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この少年に対し、事件を担当した栃木力裁判長は懲役14年を言い渡しました。

おそらく裁判長は、辛い体験、親への愛憎半ばする思い、そうした少年が語る“事実”、を「改悛の情が見受けられない」と判断したのでしょう。

判決要旨を読むと、この裁判長は、父がゲーム機を壊したことは「勉学がおろそかになることを心配していた」ためと考え、奴隷のようにこき使われ、放ったらかされていた毎日は「不適切な養育とは言えず、両親に募らせていた不満や恨みは極めて身勝手なもの」と思っていたことがよく分かります。

こうした判決や判決要旨もさることながら、私が怒りを覚えたのは、判決朗読後に裁判長が少年にかけた次のような言葉です。

「ご両親なりに愛情を持って育てていたと思います。あなたには、そのことに気づいて欲しいと思います」(『朝日新聞』2006年12月2日)

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ちょうど1年ほど前、そんな私たちが暮らす社会の常識や通念をよく表している出来事がありました。
東京板橋区で寮管理人の両親を殺害し、ガス爆発事件(2005年6月)を起こした少年への判決です。

恐ろしい父の存在

報道等によると、少年の父は寮の仕事を少年にさせ、自分はバイクでツーリングに行くなどしていました。

一生懸命に寮の仕事をこなしても、父が少年をほめることはありませんでした。それどころか「まだここが汚れている」などとあら捜しばかり。

不満を募らせた少年が「なぜ掃除ばかりしなきゃいけないんだ」と直談判すると、「子どもが親の手伝いをするのは当たり前だ」と、少年の心のよりどころだったゲーム機を壊したと言います。

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「子どものため」に奔走する親

image071105.jpg 「子どもには親しかいないのだから」と、自分を犠牲にして「世間様に後ろ指をさされない人間にしてあげる」ためにがんばる。
そんな親の根底にあるのは「この子は私のもの」という、子どもへの所有意識です。

こうした親は「子どものため」と言いながら、自分の人生を豊かにするために子どもの人生を支配し、コントロールします。

「子どもの幸せ」のために奔走する親ほど、こわいものはありません。

結婚しない子どもの身を案じて「親の見合い」会場に集まる親たち。
その親たちは子どもが成人してもなお、子どもの人生を支配することを止めようとしません。あろうことか配偶者選択と子孫の誕生という子どもの未来までも手中に収めようというのです。

image_071029.jpg ある本のタイトルではありませんが、最近、つくづくそう思った瞬間がありました。
『朝日新聞』(2007年10月21日朝刊)の「家族」という記事を読んだときです。そこには、息子の縁談のために奮闘する親の姿が描かれていました。

10月初めの日曜日、都内某所のホテルに適齢期になっても結婚しない子どもにしびれをきらした親たちが、「まず親同士で見合いをして話を進めよう」と集まったそうです。その数、なんと160人!

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「観光コースでない沖縄」ツアー

image071018.jpg 思えば私が、沖縄という土地を訪れたきっかけは、高文研という出版社が行なっている「観光コースでない沖縄」という沖縄戦と沖縄の今を知るツアーに参加したことでした。

ツアーでは、ひめゆりの塔や摩文仁の丘など、一般的な戦跡だけでなく、ガマ(沖縄戦のときに住民達が避難した自然の洞窟)に入り、今も散らばる遺品や遺骨と体面したり、米軍基地や日本の「思いやり予算」で建設・運営されている米兵の宿舎なども見たりもしました。

夜は「子どもの声がうるさい」と日本兵に言われ、自らの手で子どもを殺めるしかなかった母親の苦悩、銃剣とブルドーザーで農地を取り上げられた農民の嘆き。今も続く、米軍による暴行事件や基地が近いために起こる事故の報告など、当事者の方々からさまざまなお話を聞きました。

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とびだすぞ! ゆっくりはしってね

image_okinawa_2.jpg そんな、子どもたちがいっぱいいる島で「へぇ〜」と思う看板を見つけました。
小学校のすぐ近くにある路地に立てられ交通安全を促す手描きの看板です。おそらく子どもが描いたのではないかと思うもので、こんなふうに書いてありました。

「とびだすぞ! ゆっくりはしってね」

イケてると思いませんか?

子どもの飛び出し防止の標語としてポピュラーなのは、子ども側に注意を促す「飛び出すな! 車は急に止まれない」というものです。少なくとも私が小学生だった○十年前には、このフレーズの入ったポスターや標識があちこちにありました。

でも、ほんとうは逆のはずですよね?
法律から考えても、子どもを交通事故に遭わせないための義務はドライバー側にあるはずだし、何より「子ども」という存在ーー何かに夢中になったり、目の前しか見えなかったりーーを考えたときに、「子どもの側に交通安全の責任を押しつけるようなフレーズはどうなのか」と、いつも思っていました。

image_okinawa_1.jpg 9月の連休を利用して、沖縄の離島に行って来ました。
はじめて沖縄に行ってから、10数回目の沖縄旅行ですが、今回、初めて噂に聞く沖縄の台風に遭遇。それも「島の観測史上2番目」という大物に出合いました。

人が飛ぶほどの暴風雨で、台風によって建物が揺れるということを初めて体験しました。さらに浸水、停電、雷鳴・・・たたきつける雨でドアが膨張して開かなくなり、部屋に閉じこめられるという経験もしました。

エアコンも効かず、蒸し風呂のようになっていく部屋。最後は、暴風雨のなか愛犬(しかもゴールデン・レトリバー)を抱えて、窓から脱出! とあいなりました。

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全国学力テストに反対する識者のひとりである名古屋大学の中嶋哲彦教授は、全国学力テストを容認できない理由をこんなふうに語っています。

「競争で向上させることができるのはせいぜい得点力。本当の学ぶ力、つまり自然や社会、人間を認識する世界観を獲得する力は育ちません。なぜならそれは人格形成そのものだからです。人との共生、人との関わりの中で人間性を育てながら得るもの。そうしたプロセスがあって初めて、獲得した知を他の人に還元できる人間になるのです」

以前にブログで紹介した愛知県犬山市の子どもたちの様子を思い浮かべても、中嶋教授のセリフはもっともだと思います(「子どもの権利条約が生きた町」参照)。

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こうして改めて見てみると、文部科学省は、長年、教育行政に取り組んできた自らの立場を守るため、本音と建前を使い分けながら、競争を推進する教育「改革」の要となることができる道を探っているかのように見えます。

その立場上、文部科学省はさすがに「競争によって学力の向上を図る」とは公言できません。しかし、経済界がリードし、内閣府が進める教育「改革」の流れに逆らうこともできません。
そのために考え出した策が、全国学力テストを行なって、その結果を検証し、地方行政と学校運営をコントロールするという方法だったのではないでしょうか。

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教育行政の不勉強?

image070910.jpg もし、本当にそう信じているなら、文部科学省は大変な勉強不足です。
なぜなら、60年代の全国学力テストが二度実施されただけで中止となったのは、試験日に成績の悪い子を休ませたりするなどの不正があったためです。
「全員参加にした方が、より正しい学力や学校などが抱える問題を測ることができる」
というのは間違いだと言わざるを得ないことは歴史が証明しています。

そして、そのような過去の教訓を無視して全国学力テストの復活を公の立場で主張したのは、常々「国家の発展のための人材育成には競争意識を高めることが大事」と発言していた中山成彬文部科学大臣(当時)です。
その後、この発言を「待っていました」とばかりに内閣府に置かれた経済財政諮問会議(2005年)や規制改革・民間開放推進会議(2006年)などが「公教育への競争と選択の導入とセットで全国学力テストを行う必要性」を繰り返すようになります。