昨年末、このブログで国際的な「子どもの成長・発達のための約束ごと」である子どもの権利条約にもとづいた日本政府報告審査に向け、「自分たちの現状を訴えよう」と8人の子どもが国連「子どもの権利委員会」に『子ども報告書』を提出したということを書きました。

 そのときに引用した「多様性を認めない学校には行きたくない」とのタイトルの『子ども報告書』を書いた男の子は、「扱いづらかったり、自分の意見を持って発言したり、授業がつまらないから勉強に身が入らないでいたりすると、すぐに『発達障害』にされる」と、昨今の学校現場の風潮を述べていましたが、異質なものを排除しようという傾向は今にはじまったものではありません。

 日本の学校教育では、昔からずーっと差別というものが、歴然と存在し続けてきました。

ケーキ「『どのくらいの量を食べたいか』とか『トッピングに何がのってるところが欲しい?』など、一人ひとりの子どもに聞いていくのです。たとえば『どうしてもいちごが食べたい』という子には、『じゃあ、その分、スポンジは他の子が多くてもいいかな』と尋ねたり、『デコレーションされている人形のチョコレートが食べたい』と言った子には、『今回はあげるから、次回はお友達に譲ってね』などと言いながら、『一人ひとりの子どもが望むように、なるべくみんなが納得するようにケーキをカットして配ることこそが平等である』と、その保育園では教えていました」(園長先生)

 私は「なるほど!」と、ひざを打つ思いでした。

ケーキ そんなふうに平等について考えていて、ふと、子どもの権利条約の講演でご一緒した、ある保育園の園長先生にうかがった話を思いだしました。

 スウェーデンだったか、ノルウェーだったか、はたまたデンマークかフィンランドの話だったのか、正確には覚えていないのですが、その園長先生がかつて見学に行ったことがあるという、とある北欧の国の保育園でのエピソードです。

 園長先生が見学した日、保育園では「ひとつのホール・ケーキをみんなで平等に分けるにはどうしたらいいか」と話していたと言い、園長先生は私を含めて会場全体のおとなに、こう尋ねてきました。

「いったいどんなふうに分けるのが平等になると思いますか?」

 この問いに、みなさんならどんなふうに答えるでしょうか。

子ども 東京では桜が満開を迎え春本番。卒業式が終わり、入学式も間近になってきました。

入学式と言えば、つい最近までちまたの話題をさらっていたのは東京・銀座にある中央区立泰明小学校が4月に入学する新1年生から、イタリアの高級ブランド「アルマーニ」がデザインを監修した標準服(制服)を導入する方針を示したという一件でした。

アルマーニというブランド名だけでなく、セーターなどまで含めると計8万円にもなる高額商品だったことから、批判や物議を醸しました。

仮面 そんなふうに親も子も・・・とくに子どもは生まれたときから「みんなと同じ」に過ごすようにとされて行くわけですから、知らず知らずのうちに同調バイアスに縛られてしまうこともうなずけます。

 小学校に入る頃には、自分の感情よりも周囲のおとなの気持ちや期待を優先し、友達の様子をうかがっては自分だけ浮いてしまわないよう務め、社会が是認する価値に合わせて頑張る子どもや、そんなふうにできないことを卑下したり、「自分はダメだ」と思ってしまう子どもができあがります。

「みんなと同じ」に振る舞えなかったり、「みんなと同じ」ことに違和感を持つ子どもは、学校を中心とした同調サークルからはじき出されてしまうこともあるので、子どもにとっては「みんなと同じ」であることは、とっても大切なのです。

 学校のなかだけでなく、考え方や遊び方、興味の対象や放課後の過ごし方まで、子どもたちはさまざまな同調バイアスに縛られています。

「友達の間で人気のゲームやマンガ、テレビ番組を見ていないと仲間に入れない」、「ノリが良くて笑いを取れるようなでないとみんなとうまくやれない」、「じっくり本を読んだりゆっくりものを考えたりするような人間は浮いてしまう」・・・そんな話を中高生のクライアントさんからよく聞きます。

不登校 子どもたちを縛る同調バイアスがいかに苦しいものか。・・・2010年の第3回日本政府報告審査時に国連「子どもの権利委員会」でプレゼンテーションをした子どもが語ったことからも明らかです。
 ある子どもは、子ども同士の閉塞的な人間関係について次のように発言しました。

「私達は『苦しくてあたりまえ』という奇妙な連帯感に縛られていて、へたに声を発すれば嫉妬や恨みを買ってしまうので、自分の本当の心を殺し、お互いに演技を続けています。私達は自分の要求や欲求を口に出せないことよりも、一人だけ浮いてしまうことの方が怖くて、人間関係に臆病になり、関係性が壊れることを恐れて、‘発言’することを避けます。
 周囲がどう自分を評価しているかを気にするあまり、存在するかどうかも分からない『他人の感情』に怯え、他人と同調し、いつしか自分の感情さえも解らなくなるーー。そんな不気味な関係の中で生きています」(国連に子どもの声を届ける会『子どもの権利モニター』NO.103 81ページ)

行列 津波が来ると聞きながらも、おとなしく渋滞の列に並んでいた人々。

 その番組を見ながら、私は311のあと不足しがちだったガソリンや灯油を求めるため、私の家の近所にあるガソリンスタンドを目指して整然と並んでいた車の列を思い出していました。何百メートル、いや、もしかしたら1キロくらいに渡って並んでいたのです。

 未曾有の震災を体験し、だれもが得たいの知れない不安感、先の見えない恐怖のようなものを抱えていたと思います。

 ガソリンや灯油だけでなく、東京周辺でもトイレットペーパーや水など一部の物が品薄になっていました。計画停電が行われ、明るいテレビ番組は自粛。やたらにACジャパンのCMが流れていました。

 当時、私が相談にうかがっていたある施設では、「ACジャパンのCMを聞くと泣き出す子どもがいる」という話を聞いたほど、テレビを点けるだけでどこか異様な雰囲気が感じ取れ、前に書いたように通勤・通学するだけで一苦労というような、日常から遠く離れた日々が続いていました。

 そんな異常事態のなかでも、文句を言うことも無ければ、割り込もうとする人もいない風景。じーっと列に並び、たんたんと進んで行く車の、その落ち着いた様子が、逆に異様な光景のような感じがしました。

津波 311直後には、こうした日本人のきまじめさ、規範意識の高さが、たびたび海外メディアにも取り上げられました。

未曾有の大地震に見舞われ原発事故まで起き、燃料や食糧が不足しても、奪い合うこともパニックを起こすこともなく、だれかを押しのけて暴走することも無く、自分の順番が来るまで整然と並んでみんなと一緒に待つ姿が「美徳である」と語られました。

雪 東京が「4年ぶりの大雪に見舞われる」と天気予報が告げた日、最寄りの駅に行くと「緊急のお知らせ」という立て看板が置かれていました。通常は、人身事故で周囲の関係各線が止まったときなどに出るものです。

「もしや人身事故で出勤できない?」と、あわてて看板に近寄ると、
「来週月曜日(1月22日)に関東地方で大雪の予報が出ています。電車が通常運行できない場合があり、交通に影響が出る可能性があります。いつもより余裕を持っての乗車をお願いします」といった内容でした。

もしかしたら、私の最寄り駅の話だけなのかもしれませんが、まだ雪も降っていないうちから「緊急のお知らせ」を出すなんて・・・。よく言えば、その律儀さというかまじめぶりに、悪く言えば責任どうにか回避しようとい姿勢に、思わず吹き出してしまいました。