「森発言」は個人のジェンダー差別の問題なのか(2)
ところで、女性と男性はまったく同じ生き物なのでしょうか? 女性らしさや男性らしさというのは幻想で、いっさい否定されるべきなのでしょうか。
「森発言」を批判する方々の中には、「男性と女性の能力に差は無い」とか、「女性と男性を区別するのはおかしい」といった意見も多く聞かれましたが、やはり私は違和感を覚えました。
男女の違いはある
“産む性”と“産まない性”は明らかに違います。男性でも子育てはできるかもしれませんが、子産みは女性にしかできません。
「新しい生命を宿し、この世に送り出す」という性を持つ女性は、多くの場合、子どもを産み育てることに必要な能力に長けています。
「新しい生命を宿し、この世に送り出す」という性を持つ女性は、多くの場合、子どもを産み育てることに必要な能力に長けています。
もちろん個人差はありますが、たとえば危機的状況や他者の感情に敏感であったり、世話を焼くのが上手であったりします。
一方、男性には男性の特性があります。こちらも同じくまた個人差はありますが、一般に、女性より体が大きく、体力や筋力があります。感情より論理で動こうとします。
こうした男女の違い、「区別」というものは、それぞれの特性であって否定されるべきものではないはずです。
問題は経済効率で推し量ること
問題なのは、こうした違いを経済効率で推し量り、優越を付けたり、本人の意思を無視して鋳型にはめようとすることです。
妊娠や出産のために仕事を続けられなかったり、自分の能力を活かしたいのに「女性は子育てに専念せよ」と言うのは、おかしな話です。世話焼きが上手だからと、家事育児が女性の仕事のように言われるのも疑問です。
そうやって、男性優位につくられてきた社会に不都合だから、経済効率から見て合理的でないからと、女性が重要なポストに就けなかったり、社会での活躍の場を削られるのは言語道断と言わざるを得ません。
「男らしさ」に苦しむ男性
男性も同様です。「男だから」と、弱みを見ず、社会でバリバリ働かなければいけないというのはどうなのか。家事育児の方が得意な男性だっているはずです。
それなのに社会が決めた「男らしさ」に縛られて、自分で自分のお尻を叩いて上を目指し、そのストレスを大事な家族にぶつけるしかないような、苦しい思いをしている男性に、私はたくさんお目にかかってきました。