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ただ一方的に情報を取ろうとすれば、人は身を守ろうと構えます。疑ってかかられているならなおのこと。理解してくれない相手に真実を話す気になどなりません。最初から疑ってかかる相手に対して「本心を語れ」という方がどだい無理なのです。

本心を語って欲しいのなら、追い詰められている当事者の痛みを理解し、それを分かち合おうとする姿勢が必要です。
それが信頼関係を生み、当事者がひとりで抱え込んでいる困難をだれかに預けることができるようになります。虐待ケースであれば、結果的に子どもの命を救うことにつながるのです。

もし、そうした時間をかける余裕が無いほど危機的であると判断するならば、緊急に一時保護すべきです。子どもの命と人生を守る児相には、そうした状況判断ができる力量ある専門家が配置されなければならないのではないでしょうか。

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大前提として、虐待のケースが後を絶たないことは否定しません。たくさんのケースを抱えて走り回る児相職員の方がいるのも知っています。繰り返しになりますが、何よりもこの国の福祉行政の貧しさが大問題だということも分かっています。

しかしそれでも、先のブログで紹介した女子高校生の声などを聴くと、「職員の対応も見直すべき点があったのではないか」と思うことがあります。

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ここまで読まれた方の中には、「児童相談所(児相)がまさかそんなことをするの?!」と、にわかには信じられない方も多いのではないでしょうか。

実は私もそうでした。

私が知っている限り、児童相談所や子ども家庭支援センターなど、虐待問題に関わる職員は、どちらかというと「積極的に親子を引き離すようなことはしない」という印象をもっていました。
カウンセラーの立場で「しばらくの間、分離した方がよい」とか「祖父母等、親権者以外の養育者が育てる方がよい」などと進言しても、聞き入れてもらえることはめったにありません。

その背景にはもちろん、今回のブログ冒頭で書いたような児相の人手不足という問題もありますし、事実誤認だった場合の責任を考えると、なかなか強硬な態度に出られないということもあるでしょう。

親子分離をタブー視していたり、「できる限り行政の手は借りず、自己責任で解決して欲しい」というような雰囲気も感じられました。

そんな「親子分離に消極的」という今までの児相の問題を覆すように、女の子の話は次のように続きます。

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だから子どもの気持ちは無視し、事実関係もろくに確かめず、親から引き離すなんていう悲劇も生まれます。

次のパラグラフ以下でご紹介するのは子どもの権利条約に基づく国連NGO・DCI日本発行の『子どもの権利モニター』(120号)に寄せられた、ある高校生の女の子のお話です。

女の子は、とある理由から「虐待を受けた」と友達に嘘をつきました。年ごとの女の子なら、親に反抗したかったり、友達をびっくりさせるような冗談を言ってみたりするものです。

ところがその嘘が一人歩きし、児相によって一時保護され、いくら「嘘だった」と言っても認めてもらえず、大事な高校受験期を母親から引き離されて過ごし、中学校の卒業式にも出られなくなってしまいました。

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今から数年前に、社会的養護の現実を取材したことがあります。
そのとき分かったのは、ひとりの児童相談所職員(児相)が抱えるケースの多さです。100件を超えていることもざらで、多いと130ものケースを担当していました。

そのほとんどは、危険な虐待が疑われるケースです。法律上は、18歳未満の子どもに関するあらゆる相談に応じるのが児相の役目ですが、実際には、「生きるか、死ぬか」のようなケースが優先され、それ以外のケースは後回し、もしくは手つかずの状態になってしまいます。

「だからしょうがない」とは言いませんが、その大変さは察してあまりあるものがあります。

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虐待は増えているのか、そうでないのか。実際はどうなのでしょう。
興味深い話があります。

虐待を受けたために、養育者との間に健全な絆(愛着関係)を築けなかった子どもや、親を失って施設などで暮らす子どもたちの調査・研究から知られるようになった愛着障害という診断名があります。

子どもは、養育者との間に愛着関係を結ぶことで、養育者を安全基地とし、探索行動をし、認知を広げ、人との良い関係も築けるようになります。ごく簡単に言うと、愛着障害とは、それがそれがうまくできない、障害された状態を指します。

8月はじめ、全国の児童相談所が2013年度に対応した児童虐待の件数は7万件を突破したというニュースがありました。(速報値)これで、23年連続で過去最多を更新したことになります。

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前回までに述べたような研究、実証、いえ、現実があるからこそ、科学的・歴史的・世界的に認められた子どものための国際条約である子どもの権利条約は、「子どもは、愛情と理解ある家庭環境の中で子どもが成長すべき」として、「子どもの成長および福祉のため、責任を十分に引き受けられるような保護と援助を家族に与えよ」と述べているのです(子どもの権利条約 前文)。

だからこそ国連子どもの権利委員会は、子どもの権利条約12条を「子どもがありのままの意見・欲求を身近なおとなに表明し、それに適切に応答してもらう権利」と解釈したのです(2005年11月「乳幼児期(出生から8歳まで)における子どもの権利」に関する一般見解)。

このシリーズの最初の記事へ ミラー氏によると、ショル家だけでなく自分の命を危険にさらしてまでユダヤ人を救おうとした人たちの生育環境に共通していたのは、「親だからと言って上から命令したり、暴力で子どもを支配するようなことがなかった」ということでした。

そうした人たちの両親は、子どもとよく話し、「なぜそう思うのか」と子どもに問い、子どもが悪いことをしたときには「なぜ悪いのか」をきちんと説明してくれるような人たちだったというのです。

平たく言えば、力で子どもの尊厳をつぶすことなく、子どもの発するメッセージにきちんと耳を傾けてくれるようなおとなとの関係性の中で育った人たちだったということでしょう。

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こうした「内なる暴力」に抗うには、どうしたらいいのでしょうか。「平和の国はどこにある?」(2)でも示したとおり、規範や価値観を教え込んで超自我を強めても、効果がないことは、過去の歴史が証明しています。

いや、現在進行形の各国の紛争・戦争をはじめ、ヘイトスピーチや、原発の再稼動や武器輸出の問題。パワハラ、体罰、いじめ、虐待・・・現代社会に噴出する、命や尊厳を脅かすさまざまな問題が、それを証明しています。

なんだか絶望的な気分になってきますが、打つ手はあります。

「内なる暴力」が私たちの心の中から生まれてくるのであれば、それが生まれないようにすればよいのです。不幸な子ども時代が、「内なる暴力」を生み、増幅させるのですから、多くの子どもが幸せな子ども時代を送れるような社会を築けばよいのです。