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しかし、こうした「置き換え」に疑問を持たない、この裁判長のような人々にはそんな疑問は浮かびません。
問題行動(症状)は、子どものノンバーバルなメッセージなのだととらえ、向き合おうなどという考えは思いもよらないことなのです。

この裁判長のような人々にとって、子どもは「未熟で保護の対象となる者」でしかないのです。そこには問題行動の裏にある意味を考え、「子どもの思いや願いをきちんと受け止めよう」、「子どもが今、何を感じているのかきちんと聴こう」などという発想は皆無です。

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間違っているのはいつも子ども

未熟な子どもに対して、成熟したおとな(親)がすることに「悪いこと」などあるはずがないのです。
おとながすることはいつでも正しいのですから、問題が起きるとしたら間違っているのは子どもの方に決まっています。
もし、おとなのすることがどこかへんだと感じたとしても、未熟な子どもに反論することなど許されません。ときには疑問を持つことさえ、罪とされます。

私たちの社会では、「子どもは力で押さえつけ、疑問を持たずに社会にうまく適応できるよう『しつけ』てやることこそが『愛情』なのですから。(続く…

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意見を言わなくなる子ども

1997年10月、京都の高校生が、国連でこんなプレゼンテーション(一部抜粋)をしました。

「私たち子どもは「子どもだから」と話し合う場を用意されず、学校ではいうように教えられても言う場を与えられず、もし意見を言っても聴いてもらえません。

また、意見を言わなくても生きていける、物質的には裕福な社会にいます。逆に意見を言ったために周りから白い目で見られ、孤立させられてしまうなど、時には思いもよらぬ不当な扱いを受けることもあります。
そうしているうちに、多くの子どもたちは意見を言うのを恐れ、また言っても変わらない現状に疲れ、自分の意見を主張するのをやめていきます」

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「よい子育て」が強まる昨今

「規律ある態度の育成」「規範意識の醸成」などの言葉で、おとなにとって都合のいい「よい子育て」の風潮が強まる昨今、家庭でも学校でも、子どもがものを言えない傾向は強まっているように思います。

今年1月、教育再生会議は出席停止などによる「規律ある教室づくり」を提唱しました。
その翌月にあたる2月には、文部科学省が出席停止の活用や警察の協力を促した通知を出し、この別紙では「肉体的苦痛を与えないものは通常、体罰に当たらない」という懲戒・体罰に関する新たな「考え方」も示しました。

これによって、子どもを立たせたり、居残りをさせたり、罰として課題を与えるというような方法は体罰定義から外れてしまいました。また、教師が子どもと取り締まる権限も増大しました。

分かってくれないおとな、話を聞いてもくれないおとなたちに絶望した子どもたちが、どんな行動に走るのかは、想像に難くありません。
暴力や「荒れ」が増える学校の現実が、それを教えてくれています。

あけましておめでとうございます。
新年のごあいさつがすっかり遅くなりまして失礼致しました。いつの間にか鏡開きも過ぎてしまいましたね。

それにしても、新年のあいさつをさせていただくのはこれで三回目。・・・ということはこのブログも三年目に入ったというわけで、なんだか感慨無量です。

海の幸を堪能

image_090114.jpg このお正月を使って、私は宮城に住むいとこのところに愛犬(ゴールデン・レトリバー)を連れて遊びに行ってきました。

期待していた雪は思いの外、少なく、雪遊びはできませんでした。海と雪が大好きな愛犬はちょっとガッカリ顔。彼女は二年前、新潟に行ったときくらいの雪を期待していたようです(写真参照)。

でも、「その代わり」と言ってはなんですが、この時期にしかない海の幸を堪能。ホッキ飯や牡蠣せいろ、貝ずくしのお鮨などをいただき、人間の方はかなり満足の旅行でした。


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“家族”と『吾亦紅』

ところで年末から年始にかけては、どうしても家族について考えさせられる時期です。一般的に家族を単位とした行動が増えるからでしょうか。それとも、私の個人的な経験からくるのでしょうか。

クライアントさん達からも、「一緒に過ごす家族がいない寂しさ」や、逆に「近寄りたくないのに訪ねなければいけない家族がいる辛さ」について、お聞きすることがよくありました。

また、これはまったく個人的なことですが、年末の風物詩である「紅白歌合戦」というフレーズを聞くと、昨今、必ず家族や親子を連想するようになってしまいました。
あまり知られていなかった“すぎもとまさと”という58歳(07年当時)の歌手を人気歌手に押し上げた『吾亦紅』という曲を思い出してしまうからです。

亡き母への思いを切々と歌った『吾亦紅』。07年の紅白出場後、その人気はさらに高まり、オリコン総合チャートでも2位に記録を更新、演歌・歌謡チャートでは11週連続首位を記録するなど、記録的なヒットとなったそうです。

この歌について書かれた記事には、まるで“家族”愛の代表歌のよう紹介しているものがあります。
事実、空前のヒットとなったところを見ると、多くの人も『吾亦紅』を聞きながら、家族や親子について思い返し、その歌詞に大きな共感を覚えているのかもしれません。

“家族”とは?

『吾亦紅』についての私見は後に譲るとして、こんなにも多くの人が心を揺すぶられる“家族”とはいったいなんなのかと、いつも考えこんでしまいます。

「家族なんていなくていい」「嫌なら縁を切ればいい」と、簡単には割り切れない“家族”という不思議な単位。その意味や役割は何なのか? この疑問は長い間、私の中にあります。

この問いに悩む人は少なくはないようで、社会学の本や辞典等でも、いろいろと定義されています。

今の日本社会で、一般的と言えるのは「定義を夫婦・親子を中心とする近親者によって構成され、成員相互の感情的絆(きずな)に基づいて日常生活を共同に営む小集団」(「yahoo!百科事典」)という考え方でしょうか。(続く…

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でも私には、そうした一般的な定義がどうもピンとこないのです。
たとえ夫婦や親子でなくても、いえ、夫婦や親子でないからこそ、「成員相互の感情的絆」に基づいて日常生活を共同に営むことができる小集団があります。

たとえば昨年12月末にNHKで放送された『特集 ドキュメントにっぽんの現場「平成長屋の住人たち」』。いわゆる赤の他人同士が暮らしているにもかかわらず、そこには私たちが「家族」に求めてきたような安らぎや思いやりがあります。

また、頼る人の無い方が自立した生活を始められるよう、孤立しないよう、アパート入居時の連帯保証人提供の相談から地域社会への復帰、友達づくりまでをサポートする「自立生活サポートセンター もやい」に集う人々を見ると、助け合う確かな絆が感じられます。

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年越し派遣村の現場リポートから

つい最近では、昨年12月31日から1月5日まで東京の日比谷公園に開設された「年越し派遣村」について同じような気持ちを持ちました。
派遣村にボランティア参加した方があるMLで流した現場リポートを読んだとき「まるで家族みたい」と心底、思ったのです。

そのメールによると派遣村には、多い日だと500人以上もの人がやってきたそうです。
食べ物の列に並ぶ人々の中に派、視点の定まらない顔面蒼白の若者がたくさんいたそうですが、中には関東の北部の方から歩いて来た人や自殺に失敗した人などもいたということでした。

そういう人々を迎えたのはあちこちからかけつけたボランティア。つまり“赤の他人”です。

ボランティアの仕事は様々だったようで、たとえばマッサージ師や美容師など手に職のある人はその技術を提供し、力のある人は荷物運び、夜はみんなで一緒に語り合う・・・など、いろいろなやり方で派遣村にたどり着いた人々を温かく迎えたと書かれていました。

そこには確かに、相手を思いやり、いたわり合う“感情的絆”があったと言ってよいでしょう。

なぜ派遣村へ?

そこで思うのです。
派遣村を目指してこられた方々は、なぜ遠くから、ろくに食べる物もない状態で、わざわざ日比谷までやってきたのでしょうか。
天涯孤独で、“家族”と呼べる親はおろか肉親もまったくいない方々だったのでしょうか?

いえ、きっとそうではないでしょう。

なぜ、そう思うのかと言うと、もう15年も前に私が出会った多くのホームレスの方々の多くも、やはり天涯孤独の身の上ではなかったという経験があったからです。(続く…

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当時、私は月に数回ほど東京の北東部にあるキリスト教会が行っていたホームレス支援ボランティアのお手伝いをしていました。
週末には公園でおにぎりやお味噌汁を配り、ウィークデーの夜には川沿いのダンボールハウスやテントを回り、そこに暮らす方の体調確認などをしていたのです。

ホームレスの方々の中には、何度か顔をあわせるうちに自らの過去や思い出話をしてくれる方もいらっしゃいました。

もともとは冬の時期だけ出稼ぎに来ていた東北出身の人、「いなかでコツコツ働くよりも」と、日銭の稼げた時代に東京まで流れて来た人、50代を過ぎて日雇いの現場が無くなってしまった人、体調を壊して働けなくなった人・・・いろいろな境遇の人がいました。

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天涯孤独の人はめったにいなかった

でも、天涯孤独という人はめったにいませんでした。

「郷里には弟夫婦がいて・・・」
「娘とはもう10年以上も会っていない・・・」
「親もいい年だから心配だ・・・」

――そんな話が、チラホラと出てくるのです。

「気になっているなら連絡を取ってみたらどうですか?」

私がそう言うと、「そんなことできるわけがない。こんな姿を見せられるわけないじゃないか!」と、みな頑なに拒みました。

中でもいちばん私の胸を打ったのは、川の向こう岸を指し、笑いながら話してくれたおじさんです。おじさんは、こう言ったのです。

「俺の実家はね、この橋のすぐ向こう側にあるんだ。両親は死んで、今は弟が家を継いでいる。まさか俺がこんなところでテント暮らしをしているとは思ってもいないだろうね」

にじむ切なさ

寂しそうに笑うおじさんの顔には、「どうにか一旗揚げたら」「故郷に錦を飾るまでは」「妻や子にいい生活をさせてあげられるようになるまでは」・・・そんなふうに頑張り続けて、ここまで来てしまった多くの人々の哀しみが重なって見えました。

「もう少し」「あともう少し」・・・そう思っているうちに、流れて行ってしまった長い年月。意地を張り、「いつかきっと」と思っているうちに、深まってしまった肉親との溝。

「今さら帰れない」と話す彼らの横顔には、夫婦だからこそ、親子だからこそ、肉親だからこそ、素直に弱みを見せることができなかった、そのままの自分を出すことができなかった切なさがにじんでいました。(続く…

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ホームレスとして生きざるを得ない寂しさ。そして孤独・・・。
その現実を痛感したこんなエピソードもあります。

ホームレスや日雇い労働者、路上生活者と呼ばれる方々が多く暮らすある町の繁華街。そこを夜の8時過ぎくらいに、もうかなり長くホームレス支援活動をしているボランティアさんと見回っていたときのことです。
季節は冬。行き倒れになっている方に声をかけたり、救援をするというお仕事でした。

飲み屋はまだ空いているのに、店の中には空席が目立ちました。道端に座り込んで飲んでいる人もほとんどいません。ときに泥酔した人が倒れていたり、かなりいい気分で歌ったり、だれにというわけでなく演説をぶったりしている人はいましたが、町全体としては「もう真夜中」という雰囲気でした。

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ボランティアさんの問い

その静まりかえった様子を見た私が「みなさん、ずいぶん早めに切り上げるんですね」と言うと、ボランティアさんは「彼らは朝が早いですから。日雇い現場の手配氏が来るのは早朝ですよ」と答えました。

その言葉に「なるほど」とは思ったものの、「ホームレスの方にはアルコールのトラブルを抱えている方が多い」と聞いていた私はどこか腑に落ちませんでした。
だから続けて「なんとなく、みなさん夜通し飲んでいらっしゃるようなイメージを持っていました」と軽い気持ちで言いました。
すると、ボランティアさんは足を止め、私の方を向き直り、こう問いかけてきたのです。

「あなたはどんなときにお酒を飲みますか?」

そんなことを聞かれるとはまったく思っていなかった私は、一瞬黙り込んでから、少し考えて次のように答えました。

「だれかともっと親しくなりたいとき・・・たとえば親しい人と楽しい時間を過ごすときとか、友達と騒ぐときとか、同じ職場の人とコミュニケーションをとるときとか・・・」

すると、ベテランさんは静かにこう言ったのです。

「今、あなたが言った関係性のたったひとつだけでも、彼ら(ホームレスの方々)は持っていますか?」

辛いことを忘れるために飲む

「彼らはだれかと親しくなったり、楽しむためにお酒を飲むんじゃない。辛い今を忘れるために飲むんですよ。酔って現実を忘れるための酒なら、短い時間の方がいいでしょう?」

その言葉を聞いたとき、私は金縛りにあったように立ち尽くすしかありませんでした。ただ涙だけが、とめどなくあふれては頬をつたい、落ちていくことを感じながら・・・。
路上や簡易宿泊所で、語りかける人も、待つ人もいない。ひとりぼっちで、ただ今日を生きる彼ら。その圧倒的な孤独感が、一気に襲いかかってきたようでした。

今、振り返れば、それは私が“人と人との関係性の重要性”というものを実感した最初の瞬間だったのかもしれません。(続く…

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人はだれの助けも借りず、支えもないままに、たった一人で生きていけるほど強い生き物ではありません。

確かに今の日本において、過酷な競争や生き残りレースにさらされずに生きることは困難です。でも、だからこそよけいに、だれもがホッと出来る場所、弱さを見せても安全な相手、自分をきちんと抱えてくれるだれかを必要としているのではないでしょうか。

エネルギーの“もと”を生み出すのが“家族”

「ネットから卒業すれば幸せになれるという人が居ます
私の唯一の居場所を捨てれば幸せになれるのでしょうか
すなわち、死ね、ということなのでしょう」

そう記したのは、昨年6月に起きた秋葉原事件(7人が死亡、10人が重軽傷)の容疑者でした。
彼もまた、安全な場所を手に入れることなくおとなになった孤独な人間でした。

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そんな彼のネットの書き込みからは、仮想の関係性の中で、どうにか日々をつないできた切ない人生が見えてきました。
そこには、人が人らしく、日々を送り、希望を捨てずに生きていくためには「リアルな人とのつながりから生まれるエネルギーが必要」という切実なメッセージがあふれていたのです(「絶望と自殺」参照)。

私は、こうしたエネルギーの“もと”を生みだし、日々、エネルギーを交換し合い、安心感や安全感を保障してくれる関係性を提供する居場所となるものが“家族”だと思います。
逆に言えば、たとえ肉親であっても、夫婦であっても、そうした関係性がなければもう、それは“家族”とは呼べないのではないかと思うのです。

『わたしたち里親家族』の出版にかかわって

090220.jpg まったく別のかたちで、そのことを深く感じたことがあります。

昨年、『わたしたち里親家族!―あなたに会えてよかった』(明石書店)という本の出版に携わり、里親家庭を尋ね、インタビューをさせていただいたときのことです。

私がお会いした里親さんたちは、養子縁組を目的とした里親ではなく、家庭で暮らすことが出来ない子どもたちを一定期間養育する養育里親の方々でした。

戦争孤児が多かった時代と違い、現在、里親制度(家庭的養護)や施設養護を利用している子どもの多くは、ちゃんと親がいます。

養育家庭里親の方々の役割は、それにもかかわらず親と暮らせない子どもたちを「預かって育てる」こと。

「預かる」わけですから、たとえどんなに日々を共にしても、どんなに愛情をかけても、子どもがどれほど慕っていても、養育家庭の里親は親権者よりも一歩引いた場所にいなければなりません。

“家族”を構築するための作業

しかも、子どもたちの多くは、けして「育てやすい子」ではありません。嘘をつく子、生活習慣が身についていない子、驚くほどに反抗的な子、赤ちゃん返りする子・・・。
その子の、それまでの体験やおとなとのかかわり、きちんとケアしてもらえなかったことから生じたさまざまな問題を「これでもか」というくらい次々と噴出させます。

もちろんそれは「安心できる里親さんとの関係があればこそ」のことですが、そう頭で考えて割り切れるほど、生やさしいことではありません。

里親さんたちは、悩んだり、壁にぶつかったり、ときに「もう里親なんかやめたい」と思ったり・・・。でも「やっぱりこの子がかわいい」という思いに後押しされて、少しずつ子どもと信頼関係を築き、情緒的な絆を深めていました。
その様子は、まさに“家族”を構築するための作業そのもののように私には見えました。

血が繋がっていないからこそ、子どもを自分の一部のように思い込むことなく、子どもをひとりの人間として尊重しつつ、エネルギーの“もと”となる関係性を保障しながら、その成長を支えようとする姿勢が見て取れたのです。(続く…

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でも、残念ながら「家族になるためには努力が必要」と思っている人は、日本ではそう多くはありません。

大多数は「夫婦・親子を中心とする近親者によって構成された家族は情緒的なつながりを持っているはず」と思い込み、下手をすると「血が繋がっているのだから何でも分かかり合えるはずだ」とまで思っていたりします。
戸籍を同じくする家族でさえあれば、思いを口になどしなくても、日々の暮らしという積み重ねなどなくても、すべて通じ合うと、本当に信じていたりします。

養子縁組ではない養育家庭里親が増えない理由も、そんな幻想を抱く人が多いことに由来しているように思えます。
「家族になろう」と、端から見て頭が下がるほど頑張っている養育家庭の里親さんの中にも、「実の親ではない」ことに引け目を感じているように見える人もいらっしゃいました。

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『吾亦紅』について

ところで、すっかり忘れてしまうところでしたが、今回のブログの1回目に書いた『吾亦紅』について、私の意見を簡単に述べておきたいと思います。

「親子の絆」や「母への思い」を歌う家族賛歌のように言われる『吾亦紅』。
でも私には、愛されなかった息子が「それでも母は自分を愛してくれたはずだ」と思い込もうとする叫びの歌のように聞こえます。

そう思ってしまうのは、歌全体が母親への罪悪感で彩られているからです。この歌は母の死を悼むのではなく、謝罪の言葉で埋め尽くされています。

だから、聞くたびに思ってしまうのです。「この母子には、生きるエネルギーになるような情緒的なつながりがあったのか?」と・・・。

愛された子どもなら

もちろん、愛する母親の死は悲しいことです。死を受け入れるまでに時間がかかったり、しばらくの間、悲嘆にくれたりするのは当然のことです。

けれども、もし母親にきちんと愛された子どもであれば、母親の死に際してこんなにも罪障感と後悔だけを感じるでしょうか? 「自分が悪かった」と責任を引き受け、自分を責め、母親に謝り続けたりするでしょうか?

けしてそうではないはずです。

本当に母に愛された子どもであれば、母の死を悼むことはあっても、罪悪感を持つことなど考えられません。
まちがっても、歌詞にあるように「ばか野郎となじってくれ」などと、言うはずもありません。

愛された子どもであるなら、母の死を十分に悲しんだ後には、その母の死をこれからの人生の糧とすることができるはずです。母親から受けた愛が生きるエネルギーとして、母という存在を過去のものにし、新しい一歩を踏み出すことができるはずです。

ところがこの歌はまったく逆です。
息子をいつまでも母との関係の中に定着させ、「俺、死ぬまであなたの子ども」とまで言わせています。

死ぬまで子どもの人生にのしかかり、支配する。未来へのエネルギーを奪い、子どもの生のエネルギーを吸い取り、罪悪感を背負わせ、親への愛にしばりつける。・・・そんな母は、モンスター以外の何ものでもありません。

孤独な人間は減らない

ところがこの歌が家族賛歌のように考えられ、酒場ではサラリーマンが涙しながら歌っているといいます。

子どもがさっさと親を乗り越え、自分らしく生きられるエネルギーとなる“真の親の愛”ではなく、いつまでも親に定着させ、罪悪感を与える“親の自己満足”を愛情と考える家族(親)神話が続く限り、偽りの家族の中で、偽りの自分しか見せられない孤独な人間は減らないでしょう。

極限まで追い込まれても、実家を頼ることもできず、自分でどうにかしようと頑張ったあげくに自己破壊を起こしていく人間も減らないでしょう。

秋葉原事件の容疑者のように・・・。

新年、明けましておめでとうございます。

このようにブログでご挨拶していただくのも、「新年のご挨拶も、もう何度目になったのか・・・」と考えてしまうくらい、IFFでブログを書かせていただくようになってから長い時間が経ちました。

ずっとおつきあいくださっているみなさん、また、最近になってご覧いただくようになったみなさん、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

ついつい意識してしまう「家族」

ところで、年末年始になると、私がついつい考えてしまうものに「家族」があります。

クライアントさんの多くが、家族と過ごすことに葛藤を抱えておられたり、共に過ごしたいと思う家族のいない現実と向き合う必要がある時期だからでしょう。

何しろ、年末年始になるとメディアが一斉に「帰省」や「家族」をテーマにした情報を流します。
それでなくとも、長年にわたって私たち日本人に染みついた「新年は家族と迎えるもの」という思い込みがあります。

だから、なんとなく新年を家族で迎えられない(迎えたくない)ことに、ちょっとした罪悪感や寂しさを感じてしまうのだと思います。

「家族」と「絆」

そして「家族」とセットになってよく語られるものに「絆」というものがあります。

とくに昨年は、東日本大震災を受け、「命と関係性の大切さ」を多くの人が実感した年でした。
それを象徴するように、昨年の「今年の漢字」に選ばれたのは「絆」。テレビ番組や新聞などでも「絆」をテーマにしたものがたくさんあました。

実態はよくわかりませんが、「今年の年末年始は、いつもは帰省しない人も故郷に帰った」とか、「友達と過ごすより家族と共に過ごしたいと考える増えている」などの話も耳にしました。(続く…

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一方で、「家政婦のミタ」(日本テレビ)という、ほのぼのとした家族や従来からイメージされている絆の概念とは真逆をいくようなテレビドラマが高視聴率を得ました。
そのヒットの裏には、「かねてからある『絆』というものへのうさんくささを感じている層に訴えたのではないか?」との意見もあります。

たとえば、2011年12月23日付けの『東京新聞』では、同番組が描いたものを「家族崩壊後の現代的絆」と紹介し、「(略)ほのぼのとしたドラマだとうそっぽい。簡単には解決しない状況の中で、それでも希望を見いだしたいという視聴者の気持ちに沿う筋立てだったのでは」と、藤川大祐・千葉大教授のコメントを紹介しています。

また、稲増龍夫・法政大教授は同記事で「震災後、ある意味『絆』が求められたが、それは昔に戻ることなのか、と疑問に思う人もいる。昔の親子関係や絆が崩壊したといわれる今、心の中に染みこんでくる昭和のコミュニケーションとは違う、優しくないミタのオウム返しは極めて現代的」と語っています。

昭和のコミュミケーションは心に染みこむ?

コメントを読んでいて、ふと疑問が浮かびました。

「『ミタ』で表現されたものが現代的絆だと仮定して、昭和のコミュニケーションは心の中に染みこんでくるようなものだったのか?」ということです。

「絆」や「家族」が叫ばれる昨今、一部では「かつての家族の在り方」をもてはやし、そうした家族に戻ることに抵抗感を感じているとの声も聞こえてきます。

そうした人々の多くは、今までの日本の家族が、けして「心の中に染みこむようなコミュニケーションがある」「ほのぼのとした」家族ではなかったと感じています。

おそらく、そんなふうに感じる人にとっての家族は、「窮屈な入れ物」であり、そこで交わされるコミュニケーションは「絆」と呼ぶよりも、「支配」と呼んだ方がふさわしい関係だっのではないでしょうか。

私も同感です。臨床の場でお会いする「生きづらさ」を抱えた方々の様子から察するに、昭和の家族の多くが、安心や自由を保障してくれる「絆」のある家族ではなく、「窮屈な入れ物」に過ぎない家族だったのではないかと思えるのです。(続く…