感情を失った時代(5/10)
ではなぜ、おとなたちは子どもをそんなところまで追い込まなければならないのでしょうか。おとな自身も、本当は感じていたはずの戸惑いや、疑問、さまざまな感情を封印してまで、子どもの尻を叩かなければならないのでしょうか。
何よりも大切なはずの命を犠牲にしてまで、子どもに結果を要求しなければならないのでしょうか。
成果や利益を求める社会の必然
それは社会が目に見える成果や利益をあまりにも求めるからです。
競争を前提とした世の中で、自分で自分の面倒をきちんとみることができる、福祉や他人に頼らない人間を求めるからです。少しでも早く自立し、自分の生活は自分だけでまなかえる人間を“よし”とするからです。
そうした社会では、自活できない者、他者に支えてもらわなければならない存在はダメな存在だとみなされます。
だから多くのおとなは、「子どものため」という善意から、子どもが生き残っていくための術を少しでも早く教え込もうとします。子どもが、競争の荒波に飲み込まれず、生き残れる人間になれるよう、厳しい訓練を施そうとします。
子どもの気持ちは後回し
そこでは子どもの思いや気持ちは、後回しです。
いえ、たとえ子どもの気持ちに気付いたとしても「こんなことでへこたれてどうする!」と、叱咤激励することこそが愛情だと勘違いしてしまいます。
そして、それが愛情だと信じている限り、子どもを厳しく訓練し、言うことをきかせ、子どもを奮い立たせる体罰は絶対に無くならないのです。
体罰は「暴力を使った“指導”」
桜宮高校での体罰事件が発覚してから、「暴力と体罰はどう違うのか」とか「どこからが体罰なのか」とか「体罰なしの教育などあり得るのか」などという議論が盛んに行われていましたが、極めてばかばかしいことです。
体罰は「暴力を使った“指導”」に他なりません。そして“指導”とは、力を持っておとなの都合や価値観を子どもに植え付け、言うことを聞かせるための支配に過ぎません。
だからこそ、第3回の子どもの権利条約に基づく日本政府報告書審査で(2010年)、国連「子どもの権利委員会」委員が、さんざん疑問を呈したのです。
「“指導”としつけ、虐待はいったいどう違うのか?」と。(続く…)