image070219.jpg 「フィリピン ベッドタイム ストーリーズ」という芝居を観ました。フィリピンの演劇人と交流を重ねてきた日本の劇団・燐光群が両国スタッフ共同で創り上げた作品です。
2004年から続いてきた「フィリピン ベッドタイム ストーリーズ」シリーズの第三弾にあたるもので、5つのショート・ストーリーから構成されていました。

日本語・タガログ語・英語が混在したセリフ(舞台の両サイドに字幕モニターが用意されていました)と、ベッドルームから見えるフィリピンと日本における現代社会の問題を浮き彫りにしているところが特徴です。


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ベッドルームを舞台としているだけに、5つのストーリーとも性的な色彩の濃いものになっていました。
例えば、

1)売春や社会階級をテーマにした「ドゥルセの胸に1000の詩を」
2)既婚の女性実業家と部下の不倫を扱った「離れられない」
3)妻子ある男性との恋いに破れ、男性に裏切られたショックから胎児の血をすする吸血鬼と化してしまう女性の悲劇「アスワン〜フィリピン吸血鬼の誕生〜」

などです。

いずれのショート・ストーリーも社会の影にうごめく男女の性の世界を表現しているようでいて、「公に認知された性的関係を持つ男女」(家族)の抱える矛盾が浮かび上がって見える。そんな興味深いストーリーばかりでした。(続く…

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image070223.jpg無邪気な残酷さ

なかでも印象的だったのは「代理母ビジネス」というショート・ストーリーでした。

主人公は依頼者の男性とセックスし、男性の妻に替わって出産するという出産代行業を営むフィリピン女性・ララ。
ララは「貧困から脱するためのビジネス」と自分に言い聞かせながらも、女性としての尊厳を踏みにじられ、母としての人生を手放すことに苦悩します。大金を手にした満足にひたりながらも、「愛する人と結ばれ、子どもを育てたい」と心を引き裂かれるような苦しみを味わいます。


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そんなララの葛藤をよそに、どこかの大臣よろしくララを「産む機械」のように利用する男性たち。そこには暴力的な男性もいれば、優しい男性もいます。しかし、いずれにせよ彼らは子どもを受け取るとさっさと去っていきます。
そして、ララの子どもを嬉々として我が胸に抱く妻たち。

ララのもとを訪れる依頼者夫婦の無邪気な残酷さ。
それは私に、満杯の乳児院や児童養護施設には目を向けることなく、「血を分けた子ども」に固執する日本社会を連想させました。少子化対策を叫びながら、夫婦別姓や事実婚を否定し、「家族のかたち」にこだわる日本の政治家や識者を思い出させました。(続く…

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image070226.jpg家族とは何か

そんな重いショート・ストーリーが続く中、漫画家の内田春菊さんが書き下ろしたラストの作品「フィリピンパプで幸せを」に、ホッとしました。
ケタ外れの金持ちで性同一性障害のフィリピン人女性(元男性)と日本人男性のラブ・コメディです。

男性は、初めて行ったフィリピン・パフで知り合った女性と一夜を共にします。ところが、朝目が覚めてビックリ。女性の自宅はとんでもない大邸宅で、男性は寛大な女性の両親と妹たちからものすごい歓待を受けます。話はトントン拍子に進み、女性とその家族から結婚を迫られます。

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突然の出来事に最初は逃げ腰の男性。しかし、いくつものドタバタ劇の末、二人は結ばれ、「めでたくハッピーエンド」・・・という、かなり笑える作品でした。

きっと「フィリピンパフで幸せを」は、「家族のかたち」にこだわる人たちには、とうてい理解できない話でしょう。
でも、5つのショート・ストーリーを見終わったとき、「幸せそうだなぁ」と思えたのはこの話に登場する家族だけでした。
「家族とは何なのか」と、改めて考えさせられた作品でした。(続く…

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「夫婦別姓反対増」のカラクリ

「家族のかたち」と言えば、つい最近、夫婦別姓に関する内閣府調査が発表されました。 マスコミ各社は「夫婦別姓 反対増える」「夫婦別姓は減った」と報道していましたが、実はこの調査結果にはカラクリがありました。反対派の年齢構成が熟年層に偏り、回答者の86%以上が既婚者だったのです。

2007年2月10日の『東京新聞』は、「これから結婚する人の意見が反映されていないのはおかしいのではないか」、「前回の調査の方がまだ現実の人口構成に近かった」として、内閣府の「若い層は昼間仕事に出ていたり、回答拒否が多い」というコメントを批判に論じています。
私もまったく同感です。だって、「今後の施策の参考とする」ための調査と公言しているのですから。

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記事によると、夫婦別姓問題に直面してきた20〜40台女性の反対派は20%にも満たず、容認派は40%を越えるそうです。

現政府で力を持つ安倍晋三首相をはじめ、高市早苗男女共同参画担当相、中川昭一自民党政調会長などがこぞって夫婦別姓反対派であることを考えると、どこか作為的な雰囲気さえ感じてしまいます。

ちなみに安倍首相は少子化対策の一環として新設した「子どもと家族を応援する日本重点戦略検討会議」でも「家族の再生」を掲げている人です。
また、著書『美しい国へ』(文春新書)の「教育の再生」(第7章)では、「『家族、このすばらしきもの』という価値観」というパラグラフで、「『お父さんとお母さんと子どもがいて、おじいちゃんもおばあちゃんも含めてみんな家族だ』という家族感と、『そういう家族が仲良く暮らすのが一番幸せだ』という価値観は、守り続けていくべきだと思う」(219ページ)と書いています。(続く…

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image070305.jpg「家族神話」の呪縛

子どもと家族を応援すること大賛成ですが、「家族のなかみ」を考えることなく「家族、この素晴らしきもの」と言い切ってしまうことには、違和感を覚えずにはいられません。

確かに、
「お父さんとお母さんと子どもがいて、おじいちゃんもおばあちゃんも含めてみんな家族だ」
と思えるような家庭で子どもが育つことは理想的かもしれません。子どもが
「そういう家族が仲良く暮らすのが一番幸せだ」
と思えるような家族に囲まれて暮らすことができれば、とてもいいでしょう。

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でも、それはあくまでも結果論です。家族が互いを尊重しあい、愛し合い、支え合っている家庭で育った子どもが成長し、自然に感じるようになることです。
間違っても、
「おとなが子どもに教え、守り伝えていく価値観」
などではありません。わざわざ教え込まなくても、そうした家庭で育った子どもは「家族は素晴らしい」と思っています。

そもそも子どもが親を否定するということは、本当に難しいものです。
自分を殴り、無視し、思い通りに操ろうとする親のことさえ、一生懸命に「愛そう」「愛されよう」とします。
性的な虐待を受けていても、
「自分は特別あつかいされているのだ」
と、親の言動を肯定的に解釈しようとすることさえあります。

おとなになってからもこうした「家族神話」からは、なかなか抜け出すことはできません。親が自分にしたことを客観的に受け止め、事実を受け入れることは容易ではないのです。
「いい親であって欲しい」
「自分がもっと良い子だったら親はちゃんと愛してくれたはずだ」
「親は自分を愛しているからこそ、ああいう態度をとったのだ」
・・・そんないくつもの幻想が私たちを縛っています。
そして「家族がいちばん大事」「親孝行こそすべきこと」「血は水より濃い」・・・そんな多くの呪文が、私たちの周囲を取り巻いています。

私たちの魂にまで染みこんだ幻想や呪文に気づかぬままでいた場合、私たちは自分の子どもにも自分が親からされたように接し、子どもにも自分と同じ価値観を持つよう強制し、知らず知らずのうちに「家族神話」の信奉者にしてしまいます。
親から受け取った“負の文化”をそのまま子どもにわたしてしまうのです。

ただでさえそうなのですから、価値観として「家族はいいものだ」と子どもに教え込むなどというのは、とんでもないことです。(続く…

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image070306.jpg「家族のなかみ」こそ大切

このように言うと、「夫婦別姓や事実婚を認めたら家族が崩壊する」と、反論する人たちがいます。
婚姻制度という“ちょうつがい”を外したら、夫婦も家族もバラバラになってしまうから、そんなことはとうてい許すことができないというわけです。

でも、そんな家族(夫婦)は、すでに家族としての機能ーー愛情や共感、温かさや尊敬、安心や自由などをお互いに与え合うことーーを失っています。
そのいちばん大切な部分を無くし、バラバラになった人々を無理やり家族という器に押し込めようとすれば、かならずどこかに歪み=病理が生じます。


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「家族のなかみ」ではなく「家族のかたち」にこだわる家族の中にこそ、病理は繁殖しやすくなるのです。
今、「子ども(若者)の問題」とされることの多くは、そうした病理を見て見ぬふりしようという家族(親)に対する、子どもの悲鳴にほかなりません。

かたちや外見だけがキレイな家族と、多少かたちはいびつでも家族としての機能をちゃんと持っている家族。子どもはどちらの家族で暮らす方が幸せを感じられるでしょうか?
わざわざ問う必要もないほど簡単なことです。(終わり)

image_071029.jpg ある本のタイトルではありませんが、最近、つくづくそう思った瞬間がありました。
『朝日新聞』(2007年10月21日朝刊)の「家族」という記事を読んだときです。そこには、息子の縁談のために奮闘する親の姿が描かれていました。

10月初めの日曜日、都内某所のホテルに適齢期になっても結婚しない子どもにしびれをきらした親たちが、「まず親同士で見合いをして話を進めよう」と集まったそうです。その数、なんと160人!


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掲げられた看板には次のように書かれていました。

「お見合い新時代 親の縁は子の縁交流会in東京」

記事は、「親の見合い」に7回目の参加となるある母親を中心に描かれていました。

「子どもには親しかいない」?

自営業の店を軌道に乗せ、26歳からお見合いをさせているのに一向にまとまらない息子の縁談。「親の見合い」で、息子の上申書を受け取ってくれた親は20人ほど。
「息子は優しいから、お嫁さんは楽なのに」と考えている母親は、「親を安心させたい」と、22歳で結婚したそうです。そんな母親は30代半ばの息子が独身でいるのが不思議でならない様子。

記事はこんな母親の言葉で締めくくられていました。

「がんばらなきゃ、子どもには親しかいないんですもの。また親の見合いに行ってみよう。だめかもしれないけれど、だめもとで」(続く…

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「子どものため」に奔走する親

image071105.jpg 「子どもには親しかいないのだから」と、自分を犠牲にして「世間様に後ろ指をさされない人間にしてあげる」ためにがんばる。
そんな親の根底にあるのは「この子は私のもの」という、子どもへの所有意識です。

こうした親は「子どものため」と言いながら、自分の人生を豊かにするために子どもの人生を支配し、コントロールします。

「子どもの幸せ」のために奔走する親ほど、こわいものはありません。

結婚しない子どもの身を案じて「親の見合い」会場に集まる親たち。
その親たちは子どもが成人してもなお、子どもの人生を支配することを止めようとしません。あろうことか配偶者選択と子孫の誕生という子どもの未来までも手中に収めようというのです。

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「愛情」という名の支配

私たちの社会では、こうした親の支配を「愛情」という名で呼びます。

「愛情」あふれた親は、子どもを社会で通用する“作品”に仕上げようと、その人生に口を出し、思い通りに装飾し、好きなように操作します。
そうしてさんざん子どもの人生をかき回し、子どもから生きる自信も気力も、希望も夢も奪ったあげく、「感謝しろ」と迫ります。

身体的な暴力やネグレクトには敏感な人たちも、こうした残酷な「愛情」には無頓着です。
私たちの社会には、「子どもは親に従うべき」との常識がまかり通り、どんな親に対しても「親孝行するのは当たり前」という意識が浸透しているのです。(続く…

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ちょうど1年ほど前、そんな私たちが暮らす社会の常識や通念をよく表している出来事がありました。
東京板橋区で寮管理人の両親を殺害し、ガス爆発事件(2005年6月)を起こした少年への判決です。

恐ろしい父の存在

報道等によると、少年の父は寮の仕事を少年にさせ、自分はバイクでツーリングに行くなどしていました。

一生懸命に寮の仕事をこなしても、父が少年をほめることはありませんでした。それどころか「まだここが汚れている」などとあら捜しばかり。

不満を募らせた少年が「なぜ掃除ばかりしなきゃいけないんだ」と直談判すると、「子どもが親の手伝いをするのは当たり前だ」と、少年の心のよりどころだったゲーム機を壊したと言います。

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少年が掃除の手を休めていると、携帯電話やパソコンを壊されたこともありました。
事件前日、勉強のことで口論になったとき、父は「お前とは頭の出来が違う」と少年の頭を激しく揺さぶりました。

おそらく少年にとって、父は自分の毎日を支配する恐ろしい存在だったに違いありません。

少年を担当した弁護士さんからは、「逮捕直後、面会に行くと、少年はいつも面会時間の終わりを告げるために近づいてくる職員の足音に耳をすませ、過敏に反応していました。きっと、いつも父親の足音や気配におびえながら暮らしていたんでしょう」という話も聞きました。

“不幸な母”という十字架

勉強や習い事をさせることには熱心だった母は、お金を工面して少年を海外にホームスティもさせました。

でも、少年の気持ちを理解しようという気持ちは希薄だったようです。生活に疲れ、いつも「死にたい」とつぶやいていた母は、少年の食事の支度もほとんどしなかったと言います。

そんな“不幸な母”を横目に、父親の暴力にさらされて生きざるを得なかった少年の孤独感や絶望感、罪悪感はどれほどに深かったことでしょう。

子どもに安心感を与えられない“不幸な母”は、「母を救ってあげられない」という負い目を子どもに与え、将来にまで影響を与えかねない大きな十字架を背負わせてしまうことも少なくありません。

少年は公判の席で「お母さんは『死にたい』と言っていたし、これ以上へんになるなら、楽にしてあげようと思って殺した」と述べています。(続く…

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この少年に対し、事件を担当した栃木力裁判長は懲役14年を言い渡しました。

おそらく裁判長は、辛い体験、親への愛憎半ばする思い、そうした少年が語る“事実”、を「改悛の情が見受けられない」と判断したのでしょう。

判決要旨を読むと、この裁判長は、父がゲーム機を壊したことは「勉学がおろそかになることを心配していた」ためと考え、奴隷のようにこき使われ、放ったらかされていた毎日は「不適切な養育とは言えず、両親に募らせていた不満や恨みは極めて身勝手なもの」と思っていたことがよく分かります。

こうした判決や判決要旨もさることながら、私が怒りを覚えたのは、判決朗読後に裁判長が少年にかけた次のような言葉です。

「ご両親なりに愛情を持って育てていたと思います。あなたには、そのことに気づいて欲しいと思います」(『朝日新聞』2006年12月2日)

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「両親の愛情」という幻想

父親が少年にしたことは、紛れも無く人間の尊厳を叩き潰す行為です。もし、親子ではない、おとな同士の関係のなかで、同様のことをしていたら、当然罰せられていたでしょう。

一方、母親はどうでしょう。父親の暴力に対して無力で、生きていくだけで精一杯。少年の気持ちを考える余裕もなかった母親は、少年に愛情ある接し方が出来ていたと言えるでしょうか。

少年の両親を責めるつもりはありません。おそらく両親も、きちんとした愛情を親から受け取っていない、かわいそうな人たちだったのだとも思います。そういう意味では、両親が、少年にこうした接し方しかできなかったのは、当たり前とも言えます。

しかし、だからと言って、この両親の養育態度を「愛情を持って育てていた」などど、言っていいはずがありません。

もし、そんなことが許されてしまえば親が子どもに対して行なう、どんな残酷な行為も「愛情」という言葉をかぶせることで「子どもがありがたく受けるべきこと」へとすり返られてしまいます。

行為者が、ただ「親だ」というだけで、子どもがされた残酷な“事実”が、「両親の愛情」という幻想に置き換えられてしまうのです。(続く…