「気付いて欲しい ここに居るのに some teachers hated me わかる訳ない 何も知らないくせに I never go there no more 意味もない 行き場だってない 私だったから たった一つ見つけ出す その日が来る 壊されそうで it feels like killing 助けを求めて ねえ 泣いて泣いて泣いて泣いた答えここに 今 支配の中を抜け出して」と歌っています。
どちらも、「支配から脱(卒業)して自由になるのだ」と歌っているのですが、そのトーンはかなり違います。
上記サイトで歌詞の全文を読んでいただけば、その違いがさらに分かっていただけると思うのですが、尾崎は窓ガラスを割ったり、おとなに逆らい続けたりして、積極的な「怒り」というかたちで自分の思いを表現します。
一方の加藤は、「気づいて欲しい」「助けて欲しい」と、常に消極的です。尾崎の歌詞から強烈に感じる「怒り」は姿を消し、自分からは何も働きかけることはしない孤独な姿が浮かびます。(続く…)