日本人の法感覚(3)
国の根幹であり、「どんな国をつくっていくべきか」という理想と覚悟を示した憲法を「現実に合わせて変えていこう」という考え同様、私が不思議に感じているのは「市民感覚を司法に持ち込む」という考え方です。
その考えを知ったのは、一般市民も裁判員として刑事裁判に参加し、被告が有罪かどうか、有罪だとしたらどのような刑に値するのかどうかを裁判官と一緒に決める裁判員制度が始まるときでした(2009年)。
裁判員制度のメリットと落とし穴
同制度を使うメリットとしては、「集中審理が行われるので審理期間が短縮される」「裁判が身近で分かりやすいものになる」「司法への信頼の向上につながる」などが喧伝されました。
「日本の裁判は時間がかかりすぎる」ということは、よく耳にしていたので「集中審理が短くなるならいいことではないか」と私も単純に考えていました。しかしそこに、まず大きな落とし穴があったのです。
同制度の導入に先立って、集中的に審理ができるようにするため、あらかじめ争点を絞り、なおかつ素人である裁判員にも分かりやすいものになるよう、審理する証拠も厳選する公判前整理手続というものが始まっていました。2004年のことです。
公判前整理手続の問題点
公判前整理手続では、初公判前に裁判官、検察官、弁護人(被疑者)が協議し、証拠や争点を絞り込んで審理計画を立てます。たとえ公判が始まってから重要な証拠などが見つかっても公判前整理続で認められていなければ、原則として新たな証拠請求はできません。
そもそも日本の刑事裁判では、警察官と検察官が綿密に被疑者を取り調べ、有罪の証拠を固めるところから始まりますから、検察側が持っている証拠をすべて見ることができない弁護側はかなり劣勢からのスタートとなります。
その雲泥の差のある情報の中から、裁判官がどれを証拠採用するのかを判断していきます。
裁判官も人間
裁判官も人間です。「有罪の証拠が固まった」検察側の情報を見て検察側に気持ちが傾いてしまうことはないのでしょうか。
もしかしたら公判が始まる前から、被疑者に疑いの目を向けてしまうかもしれません。そんなふうに、すでに被疑者を「クロ」と思っている裁判官が、はたして素人の裁判員に「わずかでも検察官の主張におかしいところがあれば無罪である」と無罪推定の原則をきちんと説明できるのでしょうか。
私にはかなり怪しく感じます。