でも、残念ながら「家族になるためには努力が必要」と思っている人は、日本ではそう多くはありません。
大多数は「夫婦・親子を中心とする近親者によって構成された家族は情緒的なつながりを持っているはず」と思い込み、下手をすると「血が繋がっているのだから何でも分かかり合えるはずだ」とまで思っていたりします。
戸籍を同じくする家族でさえあれば、思いを口になどしなくても、日々の暮らしという積み重ねなどなくても、すべて通じ合うと、本当に信じていたりします。
養子縁組ではない養育家庭里親が増えない理由も、そんな幻想を抱く人が多いことに由来しているように思えます。
「家族になろう」と、端から見て頭が下がるほど頑張っている養育家庭の里親さんの中にも、「実の親ではない」ことに引け目を感じているように見える人もいらっしゃいました。
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『吾亦紅』について
ところで、すっかり忘れてしまうところでしたが、今回のブログの1回目に書いた『吾亦紅』について、私の意見を簡単に述べておきたいと思います。
「親子の絆」や「母への思い」を歌う家族賛歌のように言われる『吾亦紅』。
でも私には、愛されなかった息子が「それでも母は自分を愛してくれたはずだ」と思い込もうとする叫びの歌のように聞こえます。
そう思ってしまうのは、歌全体が母親への罪悪感で彩られているからです。この歌は母の死を悼むのではなく、謝罪の言葉で埋め尽くされています。
だから、聞くたびに思ってしまうのです。「この母子には、生きるエネルギーになるような情緒的なつながりがあったのか?」と・・・。
愛された子どもなら
もちろん、愛する母親の死は悲しいことです。死を受け入れるまでに時間がかかったり、しばらくの間、悲嘆にくれたりするのは当然のことです。
けれども、もし母親にきちんと愛された子どもであれば、母親の死に際してこんなにも罪障感と後悔だけを感じるでしょうか? 「自分が悪かった」と責任を引き受け、自分を責め、母親に謝り続けたりするでしょうか?
けしてそうではないはずです。
本当に母に愛された子どもであれば、母の死を悼むことはあっても、罪悪感を持つことなど考えられません。
まちがっても、歌詞にあるように「ばか野郎となじってくれ」などと、言うはずもありません。
愛された子どもであるなら、母の死を十分に悲しんだ後には、その母の死をこれからの人生の糧とすることができるはずです。母親から受けた愛が生きるエネルギーとして、母という存在を過去のものにし、新しい一歩を踏み出すことができるはずです。
ところがこの歌はまったく逆です。
息子をいつまでも母との関係の中に定着させ、「俺、死ぬまであなたの子ども」とまで言わせています。
死ぬまで子どもの人生にのしかかり、支配する。未来へのエネルギーを奪い、子どもの生のエネルギーを吸い取り、罪悪感を背負わせ、親への愛にしばりつける。・・・そんな母は、モンスター以外の何ものでもありません。
孤独な人間は減らない
ところがこの歌が家族賛歌のように考えられ、酒場ではサラリーマンが涙しながら歌っているといいます。
子どもがさっさと親を乗り越え、自分らしく生きられるエネルギーとなる“真の親の愛”ではなく、いつまでも親に定着させ、罪悪感を与える“親の自己満足”を愛情と考える家族(親)神話が続く限り、偽りの家族の中で、偽りの自分しか見せられない孤独な人間は減らないでしょう。
極限まで追い込まれても、実家を頼ることもできず、自分でどうにかしようと頑張ったあげくに自己破壊を起こしていく人間も減らないでしょう。
秋葉原事件の容疑者のように・・・。