新年あけましておめでとうございます。
松も取れ、鏡開きも終わり、お正月気分も抜けてすっかり「日常」に戻ってしまった感もありますが、おくればせながらご挨拶申し上げます。

9年目を向かえる「カウンセラー木附が語る子どもと社会」を今年もどうぞよろしくお願いいたします。

毎年、新年になると「今年こそは良い年になりますように」と願っています。お参りに行ったときには「あらゆる命が幸せに生きられる1年になりますように」と必ず、願をかけます。

でも現実には、毎年毎年、どんどんだれもが生きづらい社会、子育てしにくい社会になっている感が否めません。

機能不全家族とは

少し話がずれるようですが、家族内に対立や不和、別離や暴力、依存症などなど、さまざまな問題があるために、家族らしい団らんや家庭的な暖かさ、安全基地としての役割が欠如してしまっている家族。
そのために、子どもが安心して親を頼ったり、甘えたり、わがままを言ったり、ぐずったりなどの「子どもらしい」時代を過ごすことができなくなってしまっている家族。

そんな家族のことを「機能不全家族」と呼ぶことは、みなさんもよくご存じでしょう。

先日、大学生たちにこの「機能不全家族」の定義を話したところ、次のような多くの驚きが寄せられました。

「わがままを言うのはよくないこと」
「親に頼らないのはいいことではないか」
「夫婦の不和や単身赴任による別離なんていくらでもある」
「そんなことを言ったら、世の中は『機能不全家族』だらけになってしまう」

などです。

日本の多くの家族は機能不全

そう、このブログを読んでくださっているみなさんは、すでにお分かりのことと思いますが、実は日本全体を見渡したときに「機能不全家族」はけっして少なくなくありません。

臨床心理学者で多くの著書がある西尾和美氏は、著書『機能不全家族 「親」になりきれない親たち』講談社プラスアルファ文庫)において、「日本の家族の80パーセントが機能不全」という衝撃的な指摘をしています。(続く…

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もし、日本の家族の80%が、機能不全に陥ってるのだとしたら、今、世の中を生きているほとんどのおとなはアダルトチルドレン(AC)ということになります。

多くの人が、「自分には価値がない」と思っていたり、 人の目(評価)を異常に気にしたり、必要以上に「完璧でなければならぬ」と思っていたり、いつも対人関係にトラブルを来してしまったりする「生きづらい」人間であるということです。

もし、こういう人たちが本当に増えているのだとしたら、それはもう「家族がうまく機能していない」というレベルでの問題ではありません。

その家族が所属する社会に問題があるということではないでしょうか。


「生きづらい」日本

私たちの社会は、「ひとりひとりの人間が豊かで幸せに生きることができる」社会を目指して発展してきたはずです。

そのためには、もちろん、経済的な豊かさや便利さ、文明の発展も必要でしょう。
でも、それだけでは決して幸せにはなれないことは、世界的に見れば豊かな国に入る日本での、自殺者や精神疾患の推移を見れば分かります。

毎年3万人前後が自殺していること、15~39歳という若い世代での死因トップが自殺であること、自殺との関連が指摘されている「うつ」が増加し、1996年には国内で43万3000人だったうつ病など気分障害の患者数が2008年には104万1000人になっています。
(データは内閣府の『自殺対策白書』や厚生労働省『患者調査』等より)

これは先進国であるはずの日本で多くの人が「生きづらい」と感じている証拠です。

優しさや安全感が欠如した社会

こうした「生きづらい」社会になっているということは、社会に暴力や対立、競争や憎しみなどがはびこり、人間が幸せに生きていくための優しさや安全感が欠如してしまっているということです。

つまり、社会が「ひとりひとりの人間が豊かで幸せに生きることができる」という方向から大きく外れ、家族が暖かいものを家族内の者に提供することができず、人間が“人間らしく”生きることができないような、機能不全の社会になってしまっているということではないでしょうか。(続く…

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優しさや安全感が欠如し、人間が“人間らしく”生きることができないような社会になってしまっていることは、日々のニュースを見ていてもひしひしと感じます。

安倍首相にはその認識は無いようですが、一般的な感覚から言えば所得格差の広がりはどう考えても拡大しています。

その大きな要因となっているのが、非正規労働者の増加です。兼業主婦によるパートやアルバイトを含む数字ではありますが、最近の統計では労働者のやく4割が非正規雇用にあたるそうです。
(参照元:パートやアルバイトは増加継続…非正規社員の現状をグラフ化してみる(2015年)(最新) – ガベージニュース

こうしたなかで、政府が1月に閣議決定した2015年度予算案では生活保護費が削減され、介護報酬の総額が引き下げられるなど、低所得者への対策は後退しています。一般庶民の立場から言えば、「デフレからの脱却」というよりも、「物価の上昇」が生活を圧迫しはじめています。

戦争への道?

低所得者層への支援が減る一方、公共事業費や防衛費は増えています。

集団的自衛権の行使容認や歴代政権が守ってきた「武器輸出三原則」に代わって昨年4月に策定された「防衛装備移転三原則」との関連でとくに気になるのは、三年連続増加している防衛予算です。今年度はなんと過去最高額の4兆9801億円となっています。

一方で、政権の基地政策に反対する翁長雄志知事が当選した沖縄の振興予算は前年度から162億円の減でした(データはいずれも『東京新聞』2015年1月15日)。

「積極的平和主義」とか「人道支援」と言えば聞こえはいいですが、こうして軍事産業の育成や拡大をうながし、戦争への道を着々と歩んでいるように見えてしまいます。

優しさや安心感とは反対の方向へ

「そこまで言うのはオーバーだ」とおっしゃる方もいるかもしれません。でも、少なくとも今、日本が進んでいる道は、優しさやさ安心感をもたらす社会とは反対方向のように見えます。

そして、私たち人類が幾度となく繰り返されてきた戦いの歴史のなかで、数多の犠牲を払って学んできた「戦争(武力)は不幸な人を増やすだけだ」という事実に背を向け、「経済発展を続けるためには戦争(武力)は必要だし、多少の犠牲はやむを得ない」という考えにシフトしつつあるように感じます。(続く…

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そんな考えに確信を与えたのは、イスラム国によるふたりの日本人人質事件をめぐる日本政府の対応です。

驚くことに、ふたりがすでに数ヶ月にわたってイスラム国に拘束されていることを知りながら、救出に向けて積極的かつ有効な対策を取ってきませんでした。

それどころか、安倍首相はわざわざ中東を歴訪し、歴訪先のエジプトで「イスラム国の脅威を食い止めるべき」と発言し、イスラム国対策として2億ドルを支援することを表明しました。


挑戦状を突きつけたも同然

自国民がとらわれ窮地に陥っているというのに、全力をあげて救う努力はしないまま、これでは逆に敵に挑戦状を突きつけたようなものです。

その後、イスラム国が安倍首相が援助するとした2億円と同額の身代金を要求したことや安倍首相に宛てたイスラム国からのメッセージからも、イスラム国側が安倍首相の、ひいては日本政府の対応をどう受け止めたのかは容易に推測できます。

ふたりが人質になっている映像が公開された後の「今後も国際社会と連携し、地域の平和と安定のために一層貢献していく。この方針を変えることもない」(『朝日新聞』2015年1月21日)という発言も、イスラム国を挑発する要因になったのではないないでしょうか。

血で血を洗う戦いが続く

結局、ふたりは殺害されてしまいました。

ほぼ同時期にイスラム国に拘束されていたヨルダン人パイロットは、おりの中に閉じ込められ、生きたまま火をつけられて焼死したと見られています。

パイロットの殺害が明らかになると、今度はヨルダンが即刻、イスラム国が釈放を求めていたサジダ・リシャウィ死刑囚の死刑を執行しただけでなく、アルカイダ系の別のイラク人服役囚に対する死刑も執行したと報じられました。
(参照元:ヨルダン、リシャウィ死刑囚の死刑執行)(別ウインドー)

また、ウクライナでも政府軍と親ロシア派が血で血を洗う戦いを続けていることは周知のことです。(続く…

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この3月を振り返っても、「血で血を洗う戦い」は一向に止む気配は無く、一般臣民の犠牲も増えています。

アラビア半島のイエメンでは、自爆テロによって77人が死亡(3月20日)。チュニジアの首都チュニスにあるバルドー博物館ではイスラム過激派に海外旅行客が襲撃され、日本人3人を含む23人が死亡する悲劇も起こりました(3月18日)。

報道されることはほとんどありませんが、シリアではアメリカを中心とする有志連合の空爆によって多くの市民が命を落とし、死の恐怖と隣り合わせで暮らしていることでしょう。

これはもう「社会の問題」を超え、世界全体が機能不全に陥っていると言っても過言ではないでしょう。

拡大する自衛隊の活動

そうしたなか、自民・公明両党は武力で他国を守る集団的自衛権の行使を可能にする武力攻撃事態法改正などに大枠で合意しました。今後、日本政府は関連法案の条文を作成し、関連法案を成立させていきます。
そうすれば自衛隊の活動範囲は地球規模に広がることでしょう。

確かにそこには、海外での法人救出や国際的な復興支援活動も盛り込まれてはいますが、前回のブログで書いた法人救出失敗の顛末や、現在、3.11の被災地で行われている住民軽視、企業の利益や権益の拡大を図る復興の様子を見れば、その言葉も薄っぺらなものとしか感じられません。

テロに駆り立てるもの

そもそも、なぜこんなにも欧米諸国への怒りが中東地域で噴出しているのでしょう。何が人々を命をかけた危険な行為へと駆り立てているのでしょうか。

もちろん、何があっても人を殺したり、武力を使って思い通りにことを運ぼうとする考えは許されません。

しかし、中東の歴史を振り返ればそうした行動に駆り立てられざるを得ない人々の気持ちも理解できる気がします。(続く…

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前にこのブログでもご紹介しましたが、『バッド・マザーの神話』(誠信書房)という本を書いたアメリカの臨床家・ジェーンスウィガートは、こんな指摘をしています。

「私たち(おとな)の行動が真に破壊的になると、子どもたちはギョッとするような悲劇的なやり方で警告してくれます。ティーンエイジャーの自殺やうつ病、暴力事件の増加や学校における不法な薬物の蔓延などで、このような現象は低年齢化し、いまは思春期前の子どもの間にまで広がってきています。子どもたちの行動の意味するところや子育ての心理的な現実を探ることによって、私たちの病める時代が抱える病弊のより深い意味を理解することができるのです」(307頁/引用冒頭の(おとな)は筆者が加筆)

川崎の中学一男子殺害事件

このスウィガートによる「子どもがびっくりするような事件を起こす原因は私たちおとなとその社会にあるのだ」という指摘を思い出さずにはいられない事件があります。

2月に起きた川崎市の多摩川河川敷で中学1年の男子が殺害された事件です。

新聞などは、加害者は18~17歳の少年。当日、加害少年らは男子を真冬の川で全裸で泳がせたうえ、カッターナイフで切りつけるなどの暴行を加え、死亡させたと報道しています。

その後、男子は以前からリーダ格の加害少年によって暴行を受けていたこと、「殺されるかもしれない」ともらしていたこと、顔に殴られたような痣があったことなども、明らかになりました。

少年法厳罰化の議論も再燃

事件後、ネット上には、男子だけでなく、加害少年らの名前や住所、顔写真、生い立ちなどまでが赤裸々に暴露されています。
そして、こうした事件があるたびに繰り返されていることですが、加害少年を一方的に責め、さらには少年法の厳罰化が再び議論になっています。

折しも、今国会には自民、民主、維新、公明、次世代、生活の6党によって、選挙権の年齢を「十八歳以上」へと引き下げる公選法の改正案が提案されています。「18歳は十分におとな」という、成人年齢の引き下げと合わせた議論になっているのです。(続く…

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罪を犯した責任を「子ども自身に問題があるのだ」と考え、罰し、責任を負わせることは、私たちおとなにとって、とても楽で、ついついそうしたくなってしまいます。

以前、ある本の編集者が私にこんなことを言っていました。
「子ども関連で売れるのは『子どもの側に問題がある』という視点で書かれた本です。テーマは子育てでもいいし、社会現象の本でもいい。大事なのは、『おとなの側には非がない』ということがはっきりしているかどうかです。そういう本であれば、おとなは安心して読めるから、手に取りやすくなるのです」

ちょっとキツイ表現で、平たく言い直せば「けっしておとなである自分は責められない。自分自身の過去や生い立ち、自身の親との関わりや子どもとの向き合い方を根本から考えなおす必要もない。今までの自分はいっさい揺らぐことなく安全な場所にいられて、『子どものことを考えている』ような気分が味わえ、『そんな子ども(若者)が増えた社会を憂えている』という満足感も得られるものが受ける」・・・ということでしょうか。

悲劇の事件の背景は?

このように現実を自分の都合に合わせて考えること、目の前の現実ではなく“信じたい現実”だけを見てい行くことは、自分を守る大切な術です。
こうした“賢さ”“ずるさ”は、私自身を含め、人間が生き延びるために備えている能力の一つであり、なければ心のバランスを崩してしまうものでもあります。

前回のブログでご紹介した川崎市の中学1年生男子殺害事件のあと、さまざまなメディアが「気づかなかったSOS」とか「なぜ彼のSOSがおとなに届かなったのか」などという記事を掲載していましたが、事件に至るいくつものサイン(たとえば顔のアザなど)が見過ごされた背景には、そんな心のバランスを取るための防衛機能もきっと働いていたことでしょう。

さらに、子どもというのは「身近なおとなに心配をかけたくない」「自分はちゃんと出来ている子と思われたい」と思ってしまうことが多々あります。

あの事件は、おとなが持つ防衛機能と子どもが持たずにはいられない思いがピッタリとハマりこんで出来上がった悲劇だったという見方もできます。(続く…

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では、事件は防ぐことはできない悲劇だったのでしょうか。
私はそうは思いません。

報道によると、不登校だったこの男子生徒は、友人に「学校に行きたいけど、行けない」とつぶやいてみたり、年上の少年から暴力を受けており「殺されるかもしれない」と漏らしたりもしています。

同級生ら身近な友だちの間では、男子生徒がかなり危ない状況に置かれていることは、周知の事実でした。
しかし、子どもたちのだれもが、この事実をおとなに打ち明け、おとなに助けを求めようとはしなかったのです。

おとなが信頼されないのは当然

『東京新聞』(2015年3月15日)には、「大人には言いにくい」「言ってどうにかなるのかなと思ってしまう」などという、同世代の子どもたちの声が載っていました。

その報道を読み、衝撃を受けると同時に「やっぱり」という思いがこみ上げてきました。
今、私たちおとなが子どもから信頼に足る存在になっているとはとうてい思えなかったからです。

たとえば私たちの社会は、あの3・11を経験し、30万人を超える原発避難者を生みました。震災から4年がたった今も20万人を超える人たちが故郷を追われています(復興庁)。
しかしそれでも、私たちの社会は「経済性が高いから」「便利だから」と、原発を手放そうともしません。それどころか他国に積極的に売り歩いています。

「景気が良くなった」「完全失業率が減った」(総務省)というけれど、非正雇用者は相変わらず増えており、労働者全体の4割にも届く勢いで(厚生労働省)、格差社会はすっかり定着しました。

子どもの生活を脅かす社会

つい先日は社会福祉に取り組んでいる知人から「東京都豊島区のホームレス炊き出しに子どもが並んでいた」という話まで聞きました。

格差を是認する私たちの社会は、子どもの生活をここまで脅かしているのです。(続く…

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昨今、身近なおとなときちんとした愛着形成ができていないがゆえに、犯罪や非行行為などのいわゆる問題行動を取るのだという研究が進んでいます。
科学の発展によって、虐待などの不適切な養育が脳にどのようなダメージを与えるのかが分かってきたのです。

虐待が脳に与える影響

虐待が脳に与える影響を研究し続けてきた福井大学の友田明美氏は論文(『自由と正義』Vol.66NO.624ページから31ページ)のなかで、幼少期に激しい虐待を受けると脳の一部がうまく発達できなくなってしまい、成人になってからも薬物乱用やうつ病、アルコール依存、自殺企図などのリスクが高まるという既存の報告も記ながら、自身らの研究結果として次ぎのような事実を挙げています。

・性虐待を受けた者はそうでない者と比べ脳の視覚野の容積が18%減少しており、11歳までに性的虐待を受けた期間と視覚野の容積減少の間には有意な負の相関があり、虐待期間が長ければ長いほど一次視覚野の容積が小さい。

・言葉の暴力を受けて育った者はスピーチや言語、コミュニケーションに重要な役割を果たす脳の聴覚野が変形(聴覚野の一部容積が増加)し、「生まれてこなければよかった」などの暴言を受け続けると知能や理解力の発達にも悪影響が生じることも報告されている。

・小児期に長期間かつ継続的に過度な体罰を受けた者は、その部分が障害されると感情障害や行為障害(非行を繰り返す)につながるとされる前頭前野の一部で、感情や思考、犯罪抑制力に関わってくる内側前皮質のサイズが小さくなっている。

重篤な虐待ではなくても

このような調査結果を聞くと本当にびっくりしますが、実は友田氏らの調査対象となったの方々ほど重篤な体罰や虐待を受けてきてはいなくても、愛着がうまく形成されないケースはたくさんあるように思えます。

私がカウンセリングの場でお目にかかる「親に愛してもらえなかった」という傷つきや「自分を受け入れてくれる人はだれもいない」という絶望感を持った方々、依存症やうつ、自殺念慮に悩む方々のなかには、命を脅かされるほどの虐待までは受けていない方もいらっしゃいます。(続く…

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私をはじめ、今の社会で親をやろうとすれば、いつでもだれでもやってしまいそう(言ってしまいそう)な親のエピソードを語られるクライアントさんがたくさんいらっしゃいます。

たとえば、兄弟や同級生と比べてはだめ出しをされたとか、経済的に厳しい両親が常に教育費の捻出に頭を悩ませていたとか、「大学にも行けないとまともな人生は歩めない」と小さい頃から言われ続けたとか、何かひとつ秀でたものを身に付けさせようと親が習い事にやっきになっていたとか、自分がいるがために両親が離婚できず喧嘩を繰り返していたとか・・・。

子どもの立場になれば

「こんなことが不適切な養育と言われるのでは、とても子育てなどできない!」というお叱りの声が聞こえてきそうです。
でも、子どもの立場で考えてみてください。子どもはたとえひどく虐待する親であっても愛されたいと願い、親が大好きで大好きで仕方がないものです。

そんな何よりも大切な親から発される何気ない一言や視線、小さなため息がどれほどのインパクトを子どもに与えるのかは容易に想像ができます。
親の小さなささやきが、子どもにとっては最大限のボリュームで拡声器から発された言葉のように聞こえてしまうことだってあるのです。

その事実を私たちおとなはもう少し認識するべきだと思います。子どもだった頃の自分を思い浮かべ、自分の言動が、子どもにとってどんな意味を成すのかを振り返ることも必要なのではないでしょうか。

子どもの成長・発達を犠牲にする社会

もちろん、自分ひとりが食べていくことさえ難しい今の日本社会で、親が懸命に精一杯の力で子育てしている事実は否定しません。

しかし、生き馬の目を抜く経済競争が当たり前。金儲けのためであれば危険な武器や原発を売り歩くことさえ賞賛される今の社会では、子どもに共感し、受容することはとてつもなく難しいことです。かなり意識的にしていないと、安心感や愛情を求めることが「甘え」のように思えたり、だれかを頼ることは「いけないこと」のように思えてしまうでしょう。