東日本大震災から6年(2/8)
東京でのオリンピック開催が決定したとき、世の大半は東日本大震災と原発事故の払拭を願い、「あれはすでに過去のこと」と忘れ去ろうとするお祭り騒ぎにわきました。すくなくとも、メディアはそうした状況をたくさん報道していました。
でも私には、オリンピック決定を受けた後、福島の浜通りに住む知人が送ってきた一通のメールが忘れられません。そこには「オリンピックに向けた復興にわく日本のなかで、このまま福島は取り残され、忘れられていくのだろう」という痛切な言葉が書かれておりました。
自主避難者の苦渋
また、福島県は「地域の除染やインフラの復興が進んでいること」などを理由に、避難指示区域以外からの自主避難者に対する仮設住宅や無償での公営住宅の提供をこの3月末で終了することとしています。でも、少なくとも私が知っている自主避難者の方々は「安心して故郷に帰る」などという状況とは、ほど遠いところで苦渋の選択を迫られているように見えます。
先日お目にかかった都内で自主避難している方は、「経済的な事情や行政からの圧迫などで福島に帰ることを余儀なくされている人も多い」と話していましたし、すでに自主避難先で進学した高校生は「父や祖父母を置いて母と子どもたちだけの自主避難だった。原発事故さえなければ、ずっと家族みんなで福島で楽しく暮らしていたと思うし、今もそうしたい。でも学校のこともあるし、今さら戻ることもできない」と語っていました。
前を向くことさえ困難
つい最近、東日本大震災による津波で全校生徒108人中70名が死亡、4名が行方不明となり、11名の教師が命を落とした宮城県石巻市立大川小学校の遺構を訪れた際も、「復興」とはほど遠い現実を目の当たりにしました(写真)。
このブログでも何度か紹介しましたが、大川小学校の悲劇は学校という空間の中で、教師も一緒にいるという完全なる学校管理下で起きた出来事です。津波襲来まで51分もの時間があり、体育館のすぐ裏には、日頃から子どもたちが遊び場にしていた山があり、すぐ動けるようスクールバスも待機していました。
それにも関わらず、なぜ教師たちは「子どもの命を守るために逃げる」という選択ができなかったのか。
市の教育委員会調査や第三者機関による検証委員会も開かれましたが、いずれも「形だけのもの」に終わり(詳しくは『遺族を訴訟に追い込んだ大川小学校事故検証委員会』参照)、今もご遺族の方々の胸からは「どうして愛するわが子が命を落とさなければならなかったのか」という無念と疑問がぬぐい去れません。
残された家族や生き残った子どもの中には罪悪感や後悔のなかで、前を向くことさえ困難な状況が今も続いています。(続く…)