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考えてみてください。

もし心に染みこむコミュニケーションがある、安心と自由に満ちた家族で育ったおとなが多くいるのだとしたら、『ミタ』に象徴される“現代版の絆”などを必要とする社会になっていたでしょうか。

「無縁社会」だの「孤独死」だのというものがめずらしくない世の中になっていたでしょうか。
親類縁者に囲まれた故郷を「窮屈だ」と感じ、干渉されない都会を目指す人間を生んだでしょうか。

「新しい公共」

結果には必ず、それをもたらした原因や要因があります。
それを振り返り、反省することなく、ただイメージで物事を語ることはとても危険です。

人間に幸せをもたらす「絆」や「家族」とはどのようなものであるのか。かつての日本には、本当にそんなものがあったのかを考えることなく、ただ「絆っていい」や「家族は温かい」と喧伝することは、自分の頭で考えることをせず、唯々諾々と長いものに巻かれて行く人々を育て、拡大家族とも言える全体主義の世の中を招くことにもつながっていきます。

「新しい公共」などという、一見、とてもリベラルで反論しにくい言葉を浸透させながら・・・。

批判的な目を持たないということは、「現実を見ない」ということです。美しいイメージや、「こうあるべき」という理想だけを大事に抱え、目の前に起きている矛盾や詭弁に鈍感になっていくということです。

しかしそれでは、物事の本質はいつまでたっても見えてきません。良くない現状を変えていくために、どうしたらいいのかも永久に分かりません。

分かりやすい例

分かりやすい例を挙げましょう。

たとえば、美しい里山の風景やイルカが群れる海、清らかな川の流れなどの映像を見れば、だれもが「ああ、自然は素晴らしい」と思うでしょう。「こんな素晴らしい自然を壊してはいけない」と心の底から考えることでしょう。

でも、それだけでは地球規模で進む環境破壊は止められないのです。(続く…

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本当の意味で自然を守る心を育て、環境破壊を止められる人間になるためには、実際に自然に触れ、その厳しさや大らかさを実感した上で、「なぜ、そしてだれが、この自然を破壊してきたのか」を知る必要があります。

平気で汚染物質を自然の中に垂れ流して利潤追求してきた(いる)人々が今もいること、国もそれを後押しする政策を取り続けてきた(いる)ことを学ばなければなりませんし、真に地球の環境を守りたいのなら、「環境に優しい」製品開発のためにどれだけの自然が壊されてきたのかを理解する必要があるのです。

スローガンだけでは変わらない

たとえば私たちは、「自分の食べている食物が、どこでどのようにして育てられ、加工されているのか」とか「食卓に届くまでの間に、どれだけの搾取や命を無駄にする行為があったのか、それともなかったのか」などをきちんと分かっているでしょうか。

たとえば「地球を救う」としてマングローブの植林を続ける企業が、その影で自然を犠牲にして利潤追求に励んでいたり、CO2排出権までも金儲けの道具にしている現実と真摯に向き合っているでしょうか。

ただ「自然を守ろう!」「地球を救おう!」というスローガンに同調することは簡単です。

しかし、自分の生活や日常などの足元を直視しながら、社会の仕組みや在り方などを見据えたうえで、本質的な問題を探り、本当の「自然の豊かさ」について考えながら社会を変えていかなければ、いつまでたっても自然は破壊され続けるだけです。

このままでは「絆」のある社会は築けない

閑話休題。「絆」の話に戻しましょう。

「絆」を語る際にも、同じことです。
ただ映画「寅さん」シリーズや「ALWAYS 三丁目の夕日」を懐かしみ、「あの頃は良かった」「人々の絆が生きていた」と言うだけでは、先には進めません。

いったい「絆」とはなんなのか。「しがらみ」や「支配」とはどう違うのか。かつてはほんとうに絆のある社会だったのか。

・・・そうしたことをちゃんと考えたうえで、「ではなぜ今、多くの人が『絆』を持てずにいるのか」「どのような絆が人を幸せにするのか」を明確にしていかなければ、本当の意味で「絆」のある社会をこれから築いていくことなどできないのです。(続く…

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それぞれの意味をちょっとネット辞書で調べてみました。

「しがらみ」の意味を調べると、

1)水流をせき止めるために、川の中にくいを打ち並べて、それに木の枝や竹などを横に結びつけたもの。
2)引き留め、まとわりつくもの。じゃまをするもの

とあります。

また、「支配」は

1)ある地域や組織に勢力・権力を及ぼして、自分の意のままに動かせる状態に置くこと。
2)ある要因が人や物事に影響を及ぼして、その考えや行動を束縛すること。
3)仕事を配分したり監督・指揮したりして、部下に仕事をさせること

と書かれています。

一方、「絆」はというと

1)人と人との断つことのできないつながり。離れがたい結びつき。
2)馬などの動物をつないでおく綱

となっています。
(いずれもgoo辞書やyahoo辞書等を参考にしたものです)

違いは一目瞭然

こんなふうに3つの言葉の意味を比べてみると、何が違うのかは一目瞭然ですね。

ひと言で言えば、「しがらみ」「支配」は「人を縛る」ものです。他方、「絆」は「人間が必要とする結びつき」・・・つまり「人を自由にする」ものなのです。

なぜ「人間が必要とする結びつき」があると、自由になれるのか。ちょっと心理学的な視点でお話ししたいと思います。

「絆」の原始的なかたちは?

「絆」の最も原始的なかたちは“母ー子”の関係です。

そう言いきってしまうと「“父ー子”の絆は薄いのか?」とか、「子育てを女性の責任に押しつける考え方だ!」などというお叱りの声も聞こえてきそうです。

もちろん、科学が進歩した現在は男性の出産をはじめ、故意に「絶つことのできないつながり」をつくり出すことも可能です。
母よりも格段に子育ての上手な父は存在しますし、血の繋がりがなくとも強い絆で結ばれた関係があることも事実です。(続く…

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子どもが母(養育者)との間につくる情緒的な絆をアタッチメント(愛着)と呼びます。
子どもは、恐い思いをしたり、疲れたり、病気になったり、すなわち危機的状況が高まったとき、守ってくれるおとな(母)に近づくことで、その恐怖を鎮めようとします。

これは未熟な状態で生まれてくる子どもが、生存の可能性を高めるために行う、ごく自然な行為で、心理学用語ではアタッチメント行動と呼びます。

===
子どものアタッチメント行動ーー抱っこをせがむ、泣く、甘えるなどーーによって、母側には「子どもの不安をどうにか和らげよう」という気持ちが喚起され、母親は子どもの不安を和らげるための行動をします。たとえば、抱き上げる、あやす、ゆする、授乳するなど、です。

このような相互作用、相互の行為が繰り返されることで、そこに強い「絆」がつくり出されていきます。子どもにとっては、その母が唯一無二の存在となり、母にとってはその子が、かけがえのない子どもになっていくのです。

「絆」がつくる安全基地

こうした「絆」が、子どもが成長し、けして楽ではない世の中を生き抜いていくため不可欠なベース(安全基地)をつくっていきます。

子どもは、自分に顔を向け、「お腹が空いたんだね」と、欲求(ニーズ)をくみ取り、問題(不安)を解消してくれる母の存在によって、外界を「安全なもの」と認識し、「求めれば他者は助けてくれる」という対人関係や「自分は助けられるべき価値のある存在である」との確信を深め、外界からの刺激による恐怖を収める感覚を学んでいきます。

無条件に欲求を受け止めてもらい、適切に応答してもらうことの積み重ねによって、子どもは「自分は守られている」という安全感を獲得し、「世の中は自分を受け入れてくれている」という基本的信頼感や「自分は大切な存在なのだ」という自己肯定感を持てるようになっていきます。

また、さまざまな刺激に対して適切に対応したり、自分の感情をコントロールすることもできるようになりますし、「不安や痛みに共感してもらえた」経験が子どもの共感能力を育て、他者とつながることを可能にします。(続く…

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「傷ついても慰めてくれる存在がある」「恐い思いをしても戻ることができる場所がある」という確信は、子どもが外の世界を探索したり新しい物事にチャレンジする勇気をくれます。

こうした安全基地の感覚は、人間の成長度合いに応じて内在化され、そのうち母がいなくても自分を慰めたり、不安を沈めたり、勇気を奮い立たせたり、することができるようになります。

そして安全基地の内在化は、人間がだれかの言いなりになったり、従属したりすることなく、自分の人生を豊かにすることができる人間関係を選び取ること、自分を幸せにしてくれるひとときちんとつながりながら自分らしい人生を歩むことを可能にしてくれます。

「自由」をくれるものこそが「絆」

つまり本来あるべき“母ー子”関係を原点とする、人間を「自由」にしてくれる「絆」こそが、本当の意味で「絆」と呼ぶべきものです。

ここで“本来”とあえてつけさせていただいたのは、現実には実の“母ー子”関係であっても、「自由」を保障してくれるような、安全基地として機能するような関係はまれであることは重々承知しているからです。

本質を見失わずに

今、社会で喧伝されている「絆」は、はたして私たちに安心感や安全感をもたらすものになっているでしょうか。しがらみや支配から解放して自由にさせてくれるものだと言ってよいでしょうか。

もしかして少数の者だけが富を手にする格差社会にも物を言わず、和を乱さず(長いものにまかれて)、「すべきこと」を率先して行う(空気を読む)人間をつくり出そうとする「新しい公共」のように、私たちを縛るものにはなっていませんか。

本当であれば、社会で引き受けるべき子育てや介護を個人に押しつけるための方便になっていたり、「地域力」などの言葉で、相互監視社会を築き異端者をはじき出すものになってしまってはいないでしょうか。

東日本大震災以降、だれもが「つながりの大切さ」を実感している今だからこそ、「人間を豊かにする『絆』」の本質を見失わずにいたいものです。

連日、メディアでも街頭でも衆議院議員の選挙戦が熱く繰り広げられています。
今回は第三極と呼ばれる政党が数多く乱立し、いったいどこの政党を応援したらいいのか、何を決め手にしたらいいのか、いつも以上に分かりくい状況です。

何しろ前回までのブログに書いたように、権力を握った人間は、私利私欲のためなら「平気でうそをつく」ことがあります。耳障りのいい言葉や、心にもないうそ、思わず飛びつきたくなる公約を掲げて、私たちを欺こうとします。

そんなうそにだまされないためにも、党の看板である政治家がいったいどんな人物なのかをよく見極めなければなりません。

ところがこれが、なかなか難しいのです。著書や過去のコメントをひっくり返さなければ、どんな人物なのかが分からないことが多いですし、「個人情報の保護」だの「プライバシーの侵害」などという言葉をいくらでも隠れ蓑に使える昨今、そう簡単なことではありません。

橋下氏への『週刊朝日』の謝罪

つい先日も、日本維新の会代表・橋下徹大阪市長の出自をめぐる『週刊朝日』の連載記事に対し、橋下氏が抗議。出版元(朝日新聞出版)が謝罪するという事件がありました。

この連載は「橋下氏の本性をあぶり出すため、血脈をたどる」として、橋下氏の家族やルーツに焦点を置く考えを示していました。
具体的には、橋下氏の家系図を載せ、家族や親族について述べ、その親類縁者が抱えていた問題などについても触れていました。その詳しい内容については『東京新聞』(2012年11月20日)の「こちら特報部」をご覧ください。

連載には同和地区を特定するような表現などが含まれていたこともあり、『週刊朝日』への批判の声も多くあります。
『東京新聞』の「こちら特報部」でも、橋下氏の取材を続けているジャーナリストの意見として「橋下氏の人格と直接、関係のない父親や親類の問題をなぜ取り上げる必要があるのか」との意見が紹介されていました。

人格形成には親や環境が影響する 

確かに、被差別部落の地名を記したことなどについては疑問があります。差別を助長するかのような表現も戒められてしかるべきですし、人格との関係で言うのであれば視点の当て方がとても乱暴だったことは事実でしょう。

しかし、「人格の形成に親や親族との関係や育った環境が影響する」ということは、心理学的視点で見れば紛れもない事実です。
「公の人」たる政治家の生い立ちや出自を明らかにすることは、その政治家の価値観や指し示す道、ひいては政策をも照らし出す、とても貴重な情報であることは否めないのではないでしょうか。(続く…

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『週刊朝日』で橋下氏の連載をスタートさせた動機について、執筆者である佐野眞一氏は次のように述べています。

「橋下氏という人物を看過していたら、大変なことになる。あたかも第二次大戦前夜のようなきな臭さを社会に感じた」(『東京新聞』11月28日「こちら特報部」)

佐野氏は同記事中で、橋下氏の振る舞いに1930年代のドイツを想起したと話し、「ワイマール憲法下で小党が乱立し、閉塞状態が続く。そこにヒトラーが登場する。彼は聖職者や教師、哲学者らを“いい思いをしている連中”とやり玉に挙げ、求心力を高めた。その手法は現在の橋下と似ている」とも語っています(【こちら特報部】「タブー越えてでも書かなければ 「橋下氏連載」佐野眞一氏に聞く」2012/11/ )。

ヒトラーの生い立ちとは

では、ヒトラーはどんな人物だったのでしょうか。どんなおとなに囲まれ、どのような環境下で、どんな子ども時代を過ごした人だったのでしょうか。
あれほど残虐な方法で多くの人々を死に至らしめたヒトラーの生い立ちと、彼の人生、彼の行いはどんなふうにリンクしていたのでしょうか。

私がそれを知ったのは、スイス在住の心理学者で哲学者でもあり、精神分析家としても活躍したアリス・ミラー氏の名著『魂の殺人 親は子どもに何をしたか』(新曜社)を読んだときでした。

ミラー氏は、子どもへのさまざまな暴力(肉体的なものだけでなく精神的なものやネグレクトなどを含む)は、子どもの中に憎しみを育て、他者への暴力となって現れることをヒトラーと彼を取り巻く人々を中心に描きました。

ミラー氏の功績や数々の著作等を知りたい方は『ウィキペディア』等を参考にしていただくとして、ここでは先に進みたいと思います。

絶対王政の典型だったヒトラー家

ミラー氏は同書の中で、ヒトラー家の雰囲気、彼の家庭の構造を一口で言えば「絶対王政の典型」とし、その家庭では「自分が受けた辱めを少なくとも部分的に、自分より弱い者を使って自ら慰めることができた」と記しています(191ページ)。

こうした家の中で子ども・・・つまり幼き日のヒトラーは「権利なき者」として、暴力にさらされ、辱められ、さらにはそのことを「自分のせい」と思い込まされて育ったのです。(続く…

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なぜなら子どもというものは親の非常な仕打ちを忘却し、そんなひどいことをする親を理想化しなければ生き延びることはできないからです。

親が“親の都合で”子どもを苦しめているとか、子どもが親の葛藤やストレスをぶつける対象になっているなどという考え方は、子どもにはできません。愛する親が、「自分のことを愛していない」ことを受け入れることほど、子どもにとって残酷なことはありません。

だから子どもは「親が怒るのは自分が悪い子だからだ」とか「自分のためを思って親は自分に厳しく接するのだ」と、親の仕打ちを合理化せざるを得ないのです。

激しい暴力にさらされていたヒトラー

ヒトラーに話を戻しましょう。

ミラー氏は、数多くのヒトラーに関する研究や伝記から、ヒトラーは3歳くらいの幼い頃からほぼ毎日、父親にむち打たれるという激しい暴力にさらされ、その名前も呼んでもらえず、犬のように指笛で呼びつけられる、「何の権利も認められぬ名無しの存在」(同書210ページ)であったと記し、それはヒトラー台頭時のユダヤ人の身分とそっくりだと言います。

でも子どもだったヒトラーは、こうした屈辱や恐怖心をすべて押さえ込み、感じ無いようにすることで日々乗り越えるしかなかったのです。母親は、心配はしてくれても彼をかばうだけの勇気も力も無かったからです。

たとえばミラー氏は伝記作家の次のような文章を引用しています。

「それで私(ヒトラー)はその次殴られることがあったら、絶対声を出したりしないぞと決心したのだよ。実際にそういうことになった時ーーまだはっきり覚えているがね、母が部屋の外に立って心配そうにドアからのぞいていたよーー私は一打ちごとに父と一緒になって数えたものだ。私が誇りで顔を輝かせながら『お父さんは僕を32回もお打ちになったよ!』と知らせに行った時、母は私の頭がおかしくなったと思ったものだ」(同書204ページ)

憎しみが権力を握ったとき

こうやって幼きヒトラーの中に誕生した憎しみは、ヒトラー自身も知らないうちに成長していきました。
表出されられない痛みや、自分を傷つけ、辱める者を愛さねばならないという現実を栄養源に、憎しみはどんどん増幅していったのです。

そしてその憎しみが権力を握ったとき、それは生あるすべてを破壊する力となって、何百万という人々を苦しみと恐怖の中に投げこむことになりました。(続く…

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こう書いてくると、では①「こうした所業によってヒトラーは、何を得ることができた(得ようとした)のか」、②「なぜ多くの国民が、ヒトラーにあれほど熱狂したのか」が気になってくるところです。

でも、残念ですが今回はそこには触れず、先へ進みたいと思います。①に関してはさらに心理学的な考察が、②については心理学的考察だけでなく、当時の時代背景や人々をとりまく環境などについての説明が必要になってきますので、説明にはかなりの紙幅が必要になります。

また機会があれば、ぜひ書きたいと思いますが、ご興味のある方はミラー氏の著書『魂の殺人 親は子どもに何をしたか』と『子ども時代の扉をひらく 七つの物語』(いずれも新曜社)をお読みいただければと思います。

選挙との関連で

ここでは、今回の衆議院議員選挙との関連で気になった部分を後者の本から一カ所だけ、以下に引用させていただきます。

「ヒトラーが一千年王国を約束した時も、国民の側は、自分たちの愛する、そして自分たちを愛していると称する総統のために、間も無く戦場に送られ、死に追いやられることになろうとは夢にも考えていないのです。しかも、自分たちがそのような目にあわされるのは、総統個人の生いたちのためであるなどとは、まったく分かっていません。国民は総統に協力し、何も考えません。つまり、考えることは総統にまかせているわけです。まるで、将来だとか計画などということは全然わからず、単純に、父親が自分にいいように考えてやってくれると信じている幼い子どものように。子どもは父親をそれほどまでに信頼しているのです。たとえ、仕事から戻ってくると、子どもたちを怒鳴りつけ、手を振り上げて折檻するような父親であっても。父親としては、子どもたちのためだけを思ってやっているのだというのですから」(226ページ)

重なる選挙時の様子

甘い言葉をささやく政党が出て来ると、その中身を吟味することもなく投票し、よい結果が出ないと「期待はずれ」「裏切られた」と言って支持を取り下げる人々。「原発はいらない!」「福島を忘れない!」と言いながらも原発を推進する政党に投票する人々。「強い日本を!」と叫ぶ安倍晋三氏や、「強いリーダーシップが必要!」と発言する橋下徹氏の応援演説に駆けつけ、陶酔したように拍手を送る人々。

さきほど引用したミラー氏の文章の向こうに、今回の衆議院議員選挙で目にしたこうした人々の姿が見える気がするのは私だけなのでしょうか。(続く…

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「ヒトラーが台頭した頃のドイツと今の日本を比べるのは極端だ」とか「今さら世界規模の大戦争なんてあり得ない」などと、笑う人もいるでしょう。

私ももちろん、心からそうあって欲しいと願っています。そして、確かに“第二次世界大戦のような”大規模な戦争など起こらないだろうとも思っています。たとえ安倍首相が「憲法を改正する」とか「国防軍をつくる」と言っていも・・・。

経済大戦争時代

でも、少し心配なのです。身体的暴力だけが虐待ではないのと同じように、「武器を手に人を殺すこと」だけが戦争だとは思えないからです。

以前『戦争がなくても平和じゃない(2)』で書いたように、日本は13年連続で年間の自殺者数が3万人を超える国です(今年の統計は3万人を下回ると言われていますが)。つまり、市場の利益を最大限に優先する弱肉強食の新自由主義社会への劇的な転換を果たした、ここ13年間の自殺者数を合わせると約40万人と、第二次世界大戦で亡くなった民間人の半数にもなります。

そして、やはり以前に紹介した作家・雨宮処凜さんの『排除の空気に唾を吐け』(講談社現代新書/38・39ページ)には、全自殺者の58%が無職であると記されていました(『「がんばらなくてもいい!」・・・そんな新しい社会へ(6)』)。

こうした社会で激烈な国際経済競争を勝ち残るための闘いが日々、繰り広げられている今は、橋下氏の大好きな競争の舞台で力を発揮し、安倍氏の言うような強い日本づくりに貢献できないような人は、職を失い、尊厳を失い、人間関係や生きる希望をも失って、死へと追い込まれていきます。
まさに「世界的な経済大戦争時代」です。

そんな戦争下に生きる私たちは、多くの人間を不幸にする戦争に歯止めをかけるべく、国を率いる政治家がどんな人格や考えを持つ人物であるかを知るため、その生い立ちを知る必要があると思います。

断片的な情報を見ると

残念ながら今、私たちの手元に安倍氏や橋下氏の生い立ちをはっきりと読み解けるほどの情報はありません。しかし、いくつかの断片を拾い集めると、おぼろげながら見えてくることもあります。

たとえば橋下氏は、厳しいしつけや体罰に肯定的で、テレビ番組で、いじめ行為に加担していた自分の子を50分近くも投げ続けたことを告白し、「口で言って解らない年齢の子供には、痛み(体罰)をもって反省させることが重要」と発言していました(ウィキペディアの「時事問題についての見解・発言」)。

また、安倍氏は、著書『美しい国へ』で、父・晋太郎氏に「明日からオレの秘書官になれ」と突然命令され、「充実したサラリーマン生活をもうしばらく続けたい」と思いながら、父の意向に従ったという28歳時の話を書いています(32ページ)。おとなになってからでさえ、こんな状態なのであれば、子ども時代の親子関係がどんなふうであったかは推して図ることができるのではないでしょうか。

さらに安倍氏は、「秘書になるまで、親子の会話は、かぞえるほどしかなかった」(同書33ページ)とも、「欲望がぶつかり合うジャングルの様な人間社会を平和で安定したものにするには、絶対権力を持つ怪物、リウ゛ァイアサンが必要」(同書116~120ページ)とも、書いています。

どれも、「やはり『絶対王政』の家族構造で育ったのではないか」と思えるエピソードです。

取り越し苦労を願って

こうした危惧が取り越し苦労であることを願いつつ、今年は筆を置きたいと思います。ずっとお読みくださったみなさま、本年も本当にありがとうございました。

来年も、すべての生ある者が幸せに生きていける原点を求め、仕事を続けていたいと思っています。
どうぞ良いお年をお迎えください。