考えてみてください。
もし心に染みこむコミュニケーションがある、安心と自由に満ちた家族で育ったおとなが多くいるのだとしたら、『ミタ』に象徴される“現代版の絆”などを必要とする社会になっていたでしょうか。
「無縁社会」だの「孤独死」だのというものがめずらしくない世の中になっていたでしょうか。
親類縁者に囲まれた故郷を「窮屈だ」と感じ、干渉されない都会を目指す人間を生んだでしょうか。
「新しい公共」
結果には必ず、それをもたらした原因や要因があります。
それを振り返り、反省することなく、ただイメージで物事を語ることはとても危険です。
人間に幸せをもたらす「絆」や「家族」とはどのようなものであるのか。かつての日本には、本当にそんなものがあったのかを考えることなく、ただ「絆っていい」や「家族は温かい」と喧伝することは、自分の頭で考えることをせず、唯々諾々と長いものに巻かれて行く人々を育て、拡大家族とも言える全体主義の世の中を招くことにもつながっていきます。
「新しい公共」などという、一見、とてもリベラルで反論しにくい言葉を浸透させながら・・・。
批判的な目を持たないということは、「現実を見ない」ということです。美しいイメージや、「こうあるべき」という理想だけを大事に抱え、目の前に起きている矛盾や詭弁に鈍感になっていくということです。
しかしそれでは、物事の本質はいつまでたっても見えてきません。良くない現状を変えていくために、どうしたらいいのかも永久に分かりません。
分かりやすい例
分かりやすい例を挙げましょう。
たとえば、美しい里山の風景やイルカが群れる海、清らかな川の流れなどの映像を見れば、だれもが「ああ、自然は素晴らしい」と思うでしょう。「こんな素晴らしい自然を壊してはいけない」と心の底から考えることでしょう。
でも、それだけでは地球規模で進む環境破壊は止められないのです。(続く…)