裁判員制度の導入に向かっていた当時、司法に関わる者の研修に関しても気になる話を耳にしました。
取材を受けてくれた調査官は「非行につながる環境要因等は簡略化し、『刑事処分相当』との意見を『要にして簡潔に』記すよう求められた」と研修について語りました。
また、調査官や裁判官・検察官・弁護士の研修を行う最高裁判所司法研修所は「これまで重視されてきた成育歴や素質などの調査記録を証拠とせず、主に法廷での少年の供述内容で判断した方が望ましい」との研究結果をまとめていました。
裁判員制度の導入に向かっていた当時、司法に関わる者の研修に関しても気になる話を耳にしました。
取材を受けてくれた調査官は「非行につながる環境要因等は簡略化し、『刑事処分相当』との意見を『要にして簡潔に』記すよう求められた」と研修について語りました。
また、調査官や裁判官・検察官・弁護士の研修を行う最高裁判所司法研修所は「これまで重視されてきた成育歴や素質などの調査記録を証拠とせず、主に法廷での少年の供述内容で判断した方が望ましい」との研究結果をまとめていました。
「市民感覚」を持ち込んだ裁判員制度が始まることでいちばん気になったのは、この10年間、少年による犯罪は激減しているにもかかわらず、「市民感覚」によって厳罰化が続いている少年法への影響でした。
18・19歳の犯罪も増えてはいません。このように少年による犯罪が減っている理由のひとつとして挙げられるのが「要保護性」を重視した少年法の理念によって、再犯が減っているということです。
国の根幹であり、「どんな国をつくっていくべきか」という理想と覚悟を示した憲法を「現実に合わせて変えていこう」という考え同様、私が不思議に感じているのは「市民感覚を司法に持ち込む」という考え方です。
その考えを知ったのは、一般市民も裁判員として刑事裁判に参加し、被告が有罪かどうか、有罪だとしたらどのような刑に値するのかどうかを裁判官と一緒に決める裁判員制度が始まるときでした(2009年)。
「憲法9条は守りたいけど人命救助や災害復旧のためには自衛隊が必要」という「憲法と自衛隊」をめぐる調査を目にするたびに、いつも思うのです。
「どうして人命救助や災害復旧をするために自衛隊が必要なのか?」と。
人命救助のための部隊は必要だけど
確かに10年くらい前から日本はとても多くの自然災害に見舞われています。以前なら「震度4」と聞けば「かなり強い地震」という印象を持ちましたが、最近では「震度5」のニュースを聞いても驚かなくなってしまいました。
あちこちで火山が噴火し、地震の規模は大きくなり、津波や原発への不安も続いています。
ゲリラ豪雨という言葉が普通になり、長雨や集中豪雨による土砂災害や川の急な増水などでもたくさんの人が犠牲になっています。
そんな災害が起こるたびに自衛隊が駆けつけ、多くの命を救ってきたことをもちろん私も知っています。人々を救う姿を見ては「こういうプロフェッショナルはやっぱり必要だな」と、いつも強く実感します。
労働者の祭典であるメーデー(5月1日)や憲法記念日(5月3日)などがあったつい先日のゴールデンウィーク期間、個人的な都合で奇しくもさまざまな法律を学び直す機会がありました。
すっかり記憶の彼方に飛んでいた労働三法をはじめ、うろおぼえだった精神保健福祉法や最近とんと目にしなくなっていた少年法や2006年に「改正」された教育基本法などなどを改めて学び、いろいろと考えさせられることがありました。
子どもをめぐる取材を主な仕事にしていた頃は、少年法や教育基本法はとてもなじみの法律でした。取材の現場で目にすることと法律の関係を常に考えざるを得ない状況にいたのですが、最近はそんな機会も無縁でした。
お恥ずかしい話ですが、日頃、臨床の場でお目にかかるクライアントさんたちの置かれた状況が法律とどんな関係にあるのか、法律が変わったり運用が変わったことでどんな影響を受けているのかなどと考えることも、とんと無くなっていました。
「『自分は自分でいい』、『他と違ってもいい』という当たり前のことを日本の学校教育の中で一度も聞いたことがない」と語ったこの難民二世の女の子は、どうしたら日本で育つ子どもたちが「他を認め受け入れる」ことができるようになり、差別の無い社会、外国人の子どもが胸を痛めたりすることが無い日本をつくっていけるかということについても、国連の委員の方々の前で、次のようにはっきりと述べています。
「親や先生など身近なおとなたちが子どもの言葉や気持ちを聞き入れて、それをそのままで肯定することで、子どもは『自分は愛されている』『自分は大切な存在だ』と知ります。このような自己肯定が持てるようになってはじめて、自分とは違う他の人のことも肯定することができます。
日本の子どもたちが家庭でも、学校でも、社会でも、今よりももっと愛されれば、子どもの『他を認め受け入れる』心が養われるはずです」
昨年末、このブログで国際的な「子どもの成長・発達のための約束ごと」である子どもの権利条約にもとづいた日本政府報告審査に向け、「自分たちの現状を訴えよう」と8人の子どもが国連「子どもの権利委員会」に『子ども報告書』を提出したということを書きました。
そのときに引用した「多様性を認めない学校には行きたくない」とのタイトルの『子ども報告書』を書いた男の子は、「扱いづらかったり、自分の意見を持って発言したり、授業がつまらないから勉強に身が入らないでいたりすると、すぐに『発達障害』にされる」と、昨今の学校現場の風潮を述べていましたが、異質なものを排除しようという傾向は今にはじまったものではありません。
日本の学校教育では、昔からずーっと差別というものが、歴然と存在し続けてきました。
「『どのくらいの量を食べたいか』とか『トッピングに何がのってるところが欲しい?』など、一人ひとりの子どもに聞いていくのです。たとえば『どうしてもいちごが食べたい』という子には、『じゃあ、その分、スポンジは他の子が多くてもいいかな』と尋ねたり、『デコレーションされている人形のチョコレートが食べたい』と言った子には、『今回はあげるから、次回はお友達に譲ってね』などと言いながら、『一人ひとりの子どもが望むように、なるべくみんなが納得するようにケーキをカットして配ることこそが平等である』と、その保育園では教えていました」(園長先生)
私は「なるほど!」と、ひざを打つ思いでした。
そんなふうに平等について考えていて、ふと、子どもの権利条約の講演でご一緒した、ある保育園の園長先生にうかがった話を思いだしました。
スウェーデンだったか、ノルウェーだったか、はたまたデンマークかフィンランドの話だったのか、正確には覚えていないのですが、その園長先生がかつて見学に行ったことがあるという、とある北欧の国の保育園でのエピソードです。
園長先生が見学した日、保育園では「ひとつのホール・ケーキをみんなで平等に分けるにはどうしたらいいか」と話していたと言い、園長先生は私を含めて会場全体のおとなに、こう尋ねてきました。
「いったいどんなふうに分けるのが平等になると思いますか?」
この問いに、みなさんならどんなふうに答えるでしょうか。
東京では桜が満開を迎え春本番。卒業式が終わり、入学式も間近になってきました。
入学式と言えば、つい最近までちまたの話題をさらっていたのは東京・銀座にある中央区立泰明小学校が4月に入学する新1年生から、イタリアの高級ブランド「アルマーニ」がデザインを監修した標準服(制服)を導入する方針を示したという一件でした。
アルマーニというブランド名だけでなく、セーターなどまで含めると計8万円にもなる高額商品だったことから、批判や物議を醸しました。