不信オリンピック(2)
国民には、「不要不急の外出自粛や飲食店の時短営業、テレワークをしながら自宅でオリンピック観戦を」と言いつつ、オリンピック関係者らをはとバスツアーで“おもてなし”しようとしたり、国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長は広島訪問。さらには迎賓館で歓迎のセレモニーを開くなど、もうあきれるばかりです。
まるで明治初期
国民を犠牲にして迎賓館でバッハ会長をもてなす報道を見て、鹿鳴館で白人をもてなしていた明治初期を連想しました。
西洋の文物を取り入れ、西洋人におもねって西洋文化を文明国だと認めてもらおうと必死に猿真似していた明治初期。あの頃と、日本という国はなにひとつ変わっていなかったのだと心からがっかりしました。
これでは一部の上流階級の権益とプライドを守るため、国民を犠牲にして戦争へと突き進んで行った時代と何ら変わりありません。
格差を見せつけられるばかり
「コロナに打ち勝ち、スポーツの力でつながりを取り戻す」(政府)ためと言いますが、やっていることは「オリンピック(スポーツの力)で分断を招いている」ようにしか見えません。
オリンピックが商業主義になり下がったことは周知の事実ですが、巨大な利益を享受するIOCやそれに群る大企業、それらと一体化した政治家らの傲慢さと、一般庶民との格差を「これでもか!」と見せつけられている気がします。
専門家の意見は無視
前回も書いたように、オリンピックが人流を増やしているのか、減らしているかについて小池都知事と脇田国立感染症研究所長の見解は真逆です。
6月の段階で、新型コロナウィルス感染症対策分科会の尾身茂会長が、「今の状況でオリンピックをやるのは、普通はない」と言い、オリンピック開催時には新たな人の流れが生まれるとして、「スタジアムの中だけのことを考えても、しっかりした感染対策はできないと思う」と発言したときには、田村憲久厚生大臣が「自主的な研究の成果の発表」(『毎日新聞』21年6月8日)と言い、ある自民党幹部は「言葉が過ぎる。(尾身氏は)開催を決める立場にない」と発言しました(『朝日新聞』21年6月3日)。
専門家の意見を個人的な感覚や感想で一刀両断にできるほど、どうしてそんなに政治家やオリンピック関係者は傲慢で、“偉い”のでしょうか。
皮肉な「多様性と調和」という大会理念
今回のオリンピック・パラリンピックの大会理念は「多様性と調和」です。
皮肉なことに、女性蔑視発言を堂々とできる東京オリンピック(五輪)・パラリンピック大会組織委員会森善朗前会長をはじめ、出演者の容姿を侮辱する演出を考案した佐々木宏氏、過去のいじめを自慢していた音楽担当の小山田圭氏、ホロコーストのコントを発表していたショーディレクターの小林賢太郎氏など、関係者の特権意識、差別意識も明らかになました。
今や日本中に不協和音が鳴り響いています。