「オウム真理教」と聞くと、それだけで、なにやら得たいの知れない、恐ろしいイメージを持つ方もいらっしゃることと思います。
その信者の方々に対しても、「あんな凶悪事件を起こすような教えを信じていた凶悪な人間」「マインドコントロールされ、自分の頭でものを考えられない人間」「親子の絆など、人と人とのつながりを否定する冷酷な人間」・・・そんな印象を持っている方も、けっこう多いのではないでしょうか。
「オウム真理教」と聞くと、それだけで、なにやら得たいの知れない、恐ろしいイメージを持つ方もいらっしゃることと思います。
その信者の方々に対しても、「あんな凶悪事件を起こすような教えを信じていた凶悪な人間」「マインドコントロールされ、自分の頭でものを考えられない人間」「親子の絆など、人と人とのつながりを否定する冷酷な人間」・・・そんな印象を持っている方も、けっこう多いのではないでしょうか。
世の流れに棹さしがちな私などは、そもそも『知恵蔵2013』の解説が指摘するように「高度成長期後のモノが十分に行き渡っていた時代に生まれ、物心ついたときにはバブルが崩壊し、不況しか知らない。一方で、情報通信技術の進歩と共に、当たり前のようにインターネットに触れてきた」時代を「成熟した時代」と呼ぶことにもひっかかってしまいます。
ちょっと脱線になりますが、現在を「成熟時代」と呼び、日本など先進諸国を「成熟社会」と呼ぶ人がいますが、いったい何をもって「成熟している」と考えるのでしょうか。
このユニセフ調査をはじめ、『絶望の国の幸福な若者たち』(古市憲寿著・講談社)という本など、「実は日本の子ども・若者の幸福度はけっこう高いのではないか」と思うような調査や主張をたびたび目にします。
実際には、昨年末のブログ「搾取される子どもたち」で書いたような状況があるのに、日本の子どもや若者は、本当に「自分たちは幸福だ」と思っているのでしょうか。
それとも、生き延びるために、格差や矛盾がいっぱいの世の中を否認しているのでしょうか。それともまったく、不満や不平、辛さを感じないということなのでしょうか。
松の内も過ぎた今頃になってのご挨拶で恐縮なのですが、新年明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
世の中は、「景気回復」、久々の「賃金引き上げ」と騒いでいますが、今年はいったいどんな年になるのでしょうか。
消費税アップ、社会保障費の負担増、進まない被災者の生活再建など、多くの課題があるなかで、少しだけでも明るいニュースも拾って行ける年になればと願っています。
なんだか、人間と同じではありませんか?
おとなや社会の都合に合わせて、“よい子”をつくる子育ては、一見、手っ取り早く、合理的で、理想の子どもができあがりそうな感じがします。
私たちおとなは、「いまの社会の規格に合わない部分は削り落とし、そぎ落としてしまえば、ちゃんと社会に適応したおとなになれるはず」・・・そんなふうに思いがちです。
でも、目の前に広がる子どもたちの現実を見ていると、どうも、そううまくはいかなさそうです。
今年も、いじめやスクールカースト、ネット依存などさまざまな子どもたちの問題をこのブログでは、書いてきました。
つい最近も、隙間やあそびの部分が無く、規格に合わせることだけをさせられた結果、社会に出て行こうことができないニートと呼ばれる若者が23年には60万人に達したという厚生労働省の発表もありました(若者雇用関連データ)。
こうした「声なきもの」、「うまく言葉を発することができないもの」の声に耳を澄ませ、相手の思いを形にすることで、見事なものをつくりあげるという思想や行いは、たくさんあります。
自然を征服するのではなく、自然と共に歩み、自然の知恵を活かし、自然をうまく利用することで、豊かさを享受してきた日本には数多く残されています。
禅の言葉に「啐啄同時」(そったくどうじ)というものがあるそうです。
卵の中のひな鳥が殻を破って外へ出ようとするとき、殻を内側からコツコツとつつくことを「啐」といい、それに呼応して親鳥が外から殻をコツコツとつつくことを「啄」といいます。
実はこの「啄」のタイミングは非常に微妙で、早くても、遅くても、ひなどりの命を危うくします。
だから、ひな鳥の「外に出たい」という願いが、ちゃんと親鳥に通じ、ひとつの生命が誕生する「機を得て両者相応じる得難い好機」のことを「啐啄同時」と呼ぶのだとか。
私がこの「啐啄」という言葉を知ったのは、愛媛県にある地酒屋さんがつくった「啐啄」という日本酒をいただいたことがきっかけでした。
どんな意味が想像も付かないネーミングだったので調べてみたところ、冒頭に書いたひな鳥と親鳥の話と分かったのです。
子どもたちは、いつでも周囲から浮かぬよう、けっして嫌われぬよう、その場、その場で“求められるキャラ”を演じることで、かろうじて友達関係を維持しています。本音も、本当の自分も出せないから、いつでも孤独で寂しいのです。
そんな子どもにとってネットは、つかのまの出会いや人とのつながり、暇つぶしの機会を与えてくる魔法のツール。それが今や片手に収まるサイズになったのですから、手放せなくなるのは当然です。
(続く…)
労働を搾取され、命を搾取され、叫びとも言える声を搾取された子どもたちは、いつでも虚しさや寂しさを抱えて生きています。
それを端的に表すのが、「中高生の約52万人がネット依存」と結論づけた厚生労働省の調査結果です。
その後、奇跡的に助かった子どもたちや、震災の日「いったい何があったのか」を勇気を持って語ってくれた子どもたちの声も、石巻市教育委員会によって踏みにじられました。子どもたちが語った重要な記録が破棄されてしまったのです。
さらには、命を落とした子どもたちの代弁者として真実を明らかにしようとするご遺族たちの調査も声も無視され、石巻市が依頼した検証委員会はこの10月20日の委員会で出した「とりまとめ案」に「『山へ逃げよう』という子どもの証言は精査中」として盛り込みませんでした。
まさに三重にも四重にわたる「子どもの声の搾取」です。